天下布武金融戦記・天正六年の行方不明1578

文字数 13,707文字

「光秀は来年で五十歳か」
 信長はそう言いながら、御殿のように豪華なこの寺の部屋で、側の者に手伝われて出立の身支度をしている。
「さようでございます」
「そうか。年の話などしたくないのだが。光秀、気付いておったか?」
「なんでしょう」
「卯月のことだ。今日は姿を見せぬが」
 卯月とは信長にいつも従っている腹心の女武者である。
「そういえばそうですね。いつもおそばにいるのに」
「余の第一の腹心だからな。あの気高く美しい整った顔に、装束を着てもわかる形の良い胸に艶めかしいすらりとした脚。余の腹心でなければ、すぐにでもふん縛って、あの身体を奥まで深く味わいたくなる」
「それは卯月の聞こえるところではとても話せないことです」
 光秀はそう注意する。
「とはいえ、光秀、お前もそれを思わなかったか?」
「いえ、私には一生を誓った妻がおりますので」
「でも、それは建前であろう」
「いえ、妻を愛しておりますから」
「建前であろう」
「妻に申し訳ないので」
「建前であろう」
 光秀は信長に詰められて、ついに言った。
「はい、正直。あのすらりとした脚はけしからんと思うてました! 何度あの胸をもみしだきあの口を吸いたくなったかわかりませぬ!」
 光秀は思いきって告白した。
「よう言うた! それでこそ男というものだ!」
 信長は大声で豪快に笑った。
「蘭丸、其方もそうであろう!」
「えっ、それは」
「正直に申せ」
「はっ、正直、私もあの華奢な身体を組み伏せて背中からあの形の良い尻をつかんで思い切り腰を打ち付けたらどんなに快楽が大きいかと思い、何度も夜中昂ぶっておりました!」
「蘭丸」
「はい」
「それは下衆過ぎだ」
「ええーっ!」
「そうだな、光秀」
「ええ。それでは卯月が可哀想です」
「ええーっ!」
 猥談をしていたのに自分だけ下衆扱いされた蘭丸は驚いている。
「冗談だ」
 信長と光秀は笑う。
「ええーっ!」
 蘭丸は顔を真っ赤にして膨らませる。
「よいよい。蘭丸も血気盛んな若さだ。それぐらいには思わぬとやっておれぬであろう」
「……恐れ入ります」
「そもそも、並みの女ではああは行かぬ。しかも、あの卯月は歳を取らぬからな」
「そういえばそうですな。我らは歳を取りましたが」
 光秀はそう言いながら、一瞬寂しさを感じた。
「悲しいことだ。身体の衰えは避けられぬ。どんな人間もそうだ。人生五十年というが、上杉謙信も五十を前に倒れた。武田信玄も五十をこえて大勝負に挑んで、我らを下した直後に倒れた。そして家康や秀吉は我らより若い。きっと、この天下を真に支え、真にものとするのは彼奴らであろう」
「親方様ではなく、ですか?」
「余には残された時間が少ない。すでにもう四十五だ。あと五年で何が出来るか。石山本願寺攻めも現状うまくいかぬ。九鬼に打開策を頼んだが、相変わらず一向一揆もたまらんしな。皆になで切りにせよといったが、皆がそれをやるのが苦しいのはよくわかっている。しかし、やらねばやられる。一揆の連中はそういう奴らだ。並みの神経では持たぬ。連中は戦場で情けをかけて感謝されるものどもではない。それが身分というものだ。下にいる者、とくに一揆を起こすほどまでに踏みつけられた者の恨みとはそういうものだ。ましてそれを起こせば上手く行くとそそのかす者がいればなおさらだ。戦を起こして殺されれば極楽浄土へ行ける、その巻き添えに侍を殺せ、とそそのかされれば、裏切りだまし討ち卑怯になんのためらいがあろうか。逆にこちらは人である以上、人をあやめることにどうしても抵抗がある。それを超えると殺戮は加速して止めにくくなる。そこで軍の規律を保つ指揮がどんなに難しいか。まさしく非対称紛争だ」
「一向宗の恐ろしさですな」
「宗教は恐ろしい。『信じる者』と書いて『儲』だ。 我らの金主・伊勢神宮衆は『大麻』という証券の単位で債権を取引する方法で動いている。そして日本はその投資の相場を賭場のようにやる者が増えた。それにつけ込んでその相場をひっくり返すのもまた大金主だ。延暦寺もその一つだった。光秀にはあの征伐のとき、苦労をかけた」
「でも、実態が解明出来て良かったと思います。多くの禁を延暦寺は自ら犯しておりました。女もいれば大量の酒の備蓄まであった。ろくに勤行もしていない。あれでは日々平穏をと祈る民が救われない。なで切りにしたあと丁寧に運んで弔いましたが、私は心中とても複雑になりました」
「そうだったな」
 信長は身支度を終えた。
「では、ゆくか。ここから堺までそれほどかからぬ道中であろう」
「そうです。しかし卯月は」
「どうしたんだろうな。まあよい、きっとまた現れるだろう。つかみ所のなさもあるしな」
「神秘的と仰ってやってください。せめて」
「そうだったな。余より光秀のほうがそういう言葉選びがうまい。堺での余の口上の文案の作成、頼んだぞ」
「かしこまっております」
「我が織田水軍となる九鬼の船が入港出来たら、きっと後世にも残る口上となるからな」
「御意であります」
「金主も大勢堺で同じく九鬼の船を待っておる。行かねばならぬ」
「そこに主催の親方様がいらっしゃらないことは無用の混乱を」
「泣く子と金主には勝てないのだ。戦国武将も金の前には無力、金の奴隷と言うことだ」
「しかし、伊勢神宮の式年遷宮の再開も、親方様がしっかり稼いで伊勢の『大麻』総額が値上がりしなければ、どうやってもあり得なかったのです。親方様は必要とされておるのです」
「そうか、必要、か」

 道中、信長に一報が届けられた。
「なんだと、雑賀衆が九鬼の船団を待ち伏せすると?」
 也助が伝えたのだった。
「はい。雑賀衆の船が多数、九鬼水軍の経由する和歌山沖にでたとのことであります」
「まさか、卯月はそれに加勢するためにいなくなったのでは?」
「光秀、それは卯月の背中に翼でも生えなければ、時間的に無理であろう。それに九鬼は初めての目通りの時、余に、毛利水軍を蹴散らす織田水軍を建設すると大見得を切ったのだ。あの顔は本気だった。余はああいう者が好きだ。その本気の顔も。家康と同じぐらいの歳であの顔つきの九鬼だ。きっとやってくれる。信じて堺に向かうぞ」
「承知!」
「九鬼の話では、九鬼が建造した鉄甲船はこれまでの軍船とは、なにもかも違うらしい。楽しみだ。木津川口では前、我が水軍は毛利水軍に手酷くやられたからな」
 木津川口は大坂(当時は大阪をこう呼んだ)の本願寺への水運の出入り口であり、織田水軍はそれを封鎖する作戦を仕掛けた。だが毛利水軍、特にそれに加わった村上水軍に突破を許し、目下本願寺の陸上からの包囲に成功していてもその水運による補給路があるため、本願寺攻めは全くその性向の目処が立っていない。
「焙烙や火矢に軍船が散々焼かれましたからね」
 焙烙はこの時代に使われた手榴弾である。
「ああ。その上希臘の火の火炎放射まで使われたと聞く」
「そしてそれを調達し、三好や毛利に供給しているのが」
「ああ。堺だ。堺は世界の物資珍品財宝が届く海の道の終点である上に、あそこの者はよく働く。あそこの鉄砲・堺筒は月に千丁単位で量産される。それゆえ長篠のときに調達が間に合ってくれた。あれほどの数の鉄砲をあの短期間で無事納品してくるのは堺だけだ。三好三人衆が好き放題で来たのも堺の財力と生産力あればこそだ。その三好を駆逐出来たのも、あの本圀寺のことがあったからだ。光秀、あのときはよくやってくれた。あのときの焙烙も希臘の火も、思えば堺の用立てたものかも知れぬ」
「恐縮であります。とはいえあのときお守りした義昭様は、その後追放することになりました」
「奴に様など付けずとも良い。奴には人の上に立つ資格、度量がなかった。それだけのことだ」
 そう言いながら信長は脚をさする。
「まだ痛みますか」
「ああ。まさかあの距離で狙撃されるとは思っていなかったからな。雑賀衆にも光秀のような鉄砲の名手がいるのだろう。くそ、今頃になってまた少し疼きやがる」
 つい最近の戦で信長は傷を負っていた。光秀は自分の救出のための意味を持っての突進のときに狙撃されたと聞き、愕然としていたのだった。
「親方様は部下を鼓舞するためとはいえ前に出すぎなのです」
「戦では、いつも後ろで待っておるのがじれったくてな。自然と前に出てしまう」
「それは抑えてください。親方様を失っては皆が困ります」
 光秀は辛かった。彼にとって自分のために傷つく人間がいることは、自分が直接傷つくより遙かに辛いことなのだ。
 そして、信長のこういう情の厚さを知っていた。たしかに光秀を苛烈に叱責することもある。それは端から見れば恨んで当然な者かも知れない。しかし光秀にとっては、叱責の意味に思い当たるたびに、『あっ』とその信長の洞察の深さに感銘するのだ。
 感情も激しいが、それも洞察が並外れて深い者の宿命なのかも知れない。鋭く真相を理解しているのに、それを訴えても誰もそれを理解せず、誰もが理解のないまま滅びていくのを見るのがどんなに辛いことか。幼いころの信長は、多くの者がその先に地獄しかないのを知らず、地獄があるぞと信長が知らせても無視し、その結果その通り地獄へ落ちていくのを見る繰り返しだったのだ。
 その積み重ねの人生の中で、もう知らせて助けるより、問答無用に戦ってその結果助けて恨まれるほうを選ぶしかなかったのだ。恨まれてもかまわぬ、この命ある限り精一杯のことをしよう、と。それを理解出来ぬ者は力ない頃は『おおうつけ』とさげすみ、力を得たら『魔王』と怖れる。なんと無責任な評価であろう。なにも本質を見抜いていない。
 信長には真の理解者はいない。これまでも、今も、これからも。なんという孤独だろう。そのことを知っている光秀よりも信長の理解の方がはるかに深い。だから、光秀にとって、それがなおさら辛いのだ。
 だから、可能な限り理解者でありたい。それは光秀もまた、比較にならないと自覚しているが、そういう心根を持っているからなのだ。
「痛み止めの薬を用意しますか」
 光秀はその思いをグッと飲み込んで申し出た。
「いや。それより卯月はどこへ行った。どうにも気に掛かる。どこかに拘束されているのではないかと思うと胸が痛む。卯月はあのとおり気高い女武者だ。囚われ辱められるとしたら、自らを『殺せ』と言いかねぬ」
「女は辱められると男以上に深く心が傷つくもののようです。いっそ殺された方が良いと思うほどに」
「それでもなお、酷だとしても卯月には生きて欲しいのだが。也助、卯月を捜してくれぬか」
「承知しました。喇叭どもにも協力を頼みます」
 也助はそういうと、さっと去って行く。
「それでよい。くそ、疼く。これは温泉にでも浸かればよくなるのだろうか。信玄は幾多の戦傷が随分それで助かったと聞いた。本願寺攻めが目処ついたら甲斐に手を付けたい。甲斐を攻めるなら、温泉で湯治もしたいものだな」
「もしかすると」
 蘭丸が言う。
「卯月は堺の者に囚われておるのではないでしょうか」
「それは何故?」
「それは、親方様が堺の自由を奪おうとしておるからです」
「蘭丸、お前は余の考えをそう思っておったのか? 余は堺の大口の客でもあるのだぞ。自らの最大の客を殺す商人がいるだろうか?」
「いえ、親方様は自由をただ奪うような狭量では決してありませぬ。大きな視点からつねにお考えです。ただ、堺の連中にはそれがわからないのかも。なにしろあの三好三人衆を長い間支えてきた連中ですし」
「そうかもな。余は魔王と言う事になっておるからな」
 信長の顔に一瞬寂しさがさした。やはり……。光秀は胸が痛んだ。
「まあないとおもうが、もし本当に堺の者どもが卯月をそうしていたら、余はためらうことなく真の魔王となって堺を焼き、町民を女子供に至るまでなで切りとするぞ」
 続いてそういう信長のその気迫に、みなは震え上がった。それには、もう長い付き合いになる光秀でさえも、背筋が凍った。
「まあ、そうせずにすめば、それが一番だが」
 信長は微笑み、光秀はその内心が一瞬わからなくなった。

 信長の一行は堺を目指して進んでいく。
「我らの資金源になっている相場の単位『大麻』には、多くの人の涙も血が染みている。世も恐ろしくて扱うときはゾッとする。その『大麻』相場のために戦もした。全てはこの日本で争いが無用に続かず、安定した成長でみなが豊かになるためと思っていた。時代が行き詰まったとき、解決は二つしかない。一つは行き詰まってどうにもならない富の偏在を吹き飛ばす戦争、もう一つは行き詰まりが馬鹿らしくなるような飛躍的な便利と豊かさを作る発明。この二つは密接につながっているし、この二つのどちらも金がかかる。その金の流動性を上げるために、『大麻』が発明された。その相場はその様子を旗や狼煙(のろし)で伝える合図屋の情報網が発明され整備されることが必要だった。その合図屋の妨害と警護でまた戦も起きている」
 移動のさなか、信長が口にした。
「そう考えると戦のない世の中というのは本当に作れるのか? と思えてくる。相場の発明は相場に手を出した結果の首つりも発明してしまうからな。相場に手を出させて手数料を稼ぐ奴もいるし、そういう奴はやいのやいの言って売り買いを頻繁にさせて儲ける。だが、中には半分詐欺に遭ったような感覚で『大麻』を余が桶狭間で契約した頃に買わされたばあさんの息子娘は今頃どれぐらいの金持ちになっているだろう。ばあさんが『大麻』を買っていたとも知らずにそれを捨てているかも知れない。相場が立ち上がって値がつり上がったときに骨肉の騒動になった者も多いだろう。そして、何も知らずにばあさんに孝行していて、あとで『大麻』を見つけて換金して驚く者も」
「相場は恐ろしいです。禍福も喜怒哀楽も凄まじく加速されます。ついていくのが難しいほどに」
 光秀も頷く。
「それがこの世というものなのだろうな。だから浄土への成仏を願う気持ちもわかる」
「そうですね」
「おっ。あれが堺だな」
 ついに堺が見えた。
「周りは二重の壕、その中心に家々と、あれは作業場だな。鉄を作る炉や煙突も見える。あれは伴天連の寺の尖塔だな。それを高い城壁と見張り塔に守られている。見たところ見張りの動きもよく訓練されているな。なるほど、皆が噂する新しき都だ。その自らを自らで治めることを信条としているとも聞く。たしかに進んだ精神だ」
「そうですね」
「遠い未来は他の町もそうあるべきかも知れぬ。だが、同時に高利貸しの町でもある。あの町の衆に金を借りて返せずに首を吊るものもいる。世を治めていくとしたら、それもなんとかせねばな。それと、口上の案は出来たか」
「はい、こちらにございます」
 光秀の作文を信長が読む。
「この入港行事を『大船御覧』という名前としたのだな。さて、九鬼は無事雑賀衆を蹴散らしてこのとおり入港出来るだろうか」
 信長は伴天連のフロイスより献上された遠眼鏡を再び覗く。
「おお! でかしたぞ!」
 信長は喜びを現すと、遠眼鏡を光秀に貸した。
 それを覗くと、堺の港に、今まさに、日の丸と織田の永楽通宝紋の旗を掲げた大きな黒い軍船が六隻、様々な色の多くの旗で華やかに飾った堂々たる姿で入港しようとしているのが見えた。
「九鬼の奴、しっかりやりおったな。これは褒美をやらねばな。大口を叩くことだけでも難しいのに、それで事をなすのは並大抵ではない。余はそういう才覚ある者が好きだからな」

 絢爛たる装飾を取り付けた鉄甲船の入港で、町は華やかな祭りのようになっている。鉦や太鼓が鳴らされ、歌が歌われ、人々が歓喜の声を上げている。
 そこに信長が入る。
 町の入り口の橋と城門では、すでに堺を自治する会合衆の筆頭が、正装になって護衛の兵とともに待っていた。
 さっそく護衛兵の儀仗が始まる。
「卯月様が先に堺入りしておりました。しかしさきほどから姿がまた見えなくなっております。どうにもお美しい方ですが、正直、つかみ所のなさもございますな。気配を消す術でもお持ちのでしょうか。フッと現れ、ふっといなくなるので……」
 儀仗をうける信長は、さらに心配していた。
「卯月様は、いったいどういうお方なのです? あのような装束を見たのは、堺で外国の船とその乗組員を見なれていても、まったく初めてです」
「そうか。卯月は余が吉法師と呼ばれていた頃からずっと側にいたのだ。そして彼女は歳を取らない」
 そのとき、儀仗が終わった。衛兵の頭に促され、信長と筆頭は一行を連れて堺の街中に入っていく。
「不思議ですね。彼女はこの堺で『七夕祭り』を廃しようという話があると聞き、黙っていられなかったので、その真の由来を説きにいらしておりました」
「そうか。七夕はのこさねばならぬ祭りだからな。我々の知恵の証だ。であろう? 光秀」
 光秀はうなずいた。 
「そうです。高度な数学の結果導き出される歳差暦の存在を示すものです。だからスペイン・ポルトガルも我々を見下すことが出来ない。あれは五千年前の彗星落下の大洪水の慰霊と記憶なのです。それを残したんです。祭りと、星空を使って」
「どうにも理解しがたいです。聞いてもさっぱり。とはいえたしかにポルトガルもスペインもわれらを蔑まない。鉄砲もなにも全て向こうが進んでいるのに」
 筆頭は眉を寄せる。
「その担保が歳差暦なのです。季節で、時間で星の位置は変わります。ですが、時間と季節を決めても、星は長い間に少しずつずれていきます」
「年単位でずれるのですか」
「そうです。二万六千年で一周するそのずれの中で、そしてその彗星落下の年を残し、その落下の周期を残し、再びの災厄に備えるのが七夕の真意であり、また日本神話でもあります」
「聞いてもやはり途方もない話で』
「その周期を測るには天文学と数学が要りますからね。しかも昔から数学は国家の根幹です。大土木事業、国家会計とその予測、そして文書をやり取りするにあたっての暗号化と復号。全て数学があってこそです。その数学の水準を示すのが建国神話だった。星の正確な位置を観測し、その年単位での移動を精密に作図し、そこから星座となった神々の動きを物語にした」
 光秀は筆頭の理解を伺った。
「子供たちがあどけなく歌う神話の歌に、その数学の結果が残されているのです。そしてそれを知った他国はどの程度の水準の科学を持っているかを察知してどう関係するかを考えた。滅ぼすか、油断ならぬと備えておくか、それとも敵に回すよりはと同盟を結ぶか」
「そんな話は聞いたことがなかったです」
「聞かせるわけがありません。この神話はただの絵空事に似せた、精密な計算による暗号なのですから」
「それをどこで知ったのです?」
「浪人時代、私にも色々ありまして。恐縮です」
「まあ、深くは聞かないでおきましょう。本当に彗星が落ちてきても我々にできることはほとんどない。ただ、七夕の行事は確かに残した方が良さそうだ。はるか未来に、人は正しくその彗星落下の災厄を軽減する方法を見つけるでしょうから」
「御意にございます」
「しかし、季節によって日の出と入りの間が長くも短くもなるのだが、それで夜の正確な時刻をどうやって知っているのでしょうか。まさか、鶏、でしょうか?」
「そうです。鶏の鳴く時間は季節が変わっても、実は同じ時刻なのです」
「たしかに寺では線香で時間を図り、昼の時間と夜の時間を六つずつに区切っているが、あれは伸縮しますね」
「そうです。そしてその数学を鍛錬するのも彼ら寺社です。金利の決定、利回りに基づく計算、寺社の造営補修、そして荘園地域の水利や治水も計算なしにはいきません。そしてその計算こそ、かれら寺社の権威と富を成立させている」
 光秀はそう結論した。
「歳差暦に基づく建国神話は、その数学的証明を天文事象を通じて示す物語であり、国家の技術水準を天下に知らしめる大事なものだ。その数学の力を持つことが、神宮衆始め各寺社金主の優位を形作っている。彼らの数学無しに土木工事も金融の利率管理もあり得ないからな」
 信長はそう言うと、息を吐いた。
「正直、腹の立つことも、理不尽なこともあるがな」

 入港した鉄甲船に信長が乗って、その出来映えを確かめることになった。
「なるほど、これで雑賀衆を一蹴したわけだ。武装は大筒に長鉄砲。それぞれ台座に固定して照準しやすくしてあるのか。防御は鉄板か。鉄板を張れば船の重心が上がり転覆するかも知れないと思っていたのだが」
 九鬼が説明に当たる。
「その着眼はさすがです。普通に鉄板を張れば重くなる。重たく重心の高い船は不安定になりうまく操船出来ません。かといって張らなければ毛利水軍の焙烙火矢に焼かれる。先の大阪湾海戦で多くの船が火をつけられ、せっかく包囲していた本願寺への毛利からの補給を許してしまった。我々はその水上補給路を断つために、燃えない船を作る必要に迫られたのです。そのためには鉄板のごとく燃えず、かといって鉄板より軽い材料が必要なのです」
「まさか、木に塗ると燃えなくなるようにするような、便利なものがあるのか?」
「はい。製法は極秘ですが、調達しました」
 九鬼はそう言うと、傍らの黒い板を、船上の火桶の火のなかにつっこんだ。
 そしてそれを引き抜く。
「完全に燃えぬようには無理か。しかし黒くてわかりにくいが、炭化はせず強度もしっかり残っている。難燃化か」
「難燃性、すぐには燃えないようにするだけで海戦では十分有利です。船が焼かれてはとても戦いようがありませんから」
「なるほど」
「さらにこの新しい大船には工夫があります。皆様、是非ご覧になってください」
 皆はぞろぞろと船の船楼、高いところに移動する。
「船の中が仕切られておるのか!」
 信長も気付いた。
「これでは兵たちが櫓をこぐのは苦労ではないのか? 往き来が辛いと思うが」
「沈められるよりはマシです。以前の船、安宅船は箱舟というべきもので、ちょっと船底をぶつければ水漏れがすぐに全体に回って沈むしかない。ぶつけ合いも出来ない。図体の割に脆弱な船でした」
「そうか。船が一つの箱ではなく、中に箱がいくつもあって区分するようにすれば、船全体が頑丈になる!」
「しかもその区分する壁の重さで重心が下がる!」
 口々に皆が理解していく。
「その分鉄板をさらに上に張れます」
「素晴らしい。いいところだらけではないか。これで毛利水軍など容易に蹴散らせるであろう。九鬼、よくやってくれた!」
 感心する信長に、九鬼はかしこまって頭を下げた。
「この難燃材料を作った化学も数学無しには無理です」
「それも卯月の知恵か」
「そうです。実際作るためにはかなりの高温高圧に耐える容器も要りましたが、卯月様のおかげで調達できました」
「卯月……しかしどこに行ったのだ」
 信長はまた思案している。
「しかしそれを実際に作った九鬼、貴様もなかなかの男だ。褒美をやろう。蘭丸、感状を書いてくれ。ここまでの出来映えとは余は思うておらなかった」
 蘭丸はかしこまって支度を始めた。

 そして、正午ごろ、この織田の鉄甲船『日本丸』以下六隻の入港に伴う一連の行事、『大船御覧』の始まりの口上を、堺の町の中心広場で信長がすることになった。今流に言う基調演説である。
 信長は天下布武についての考えを宣言した。
 その後、講演として神宮衆が登壇、『大麻』の取引相場とその先行きに関する説明、堺の会合衆から鉄砲戦術とそれに対応した城郭防備の説明が行われる。
 そのあとはその信長以下の知恵者たちの分科会講演、町の中心では演武や演舞が繰り広げられた。そして夜は宴、晩餐会が予定されていた。

 口上が終わり、海を見ながら、みな寸時の休憩を取っていた。
「卯月がいてくれるから、余は安心して何事にも当たれたのかも知れぬ」
 信長は、寂しそうに言った。
「これで大阪湾の制海権は手中に入る。あとは石山本願寺の陥落も時間の問題となるだろう。目処が立った。しかし、時間がなさ過ぎる」
「そこまで生き急がなくても」
 その時、見物の町人の雑踏の中から悲鳴が上がった。
「上総介、ご覚悟!」
 声がかかった。
 しまった、鉄砲が来る!
 即座に信長一行は防御態勢を取る。小姓たちが皆、折りたたみの鉄板を構えその身ごと信長を守る盾となろうとする。そして光秀たち武将が抜刀する。だが、この時点ですでに護衛としては負けに近い。もっと前もって情報網にこの襲撃を察知しておく必要があったし、それを行うのが光秀と也助の仕事なのだ。
 也助、どうした! 山狩人の勘と力は、この大きな町では通用せぬのか!
 光秀もかまえていたが、なにかがおかしい。
 同じように会合衆の筆頭もまた護衛に守られているが、脱出が出来ないでいる。
 だが、これは堺の手の者ではない。自らの頭領もろとも敵を撃つのは愚策の極みだ。
 ということは!
「三好!」
「いかにも! 三好長逸ここにあり!」
 大声の名乗りとともに、あの三好三人衆の筆頭が現れたのだ。
 なんと! あの本圀寺の変を仕掛けて撃退されて以後、勢力を弱め続けて摂津中嶋城での戦いで深傷を負って行方不明となっていたはずなのに!
「お命頂戴!」
 続いて鉄砲を構えた町人装束が見えた。射線上には集まっている一般の町民が大勢いる!
 狂ってる。自らを支えてきたこの堺の人々もろとも撃ち殺そうとは!
 戦国だからこれでいい、のか?
 信長は守られながらも、不敵に笑っていた。
 親方様、何故!
 光秀がそう思ったとき、その風景が一斉に切り裂かれた。
「矢!」
 矢が鋭く降り、彼ら町人装束の鉄砲隊に命中、次々と倒していく。
「也助!」
 その通り、伴天連の寺の屋根上、町家の屋根上と、高所に也助たち邪弓隊が射点をつくり、弓矢の射撃を浴びせていた。さすが也助、これを察していたか!
「くそ! またしても!」
 長逸一味がそう言いながら逃げようとするそのときだった。
 その退路にゆらりと陽炎が浮かび、そこから現れたのは!
「卯月!」
 特徴的な、それまで見たことのない戦装束の女武者、卯月が現れた。
「斬り捨てろ!」
 長逸の命で斬りかかる彼らに、卯月は構えた不思議な形の鉄砲を撃ち始め、次々と仕留めていく。
 なんという連射だ!
 それも一丁の鉄砲を連射するなどとは!
 そんな鉄砲があり得るわけがない!
 火薬も弾も何発もすでに込めていないと、あんなことは出来ない。
 そんなことにできる鉄砲などあり得るのだろうか?
 あの鉄砲は……堺筒どころか、火縄銃ではない?
 一体どういう仕掛けで出来ているのだろう?!
 卯月は冷たい顔でそれを構えて、最後の一人を仕留め、長逸に無言で迫った。
 そのまま信長一行と卯月は、伴天連の寺の壁際に長逸を追い詰めて囲む。
「信長、いい気になるなよ! 俺は」
 長逸はそういいかけたときに、信長の一行の一人が斬りかかった。
「待て!」
 信長が制したが、それより彼の太刀が早かった。
 長逸の肩から反対の腰まで、振り下ろされた太刀が重く切り裂き、途中で破った長逸の心臓から滝のように血潮が飛び散った。
「本圀寺で殺された母の仇だ。因果応報」
 骸となった長逸に、彼はそう言ったが、光秀は直後にそれに言った。
「仇を討つより前に、なぜここまで生き延びてこられたのか、捕らえて尋問すべきだった。骸からはその潜伏の資金源の秘密は聞き出せない。そして何より、こんな楽に殺してやらなくても良かったのだぞ」
 だが、それを信長は制した。
「光秀、気持ちを察してやれ。こんな余を恨む奴はいくらでも、掃いて捨てるほどいるのだ。いちいち尋問していても埒があかぬ。余は其方の仇討ちを許すぞ」
 彼はひざまずいて深く礼をした。
「そして、卯月、よくやった。実はこれを調べに姿を消していたのだろう。也助よりも早く。也助もそれを理解して力を合わせてくれた。良いことだ」
 卯月はその鉄砲を納め、頷いた。
「筆頭殿、この通りだ。無事であったが、余は斯様に命を狙らわれておる。これからも余と付き合うのにはなかなか覚悟がいるぞ」
 筆頭は顔を上げると、頷いた。
「なかなかさらに刺激的な日々がきそうで、楽しみですよ」

 この堺での三好長逸の最期は、厳重に秘密とされることになった。そして堺の会合衆は信長とのさらなる協力を確約し、そして信長の力のテコになる『大麻』取引の証拠金を信長を経由して伊勢神宮勢に渡すことととした。
 本圀寺の変のあと、すでに堺は織田軍に一度包囲されて二万貫の矢銭を上納していたと史実にあるが、その二万貫はただ消費されるのではなく、その取引相場で高利回りの利益を生んで、その配当が堺の町のさらなる繁栄の資金となっていたのだった。

    *

「親方様は五十になるまで、もう時間がないと仰る」
 卯月はそう口にした。
「でもそれは、親方様がその真の成功者になり、六十を迎えれば良いだけのことです」
「なれるだろうか」
 信長は妙に弱気だった。
「まず健康に気を付けることがその一つの方法です。その点は親方様は鷹狩りも水泳もお好きでありますから体力は心配ないのです。しかし、お酒だけはお気をつけくださいませ」
 信長は顔をゆがめた。
「卯月まで節制を言うのか。酒はどうにもならぬから、なかなか節制できないのだが」
「あとは」
 卯月の口に皆が注目した。
「身軽が好みだからと、旅の宿として不用意に小さな寺に泊まりたがるのをやめることですね」
 みな、ぷっと笑った。
「余は広い屋敷に泊まるのは厭なんだ。広い部屋だとなかなか眠れぬからな」
「広いところが苦手なのですか?」
「かもしれん。どうにも心が落ち着かぬ」
 光秀は驚いた。
「親方様の意外な弱点ですな」
 それに信長は言った。
「これ、家康や秀吉には言うなよ」
 皆、笑った。
「御意にございます!」
 彼らが堺から見る大阪湾は、穏やかに凪いでいた。

  *

 このあと、この鉄甲船六隻以下の織田の水軍艦隊は、堺を出港、後に第二次木津川口の戦いと呼ばれる大阪湾の海戦で、沿岸の多くの見物人の前で、毛利の大水軍にたいしそれをたったの半日で壊滅させる予想通りの圧倒的な勝利を収め、毛利からの本願寺の海上交通路を完全に遮断することに成功する。
 石山本願寺はその後もなお無補給で一年半耐え続けたが、それでも限界が来た。顕如は三度目の和睦を信長と結び、石山本願寺を明け渡した。その交渉には森蘭丸の母の活躍もあった。また本願寺側の強硬派は顕如の子・教如を立ててまだ残っていたが、三ヶ月後に結局受け入れ、石山合戦は終結する。
 そして本願寺勢力は顕如派と教如派に別れ、顕如と教如は和解を働きかけられてもなかなか長続きせず、それは豊臣時代も続き、最終的には徳川家康が教如派に土地を寄進して東本願寺を建てたことで完全に東西分裂し、現代までそれが続くこととなる。
 そんな状態だったので、戦国時代で各地に発生し猛威を振るっていた最大の脅威、一向一揆は当然一挙に衰退したのである。
 まさに天下布武の完成はまもなくと思われるのだった。

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 浄土真宗は平成の現在、明治維新のときの宗教再編で西本願寺の流れの真宗本願寺派と、浄土真宗東本願寺派に大きく別れ、さらに細かな宗派に分かれている。また浄土宗が全て一向一揆で戦ったわけではなかったのでその分裂もあるが、にもかかわらず日本の仏教諸宗での最大勢力であることはかわらない。東京で有名な築地本願寺は西本願寺派である。
 石山本願寺跡は豊臣秀吉が後に大坂城を建設、その後大阪冬の陣・夏の陣を経て豊臣家が滅亡すると徳川幕府がまた大坂城を建設した。そして明治時代には明治新政府の陸軍用地となり、大阪造兵廠として火砲・車両の生産を行った。創設当初には時報の号砲をここで撃った。それは以降、土曜日の勤務が半日で終わることを「半ドン」と呼ぶ由来となった。
 大阪造兵廠はアジア最大の規模で陸軍の銃砲や弾薬の製造拠点であった。日露戦争で活躍した二十八糎榴弾砲もここで生産された。日本初の国産戦車・八九式中戦車もここで開発生産されたが、その後継車九七式中戦車(チハ)は日本陸軍の主力戦車となった者の相模・小倉陸軍造兵廠・三菱重工・日立製作所・日本製鋼所・日野重工・南満陸軍造兵廠で生産している。
 また大阪造兵廠は生産能力の活用で民間の鋳鉄管や橋梁も受注生産した。東京・靖国神社の第二鳥居もこの地で鋳造されている。
 そういった重要性から、太平洋戦争では米軍の空襲の重要目標となり猛爆撃を受け近隣に多くの死者を出した。戦後放置された造兵廠跡は残された大量の資材を狙う「アパッチ族」の跳梁するところとなり、さまざまな小説の舞台となった。
 現在の大阪城天守は、戦前の昭和六年に大阪城本丸一帯の公園化計画で竣工した復興天守である。大阪市土木局建設課の設計によって徳川大阪城と豊臣大阪城の折衷のデザインの鉄筋鉄骨コンクリートの五層八階の博物館『大阪城天守閣』は、豊臣時代の天守が大坂夏の陣で落城とともに炎上、徳川時代の天守が落雷に寄って二度焼失したのに比べて最も長命の天守となった。石山本願寺も豊臣の大坂城も現在ではその遺構の全てが埋没していて、現存する大阪城の櫓も石垣もすべて徳川の江戸幕府以降のものである。

〈続く〉
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