天下布武金融戦記・桶狭間1560

文字数 12,013文字

 也助は尾張織田家の直参弓組の分頭(わけがしら)である。
 弓組には組長以下八人の頭、その頭の下に八人の分頭がいて、分頭は自分を含めて一六人の弓兵を指揮する。
 そして、弓組は弓一番隊から何番隊と組織される。特に信長の直参弓組、直轄の弓兵隊は、後に鉄砲組に改組され、そのうえで手本鉄砲隊という鉄砲の技芸を極めたものたちがいて、名だたる信長の部将の鉄砲隊を指導することになる。
 その点で、信長を語るとき、その直参弓組は信長の天下布武の号令の基盤となる武力の源であった。
 だが、その直参弓組の分頭である也助の背の指物は、髑髏と矢の印であり、その隊の名を『邪弓隊』と呼ばれる。

「右の肩当てがちょっと緩い」
 妻のカシが頷き、紐を締め直す。
 也助の家は、織田軍が常備軍化される前の分頭程度の野良仕事をしながら朝と晩に武芸の稽古を磨く者の家としては、やや貧しい暮らしぶりである。
 先ほどから夜明け前のもっとも濃い闇から、降雨前と思われる湿った風が壁の隙間を縫って、戦の支度をする三人を締め上げている。
「なあ、市兵衛」
 也助は、もう一度鎧、とはいっても竹を編み、紙を糊で固めた上から樹の液で水を防ぐようにしただけの粗末な武装姿で、身体を伸ばしながら傍らの槍を用意している同じような貧しい武者、市兵衛に声をかけた。
「親方様の命は受けた。命がけで、この勝負に出る親方様が、『おまえたちは十分やってくれた』と言葉をくれた」
「そうだな」
「俺は弓を射ることが好きだ。弓を放ち、それが的にネライ通りにのび、的を貫く瞬間が好きだ。それだけが好きで、戦も賭け弓も本当は嫌いだ。
 親方様の命を受けて、何人も射殺してきた。
 俺は誰が誰かわからん。織田家の内紛だのはさっぱりだ。
 だが、親方様に頼まれれば、その通りに射殺してきた。
 殺生は嫌だが、親方様を信じてきた」
「あの祭りの夜からな」
 市兵衛は槍の具合を確かめると、それをおいて、カシが戦のためにと用意してくれた貴重な鶏の卵と飯に一礼した。
「懐かしいな。あのころ、親方様は吉法師とお呼ばれであった」
「俺たちも若かった。あのころ親方様は家督を継ぐとも思われず、うつけと笑われっ放しだった。
 この里に来たのも、この里の池で水浴びをする女どもの裸目当てだった」
「也助、オマエは見なかったな」
「どうにもああいうのは苦手でな。興味がない訳じゃない。でも、あのとき、カシがいてくれたから、そこまで乾いてはいなかった。だから、ばれぬよう見張る役をした」
「あのとき、水浴びをしていた女に惚れて、火照った体が酒を求めた。
 親方様は酒が飲めぬ。だから、茶をくれとこの家に来た」
「そこで親方様は興奮していた。そのときだったと思う」
 そこに、子供のような顔つきの弓兵が一人、灯明の薄明かりに現れ、「頭、支度できました」と告げて円座の上に座った。
 竹と紙の鎧だが、しかし武具には、それも実戦に使う武具には、独特の勇ましさがある。
 それに弓を持つ彼は、凛とした頬に、大きな瞳を、支度しながら話す也助に向けて、上がった息を整えている。
「邪弓隊。もともと、気づかれぬように近づき、不意を付いて射殺する我らの弓にはふさわしい名だ。親方様は言った。我らの一矢で、時をこじあけてくれと」
「邪弓隊はあの夜に始まり、そして幾度の暗殺を経て、そして今朝を迎えたな。
 辛抱したな」
「おまえもだ」
 そこに伝令が入った。分組に伝令が来るなど前代未聞だが、この分組、邪弓隊にはそれだけの配慮がなされていた。
「本隊は熱田神宮に向かいます。貴隊は先発してくれとの仰せです」
「わかった」
 也助は答えた口を閉ざして引き結び、弓を取り、弦に指をかけ、引きを確かめた。
「邪弓隊、行くぞ!」
 八人の弓兵、四人の従槍兵が『おう!』と声を上げた。

 朝といってもまだ闇深いが、この五月の朝は、春にしては、やや風が冷たい。
 しかし、引き締まったその風には、真冬にはない草木の匂いがある。
「的は桶狭間の今川義元!
 一番的も二番的も義元だ!
 ほかは雑魚だ、かまうな!」
「はい!」
「そして、いつもどおり、俺たちが死んだところで、無縁仏にしかならん!」
「はい!」
「死ぬな! 生きて一矢放つまで死ぬな!」
「はい!」

 ちなみに一般の弓兵は徒歩である。騎馬の弓兵もよほどのことがなければ行進射はしない。
 そして、邪弓隊の本領は、地物を観察し、そのもっとも最適な地点に弓兵の本弓・二番弓と、その二人を守る従槍兵を配置し、敵となる武将を射抜くところにある。
 邪弓隊はそこで四つの小組にわかれている。分頭の也助が指揮する一組が先頭に、目的地に進む。
 夜明けはまだだが、すこしずつ空気が変わってきた。
 大軍勢には、気配がある。
 特に、さとられぬように射点を確保し、そっと構えて機を伺う邪弓隊には、その気配は魂をゆさぶる大波として感じられる。
 大軍勢だ。
 事前に知らされていたのだが、尾張攻めの今川の軍勢は、いくつもの砦を攻略する俊英松平元康、後の徳川家康の三河勢を先鋒に、実に二万とも四万とも見積もられている。
 信長には軍師はいなかったとされているが、しかし信長の周りにはその策を立てるための集団がいた。邪弓隊という暗殺に使える狙撃集団とともに、歴史に埋もれた、経済に明るい商家の若衆の集団である。
 信長は吉法師時代、賭場で博打を楽しむうちに、彼らと出会った。
 彼らを表す言葉もなければ、彼らの役割を理解する史家も当時いなかったため、すべては歴史の闇に消えたが、彼らは基礎的な経済学を使うことができた。
 楽市楽座といいながら、良い機能をする座には保護すらした多くの後の経済施策も、彼らが密かに信長に話したことである。
 だが、信長はそれを秘蔵とし、それを明かしたことはなかった。
 腹心の部下にもである。
 そして、その経済の力を生かすことこそが戦乱の世で暴利をむさぼる強欲どもを討ち果たし、働く者に報いる手段だと信長はわかっていたし、のちに出会うルイス・フロイスにしてみれば、なぜ信長が異端児とされるかわからないほど率直で開明的で、合理的であった。
 とくに彼ら、若衆はとある資金源とつながっていた。彼らは、それまであまり使われていなかった力を使うことを見つけた。
 それは、金の貸し借りである。
 ただの借金なら返してしまえばそれで終わりである。金利がついたとしても、返して終わりならそれまでである。
 だが、その借金の証文をさらに貸し借りしたら? さらに、その借金の証文を荷物の代わりに持ち歩き、旅先で再び荷物に替えたら? さらに、その証文の貸し借りすらも証文にしたら?
 そう、それは為替と投資、金融の誕生であった。
 もともとは戦国時代以前、巨大な荘園を経営する寺社仏閣が修行の旅に出る僧侶たちのために考えた方法であった。そのために寺社仏閣は日本のあちこちに同じ宗派の寺社を建立し、地域の平安の祈りをささげながら、旅の僧に宿泊などの世話をしていた。そしてそれが情報網となり、収益組織となり、そして金貸しを始めた。金がなくて出来ない治水工事や開墾事業に融資し、その成果を回収しさらにそれを融資にまわして発展を始めた。そのための金庫として寺社は侵入者に対する防御として門を備え塀を巡らし、小さな城砦のようになった。
 そしてそのために各国の市街に各宗派の寺社が並ぶこととなった。さながら現代の金融機関の支店のように。そしてその寺社の借金を、多くの大名が借りてお仕舞いにするか踏み倒そうとするしかなかった。
 だが、信長とその頭脳集団たる若衆は、その借金を債権とし、戦国の世を制覇する事業への投資を内々に呼びかけた。
 そして、その呼びかけに、とある大口の金主が乗ったのだ。

 信長は正直であった。邪弓隊を作る夢を語ったきっかけの祭りの夜の覗きも、元はといえば肉欲であったし、その若き肉欲を語ることは今に至るまで若者の夜の過ごし方である。そのときの信長の言葉も、また率直であった。
 ああ、あんな女どもを抱きたいなあ。
 あからさまな言葉だったが、それに市兵衛も、ああいう若い女、それも幼型成熟のむっちりした身体は、何とも言えない味がありますね、と答えたのであった。
 それを聴き、也助は、俺もそう思っていたよなあと答えた。
 殿方は大変ですね、とカシは答えながら茶と酒を用意したが、信長は彼女に手を出さなかった。逆に、ご苦労、とねぎらったのだった。
 そのとき、親方様になるというウワサのあった彼、信長を、也助は尊敬した。
 あんなむっちりした女が城にいてな。着物を着ててもわかるから、たまらん。
 そいつがときどきすねをみせやがる。その奥の太股を思うと、辛抱がきつくて。
 ふんじばって襲ってしまおうかと思ったよ。
 信長の声は高く、あたりにキンキンと響く。しかも強い尾張弁だ。
 隠しようのないその言葉には、武芸が好きでありながら、知性でそれを御する人間の豊かさが感じられた。
 そして信長は、どうだ、ちょうど小銭がある、街道の湯屋で遊ぶか? と誘った。
 まあ、とカシは言ったが、也助は『男には男のどうしようもない欲があるんだ』と答え、市兵衛に眼で答えた。
「吉法師どの、やつは妻がおります。お供には私が」
「そうか」
 信長は也助を見つめた。
「おぬしもなかなか見所の多い男だ。あの田畑に立ててある杭、あれは弓を放つときの距離感を保つためのものであろう。裏庭の弓稽古の的や弓づくりの小屋の具合もまたいい。俺は武芸が好きだ。しかし、荒くれた馬鹿は嫌いだ。その点、弓は爽快で良い。どんな荒くれ者も、一矢のもとに仕止められる」
「恐れながら、そうでもありません」
 也助もちょっと濃厚な若者の匂いに、酔ってつい言ってしまった。
「弓を当てるのは力でも狙いでもありません。的にいかに近づくかです。忍びより、間近から放つのです。しかも、放った後は追っ手から速やかに逃げるために従槍の兵に守ってもらわねばなりません。弓とは、時に卑怯なものでもあります」
「そうか」
 信長は眼を輝かせて聞き入る。
「邪な弓か。そうだな。邪弓か」
 也助は頭を下げた。
「弓道などといって、俺も教わったが、本来の弓はそうかもしれん」
「いえ、申し訳ありません、私の勝手な感覚で」
「そうでもないぞ。ちょっと考えがある。
 だが、その前に女を抱きたい。あのたわわにはち切れそうな肉色の身体に槍を突かねば狂ってしまいそうだ。市兵衛ともうしたな、いくぞ」
「はっ!」

 2人は夜に消えた。

 それを見送ったカシは、深く息をして、その後笑った。
「あのお方、欲情してらしたから、私をむさぼるかと思ったのに、意外に慎んでらしたわ。ちゃんとあなたと私に礼をなさっていた。ほんと、ドキドキしちゃった」
 カシはそう言って顔を赤らめる。
「そうだね」
 也助は、カシを抱き寄せた。
「大うつけ 意外なほどに つつましき、ということか。よその国では部下の妻を戯れに痛めつける主もいるという。あんなお方がこの国を治めてくれれば、優しい世が生まれるかもな」
「そうね」

 そして、真夜中の月に照らされる道を戻ってくる声が、聞こえた。
「邪弓隊だ。いいぞ」
 信長の声だった。
「なんですか、それは」
 也助がそう聞くと、信長は話し出した。
 今までの弓道とは全く別の考え方で、敵の急所をねらい撃つ、真の狙撃弓兵隊。
 それが、邪弓隊だった。
 隊列も組まず、少人数で、まさに狩りをするように散開し、二名の弓兵は一人が一撃し、はずしたらもう一人が再射撃する。
 そして、その二名の弓兵が射終わるまえに、別の二名の弓兵が矢を放って援護し、なおかつ射終わった弓兵を従槍兵が守りながら別の射点に移動する。
 それを四組で連携して次々と射続け、敵を混乱のうちに仕止める。
 名乗りも上げず、密かに近づき、密かに逃げ、密かにまた射る。
 その発案に、三人は、身分が違っても興奮した。
 
 そして、也助と市兵衛は、幼なじみの仲以上に連携を考え、身体に仕込んだ。
 もともと也助の家は狩人の家だった。
 だが、也助は峠を越えようとして無理をしたカシに出会い、命を救ったところ、里に暮らしたく思った。
 也助自身、父に連れられて山に入って狩りを覚えたものの、里の人々の暖かさと、冬は凍てつき、夏は虫にたかられる山の生活のめまぐるしさに、心がついていけなかった。
 確かに狩りは覚えた。
 もっとできる技もあるだろう。
 だが、それを毎日は出来ない。
 
 そして、この廃屋となっていた農家に棲み付き、野良仕事と開墾を始めた。
 それにいつのまにか市兵衛も加わっていた。
 市兵衛は、一番槍ならぬ貧乏槍と言われ馬鹿にされていた。
 この戦乱で父母の記憶も忘れていたが、槍の技芸だけは忘れていなかった。
 市兵衛は居候としてカシと也助の家にいて、也助の繊細な弓兵としての手では出来ない力仕事に奮迅し、その3人の家は、食っていける程度には作物も取れた。
 近隣の家とも力を合わせ、豊かと言うほどではないものの、飢えはしなかった。
 だが、土侍の抗争で畑を荒らされることがあった。
 それまでこのあたりでは土侍の悪行を止める者はおらず、本来助けてくれるべき領主は織田家だの斯波家だの家督争いだのとあけくれ、不在が多かった。
 そこで、也助は弓を使った。
 市兵衛が、槍でそれを援護した。
 
 野山を駆けめぐる大猪を一撃で貫く山狩人の放つ矢である。
 荒くれ刃物を振り回して人を脅すだけの土侍には、苛烈だった。
 矢は、一撃で土侍の首を貫き、勢いがその首をはねた。
 土侍どもはおびえきって退散した。
 
 しかし、それを聞いた領主や賭場を開帳する者が、二人を何とか使おうとして、金品をちらつかせた。
 それを二人は断った。
 カシの身体を気遣った也助は子供もほしがらなかったし、市兵衛も野良仕事の作物を売りに行って手にした銭で街道の湯宿屋で湯女と戯れるだけで楽しかった。
 それが、次第に守護大名の斯波家が衰え、守護代の織田家も内紛を起こし、裏切り裏切られと武家の争いがおき、商いを営んだりモノ作りをしたり田畑を営むみなに波及し始めた。
 迷惑な話だ、と皆言っていた。
 よその国では、あまりのひどさに人々がそういった武家を追い出したなどと聞いた。
 でも、也助たちの村では、そういった力は生まれそうになかった。
 也助も、そんなことに関心を持てなかった。
 
 だが、信長の言葉は、也助を動かした。
 若衆で農閑期のみ侍をしているもののうち、何人かを集め、弓を教えた。
 ともに野良仕事をしながら、樹々を意図して見つめることで眼を鍛えさせ、等間隔に打った杭を目標に距離感覚を養った。
 力のあるものには市兵衛が槍の稽古をつけた。
 そして、穂先に布玉をつけた矢と、張力を落とした弓を使い、弓兵2名と従槍兵一名の組を作り、互いを捜しながら射あって、地物を利用する術を学んだ。
 
 それは皆、大きくは口にしなかったが、密かに邪弓塾と呼び合い、はげんだ。
 
 それが進むころ、世の中、尾張の国は変わっていた。
 家督争いが激しさを増し、その争いに投じる金と兵糧の用意をするべく、年貢が増えた。
 皆こらえるしかなかった。 
 そして、祭りの夜に互いの情欲を笑いあった吉法師は、元服して織田上総介、信長と名乗り、政略結婚をしていた。
 
 信長はその後、余り言われないことだが、面をかぶって人前に出るようになった。
 それで、也助に会いに来た。
 黙ってこのものを射殺してくれ、ととある人相書きを見せた。
 驚いた也助に、信長は面を取った。
 
 也助はさらに驚いた。
 あのつややかに、健康そのものだった顔が、老人のようにこけていた。
 すまない、と信長は謝った。
 あの祭の夜が遠くなってしまった。
 家督争いなど、もうたくさんだ。
 それどころか、その外側に十重二十重に戦国の争いがある。
 たまらない。
 信長は嘆いた。
 でも、これを超えない限り、君たちの年貢も増え、田畑は荒れ続ける。
 
 也助は、頷いた。
 
 そして、川狩に出ている武家の男を、也助はその弓で射抜いた。

 信長の策は、そこから一気に進んだ。
 その詳しくは、也助はわからなかった。
 村では多くの衆が噂しあっていたが、誰もそのきっかけの一矢を放った者が也助であることを知らなかったし、彼も言うつもりもなかった。
 ただ、見事射抜いたのにわき起こった何とも悪い後味と、信長の憔悴の顔が、也助を疲れさせた。
 だが、カシはわかっていた。
 次の日には卵を用意し、滋養と愛で也助を助けた。
 
 そんなことが何度もあった。
 また、市兵衛も信長の相談を受けていた。
 織田の槍と呼ばれる長槍の発案は、市兵衛のものだった。
 あとで別の武芸者の仕事とされたが、それは信長が真の懐刀とした邪弓隊の秘密を守るためであった。
 
 そして、信長の戦う相手は、ついに駿河の戦国大名・今川義元となった。
『海道一の弓取り』とされ、公家の血を引き財力にも大きく恵まれた大大名が、満を持し京へ上洛し天下をそのものとするためにやってくる。
 それに立ち塞がる形となった信長率いる織田家。
 とはいっても今川の軍勢は莫大な資金力を背景に、大軍勢をその朝昼晩の食事からシモに至るまですべて賄う物流を携えて行軍してくる。まさに巨大な山が動くがごとくの大事業である。
 それに対し、織田勢はあまりにも数が少ない。まともに戦ったら惨めに蹴散らされるしかない。
 だからこそ、信長と也助は生き残りの策を考えたのだ。
 その軍勢が野山で面として展開している状態であれば、大将である義元へ到達するのは困難だ。分厚い防御網をしく部下の武将に接近を阻止されてしまう。
 だが、それがどうしても地形の都合上、面ではなく『線』になってしまう場所がある。その場所で真横から攻撃出来れば、防御が薄いために義元を狙い撃ち出来る。
 そして総大将を失ってしまえば、大軍であっても行軍の意味を失うばかりか、指揮系統が乱れ大恐慌に陥る。
 その状態を引き起こすことだけが、織田の生き残る唯一の道であった。
 だが、それは容易には出来ない。
 そこで信長は也助に相談した。先行して義元を確実に狙撃してくれ、と。
 そして、也助たちは、密かに地形を研究し、それが出来る場所を見つけた。
 それが桶狭間であった。
  
 今、也助と市兵衛の邪弓隊は、その今川軍の間近に迫った。
 
 その瞬間、也助は総毛立った。
 
 感づかれた!
 
 白み始めた空のもと、手信号で也助は隊を散開させた。
 
 だが、これは違う!
 三河者だ!!
 
 さすがだ、ちゃんと斥候を出して警戒している。
 今川者はもう織田者がここまでこられないと高をくくって休んでいる上に、その先鋒でいくつもの織田方の砦攻めを繰り返し疲れ切っているはずの三河者が、しっかりとがんばっている。
 これは手強い! と思ったときだった。

 オオカミの声がした。
 いや、これはオオカミの声に似せた人の声だ。
 懐かしい、山狩人の暗号だ。
 
 ――我らは疲れきっている。
 貴様たちには負けはしないが、しかしともに生き残れない。
 貴様たちに手柄をやってもいい。
 
 也助はわかった。
 これは、信長もわかってくれるだろう。
 
 ――了解した。
 我々も貴様たちとやりあいたくない。
 我が的は、貴様らとは別にある。
 
 ――本当か?
 
 ――山狩人同士に嘘はない。それが山の掟のはずだ。
 
 ホオオオーン! という素人や武家者には本当のオオカミのものにしか聞こえない雄叫びが、明けつつある空に響いた。
 
 三河者の濃厚な闘気が去っていく。

 ――行くぞ!
 藪の道を、邪弓隊が急ぐ。
 
 濃厚な大軍の気配が、ますます強くなる。
 地形は細長い谷、桶狭間というまさに狭間になっていて、そこで隊列が長細く分散している。
 織田はその今川の軍勢の数を知っていた。
 今川の戦費を、諸国の商人の連携で割り出し、それで人数を推計したのだ。
 商人たちは、今川の古い体質では商いが傾くことを感じ、織田に賭ける者が増えていた。
 大勝負の影では、金も人も動く。
 そして、その大金主も、それに投資することとしたのだ。

 頭!
 
 二の弓兵が合図した。
 
 何でありますか、妙な気配が。
 
 ああ。喇叭(らっぱ)だ。
 
 いわゆる後に言う『忍者』すらも信長は味方にしていた。

 ――熱田神宮を出発した本隊は全速でこちらに向かいつつある。
 昨晩から義元の本陣を監視していた。動きはない。
 だが、我らの仕事はまだだ。
 おまえたち、邪弓隊の誘導まで仕事のうちになっている。
 
 茶色と緑の不思議な模様の影が、くぐもりながらも通る声で言う。
 
 お互い苦労するな。
 
 也助はねぎらった。
 
 卑怯者と使い捨てにされてきた我らを拾ってくれたのは、織田と三河だけだからな。

 熱田神宮では必勝祈願が行われたとされるが、そこで待っていたのは、伊勢神宮のものだった。
 そう、神宮衆と密かに呼ばれる、伊勢神宮系列の金融集団である。
 彼らは熱田神宮で信長に祈祷を授けるとともに、契約をしたのだ。
 軍資金の代わりに、天下を平定し、かれら神宮集の望む世を実現するという契約を。
 世に魔王と呼ばれるとしても、その目的を完遂する契約を。
 信長はその契約に、承認の花押を書いた。
 もう、引き返せない。
 だが、それは彼の覚悟の上であった。

 そのとき、也助一行はついに桶狭間を見下ろす稜線の間際まで迫った。
 ご苦労、とささやき声で喇叭と別れた邪弓隊は、織田本隊の迫る前に義元を仕止めるために、言葉少ないながら、射点を決めた。
 
 第一射はだれ、あの茂み。
 続いてはその左側の木陰。
 
 訓練を積んだ皆である。すぐに理解した。
 
 この矢にすべてかかっている。
 仕止めろ。稽古のつもりで、皆でやれば必ず仕止められる。
 それと。
 
 皆が一度止まった也助の口元に注目した。
 
 矢を射ると思うな。
 手を弓と矢を添えるだけで良い。あとは弓が矢を自然に送り出してくれる。
 
 皆が頷いた。
 そこまで皆、熟練しているのだ。
  
 也助は本当は一番弓になりたかったが、年長者として皆を連れ帰るため、末弓となって皆の射点転換を全て援護できる後方の茂みに位置した。
 皆、具足と呼ばれる武装の上に、網をかぶり、小さな褐色の布切れをまとって偽装している。
 それが黎明と呼ばれる夜明けの暗がりを移動する。
 訓練し、闇になれていないと道すら見失う。
 それを通り、ついに今川義元の旗印まで、矢が届く距離よりも近く、旗印の下で三河者の活躍の話をサカナに宴をしていた今川者の顔が見えるほどに接近している。
 
 一番弓、二番弓、三番弓と、三人ずつ進んでいく。
 皆、よく也助の教えを守っている。
 なんともじりじりする一時一時である。
 とくに、こうやって気づかれていないようなときが一番危ない。
 気のゆるみが入りやすい瞬間だからだ。
 緩んだ瞬間、この敵陣の奥深くで生き残るすべは全くなくなる。
 待つのは容赦ない斬殺の運命だけだ。
 
 一番弓は、それでも陣幕の中が見下ろせる本陣の屋根まで進むことにしていた。
 
 うまい!
 音も立てずに、屋根に登った。高所を確保するのは射撃の鉄則である。
 従槍が、小さく合図をした。
 一番弓の従槍は、一番気心知れて、武勇もある市兵衛である。
 
 ところが、そのあとに也助はぞっとした。
 その真下に、今川者が現れたのだ。
 
 也助はすぐに援護のため、弓を構える。
 也助の次に援護の矢を放てるように、側弓と呼ぶペアの弓兵も構える。
 
 今川者は気づかず、屋根の下の壁に立ち小便を始めた。
 のんびりとしたものである。
 しかし、也助の弓は、ぴったりと彼に狙いを定めている。
 
 さらに窮地に陥った。
 もう一人今川者が小便に来たのである。
 
 市兵衛たち一番弓は、退路の屋根の下をふさがれた。
 
 也助は息を整えた。
 
 一気に2人を自分と側弓で射殺してしまうか。
 そうはうまくいかないだろう。
 人生でそれを学んだ。
 神仏に頼みたいが、この射線上にとらえられているとも知らない今川者にも、神仏がいる。
 神仏は平等だ。だから頼まない。頼むときはよほどのことだ……それが信長の言葉だ。
 その信長の本軍が、もうすぐここに雪崩込む。
 それまで息を潜め、待つか。
 本軍! 親方様!
 
 そのときだった。
 狩衣!
 
 その公家の優雅な服装をした男がその小便の武家のもとにやってきて、白く息を吐きながら小便を始めた。
 
 今川義元だ。間違いない。
 
 迷いはなかった。
 
 絶望を、時を変える矢を、放つ。
 
 合図とともに、4群の弓兵が、まず第一射4本の矢を放った。
 
 まっすぐに走ったそれが2本、義元の身体に突き刺さった。
 
 しまった!
 急所をはずしたか!
 
 義元は苦悶から身体を折り曲げながら、自分を射抜いた弓兵を捜すそぶりをみせた。
 一瞬、その強く鋭い視線が也助をかすめた。
 しかし、それが、くるりと回転し、天を仰いだ。
 
 側弓がその強い視線を浴び、吐息を変えそうになった。
 
 まだだ!
 也助は矢を矢筒から引き、すぐに第2射を射られるようにし、側弓もそうした。
 4群の邪弓隊は、標的をとらえても、まだ息を潜めていた。

 義元は、どうと倒れた。もう息はなかった。
 それに今川者が驚いているが、酒が深かったのか、狼狽しながらよろけている。
 
 左の武者、一撃で。
 
 目標を小声で指示し、也助はその第二射を準備し、その後で側弓がはなった。
 ひょうっ! と小気味良いはずの弓の弦の音が、残酷に鳴り、その武者の胴を貫いた。
 
 もう一人、市兵衛の一弓の下で小便をしていた武者も、続いて射抜かれた。
 
 物音に気づいたのか、本陣の内の気が騒ぎ始めた。
 撤収!
 市兵衛が視線をこっちに向けた。
 大将首は取れない。
 くれてやれ。
 ほしいだろうが、それをゆずるのが、わが邪弓隊だ。
 
 市兵衛は納得し、一弓の弓兵2名と離脱のすきを探り出した。
 
 どうやって脱出させる?
 目標に近づきすぎた。
 義元狙撃は成功したが、これはまずいかもしれない。
 脱出出来ない! かといって見捨てるわけには行かない!
 ともに訓練を積んだ仲間なのだ。
 ともに帰る! なんとしても家族の元へ帰る!
 なにか、まだ方法はあるはずだ!
 也助は必死に考えた。
 
 そのときだった。
 法螺貝の音が一斉にわき起こり、それまで邪弓隊が張りつめていた気配の線をかき消すような大音声で桶狭間を埋め尽くした。
 
 やった! 本隊だ! 親方様だ!
 
 ときの声とともに、稜線を本隊の兵がなだれて今川本陣に突撃する。
 もう義元の命はないが、しかし、彼らが本当の、誰でもわかる歴史を作るのだ。
 
 だが、その歴史を開く矢を、放った。
 
「撤収!」
 邪弓隊は背に畳んでいた旗指物を立てた。
 織田の紋と、髑髏に矢の邪弓隊の指物だ。
 本隊が槍を突き出しながら、ついに今川の本陣に突入した。
 彼らが、邪弓隊の織田の紋に先を越されたことに悔しがろうとした。
 だが、市兵衛が大きく合図した。
 その先に、息絶えた義元がいた。
「今川義元、討ち取ったり!」
 勝ちどき、歓声が上がるなか、邪弓隊はそっと射点を去り、本隊を残して撤収した。
 
 邪弓隊の任務は終わった。
 弓をおろし、存在を知られることなく撤収しようとしたそのときだった。
 信長の旗印がやってきた。
 親方様!
 見上げたみなに、騎馬の信長は、その若々しい顔を上気させ、馬上で片手を突き上げて答えた。
 おう!
 邪弓隊の皆が、潜め続けてきた声を上げた。
 
 やった! やったぞ!
 
 信長はうむと寸時頷くと、そのまま本隊を率い、桶狭間に駆けていった。

  *
 
 公式には、義元の首を取ったのは毛利新介で、しかも義元は最後の抵抗で彼の人差し指にかみつき、食いちぎったとされる。
 
 だがそれは後の講談で脚色された可能性もあり、その真相は不明であり、邪弓隊の活躍は、多くの狙撃チームと同じく、歴史の影に秘されている。

 ちなみにこの『桶狭間』が実際はどこか、実は平成の今でも確定していないのだが、現在はそのひとつの説に基づき名古屋市緑区に桶狭間古戦場公園がありそこに義元戦死之地碑が立てられている。その周りは名古屋の住宅街で、向かい側は郊外らしいホームセンターとなっている。のどかな都市近郊の風景だが、ここで多くの兵が苦しい現実と戦い、夢を見て、そしてあるものは倒れ、またあるものは生き残り、今に至る繁栄の歴史を築いた。信長も也助も、そして義元もその一人であった。
 我々もまた、彼らと同じく、今もその思いを受け継いで絶望と戦っている。

〈続く〉
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