天下布武金融戦記・信長の身代金1582

文字数 13,772文字

 也助は、夜の中、数日前に弦を張り直した弓を再び用意し、張りを確認していた。
「親方様には御恩がある。
 あの『尾張の大うつけ』と親方さまが呼ばれていたころに見出された私は、あのころから何の野望も持っていなかった。
 ただひたすら矢を射ること、それを的に当てること、技芸を磨くことに、ひたすら夢中だった。
 そのために標的に接近する術、狙撃小隊を作り弓による狙撃を行うことも、ただ楽しみのように考えた」
 ひとりごとを、噛みしめるように言いながら、仲間に手伝ってもらって具足、鎧を整えていく。その上には特徴的な擬装用の網をかぶる。
「弓は何本も一斉に射掛け、それで敵を面的に制圧するものというのが今でも普通だ。
 だが、我々は可能な限り肉薄し、一矢で精密に敵を射抜く。
 これが鉄砲の時代になった今でも役にたつ。偽装して身を隠し、静粛に移動して接近して敵の斥候を射抜いても、弓はほとんど音がならない。斥候を気付かれぬうちに倒せば、その向こうの本隊に我が本隊は知られることなく奇襲を仕掛けられる。
 それゆえに、我が狙撃弓兵は、『織田邪弓隊』と秘され、重用されてきた。
 だが、しかし、よりによって、その我々が常におそばに従ってきた織田の親方様、信長さまと、珍しく別行動をしたこのときに」
 皆が沈痛な顔でうなずいた。
「信長さまが、この夜の宿にした本能寺で、人質となるとはな」



 時を同じくして、明智光秀は京・本能寺で信長が捕らえられたとの一報を聞き、事態収拾のための検討の軍議を始めていた。
「何ということだ!」
「親方様は本能寺本殿南の間に幽閉されています。喇叭(らっぱ)(忍者)の偵察によれば、幽閉し身代金を要求しているのは」
「手回りの小姓たちか!」
「はい。先月何人かが入れ替わっております。蘭丸殿も所在不明。現在状況把握に手をつくしています」
「身代金は一千万石。神宮衆の『大麻』総額なら、それは払える額です」

 神宮衆は、戦国の世の中で、信長に莫大な戦費を融資した者たちで、特に伊勢神宮、熱田神宮などが主体であることから『神宮衆』と呼ばれる。
 彼らは神領、荘園が衰退したとはいえ、無能にその元手であった金や債権を手放したわけではなく、それを運用し、同じように融資を実施して運用する『稲荷衆』や、『寺衆』という寺社仏閣、それも各宗派の寄合と、連携している。また、商売を行うものの多くは、領主からの徴税逃れに彼ら『衆』に投資することが流行っていた。
 その間で『衆』は為替送金代行までしていた。そのために文書や、緊急を要するときには狼煙や手旗を送る茶屋に依頼し、連携させて長距離通信網を、戦国の世に作っていたのだ。
 もちろんそれを妨害する荒くれ者や武将もいた。だからこそ、それを成敗してくれる武将に戦費を有利な条件で融資し、更にその兵糧の調達・輸送まで援助し、互恵関係を築いていた。
 そのときの融資の今でいう通貨単位が『大麻』である。当時は全国共通通貨制度が管理されていなかったことと、有力な武将によっては領地内でのみ通用する通貨を発行して金融を促進していた。また小口決済の単位もあった。そのため『衆』の間での大口決済は共通単位が必要になり、そこで『大麻』という単位を使っていた。これは全国共通であり、なおかつこれを基準に金利が各『衆』の間で決められていた。
 だが、その金利は『衆』の個別に決められていたため、中にはとんでもない暴利をつけるものもいた。
 暴利は借りる者にとっては苦痛だ。が、もしその暴利でも償還できるのであれば、お互いに為替取引をするだけでなく投資しあう『衆』の間では、投資先としては大きな魅力だ。
 しかも当時は全国に通信網が作られていても、当時は金融出資を制限制御する法律も、中央銀行も全国政府もなかったため、富は瞬間的には見境なく暴利をつけた『衆』に集中してしまう。
 その結果他の『衆』の地域でも利率が上昇し、支払い困難・不渡り・経営破綻が連続連鎖し、容易に金融危機があちこちで発生する。
 そのことに気づき、その暴利を戦略的につけたのが比叡山の『比叡衆』であり、それを阻止し金融危機を回避するために、『神宮衆』によりその暴利ごと比叡山の仏閣を焼く命を受けたのが織田信長なのだ。それにより後世『仏法に反した』とか『魔王』と呼ばれる。
 だが、この比叡山が仕掛けた金融戦争が仏法に適ったものだったかも、疑問だ。
 信長に融資した『神宮衆』の考えは、そういった戦国の金融戦争のなかで、政情が安定し、富が十分にあって低利でも運用益が出る地域づくりによる安定運用を目指すところにあった。政情不安につけこんで高利で融資し、貸し倒れの危険と引き換えに高利回りを得る戦略もあるのだが、伊勢神宮を主体とした神宮衆は倫理的にもそれを是としなかったし、またそこまでの運用の危険を避けたかった。背負った歴史がそうさせた。そして、それを信長も背負ったのだ。
 信長は桶狭間に突入し今川義元を討ち取る前に、戦勝祈願で熱田神宮に参拝したとされる。しかし、それはただの戦勝祈願ではなかった。
 その歴史を共に背負う覚悟を示し、以後の金融支援を得る『契約』をしたのだ。

 そして、その『契約』の間に、今川義元の陣に忍び寄り、今川軍が織田軍を迎撃できるかどうか偵察したのが邪弓隊だった。
 彼らは今川の先鋒を務めた三河勢、のちの徳川家康(当時は松平元信と名乗らされていた)の軍を山狩人の符丁でやりとりして通過した。
 そして信長公記に記されたものとは別に、義元の本陣内に忍び込み、弓の狙撃で討ちとったのも邪弓隊であり、その頭が也助なのだ。
 信長は早くからその狙撃術に興味を持ち、奇襲を確実に成功させるために也助と邪弓隊に密命を与えたのだった。

 以後、也助は弓術、特にその狙撃の邪弓術を始めとした、公式には残らなかった、様々な射撃術の検討と研究を行い、信長の知恵袋として活躍した。
 それが長篠での三段撃ちである。
 当初、鉄砲隊を射撃、射撃後の銃腔清掃、弾薬装填の操作の段階で、鉄砲兵をぐるぐると交代させる案であった。これは公に知られている。
 だが、現実にはそんな交代移動をしながら操作するには当時の火縄銃は重く繊細で、取り回しも操作も困難であった。
 射程内に武田軍を捕らえても、斉射をしても続く斉射までの間に武田騎馬隊は快速で鉄砲隊に馬上からの槍の一撃を加えてしまう。それ以前にその迫る恐怖がまた鉄砲隊の三段撃ち操作を困難にする。
 そのために馬防柵、柵を作って騎馬隊の突撃を阻止することを考えたが、それを十分に巡らすには時間的余裕がない。
 そこで信長は也助に、改善策を聞いたのだった。
 也助は既に弓だけでなく当時新兵器であった火縄銃の研究も行っていた。そしてさほど時間をかけずに、改正案を編み出した。
 それが、兵を操作段階ごとに移動させるのではなく、操作作業ごとに兵を分けることであった。
 すなわち、銃腔の清掃・整備担当の兵、弾薬装填・火縄整備など射撃用意を行う兵、そして射手に分けたのだ。
 その分けた三組の間で銃を受け渡しあい、射手にどんどんあとは撃つだけの準備のできた銃を供給。また射撃済みの銃を整備担当に戻すものも設け、それぞれの担当兵はそれに専念させる流れ作業にしたのだ。
 その四から五人で組にし、銃も四、五挺以上をその組に与える。しかもその前には塹壕を掘って出た土を盛って土塁を作り、あまり深く掘らずとも十分に身を隠せるうえに短時間で作れる掩蔽物を用意することにした。現代的な工兵による野戦陣地形成を行ったのである。
 この合理化で、斉射速度は向上し、なおかつ鉄砲兵も塹壕で安心してそれぞれの役目に励み、射手は照準を落ち着いて行えた。織田の騎馬隊相手での模擬試験でも十分の速度が出せた。
 それが採用され、実地に応用し、結果は公に知られるところとなった。だが、この仕組みは公にはあまり喧伝されなかった。この方法は秘されたのだ。何しろこの方法は籠城作戦を始め応用がとても利くので、他に知られて応用されては、たまらないのだ。
 ちなみにこの戦いに必要な鉄砲や土木作業具の調達費を融資したのも神宮衆である。彼らがその模擬試験に臨席して、多額の融資を決定したのは言うまでもない。その多額の融資はそのまま堺に払われ、堺で生産された大量の鉄砲が織田軍の装備となった。
 その後の武田軍の掃討戦によって、甲州金山が手に入ったのだから、その融資は十分以上に大きな利益を生んだ。
 武田信玄や上杉謙信は現物払いを重視し、その上華美を戒め、勤勉を奨励していた。それは後世でも美徳とされる。
 が、そのために金融も商業も発展は限定され、軍資金は金山からの金をそのまま使ったために、合戦のたびにそれはただ国外に、さらには遠く海外にまで流出した。
 なおかつその商業、中でも物流業の発展の遅れは、精強な武田軍の補給線の能力、兵站を比して弱いままにした。
 その結果信玄は謙信と川中島で戦うことはできても、その他武将とは小競り合いが限界、上洛を目指した長駆遠征はなかなかできなかった。
 それができるよう寺衆の経済活動を認め、その融資と用意がようやくできたときには、彼の寿命が持たなかった。
 そのあとその補給兵站能力を受け継いだ息子・勝頼が満を持して遠征した時には、既に織田連合軍は十分に出資を受け、用意ができていた。
 そしてはじめは長篠城までの進撃を許したものの、そこで食い止め、そして長篠での合戦に望んだ。
 名高い武田騎馬隊は、その流れ作業式による鉄砲の弾幕の中に消えたのだ。
 『衆』の力を借りるのを、浅ましいと、よしとしなかった信玄と、それと契約して力を借りた信長で別れた明暗。
 富をもたらす金山があったが故に、信玄は判断が鈍ったのかもしれない。
 しかしその信長の契約もまた、正解ではなかった。
 契約は、力を与えてくれるが、同時に呪い、呪縛でもあるのだ。

 光秀は、その呪縛を思った。
 信長の勢力圏の急激な成長は、その金融を梃子にしたものだった。
 しかしその金融が、金融戦争としての比叡山焼き討ちになり、また世評の低下、さらには金融の利払いのための戦争とさえ言われてしまっているのだ。
 恨みも買っている。だからこそ光秀は信長のそのそれでもの覚悟、安定社会の実現を支持し、そのために働くことが喜びであり、そこに邪心は全く抱いていなかった。
 ただ、予感するその呪縛、矛盾も感じていた。
 安定社会と経済の成長は、矛盾するのではないだろうか、と。

 しかし、その信長は今、本能寺に捕らえられている。
「親方様(信長)の身代金の用意は? 突入救出はできれば避けたい。突入時には思わぬ命にかかわることがありえる」
 軍議の席での検討が続いている。
「織田勢への出資受け持ちの神宮衆・榊さまは確保に奔走しておりますが、神宮衆の頭は、すでにこの件の『事後処理』を考えているようです」
「そうだろうな、くそ。家康殿は? 同じ宿にいらっしゃるのでは!」
「いえ、所在不明です」
 光秀は、『あっ』と思った。
「……まさか!」
「ええ。私もそう思いました。家康殿はこの人質事件を察知していたか、あるいは」
「家康が首謀者? まさか!」
「いえ、その節はありえます。先月から三河衆の動きに不穏な兆候が。街道での三河衆の指示文書やりとりの増大は三か月前から察知しております」
「家康殿にとってはまたとない好機です。親方様に唯一、部下としての居城建設を許された有力武将である光秀様と親方様を一挙に追い込み、しかも」
「何だ」
「家康殿の使いが、遠く西国と何便も行き来していることも」
「相手は毛利勢か?」
「いえ、そこまでは確証がありません」
 光秀は考え込んだ。
「まさか、その宛先は、毛利と戦陣を構えている、秀吉殿?」
「可能性は大きくあります」
「でも秀吉殿は」
「毛利勢との戦いはほぼ形勢が固まり、秀吉殿はこのまま勝てるはず。
 しかし、そこであえて親方様の増援を求めた。
 それは勝ち名乗りを親方様に差し上げるのではなく、親方様の油断を誘う手段」
「親方様には光秀様がその武力の本隊として付き従う」
「そこで親方様を家康殿が油断させ、家康殿が脱出の後に小姓たちで殺め、その罪を光秀様のものとする。
 そして秀吉殿はその光秀様を成敗しようにも、完全にとどめを刺していない毛利勢に背後を晒すことは避けたい。毛利には事態が知られればさらなる西国から援軍もあり得る。
 そこで毛利に知られぬうちに反転の支度を決める必要がある。そこで秀吉殿は家康殿と通じ、反転して家康殿と天下を二分する図を描いた」
「しかし、光秀殿と戦うとなると、秀吉殿の軍勢でも損耗はただでは済まない。何しろ毛利攻めと反転の長駆行軍で疲弊している」
「そこで、光秀殿を仕留めるも疲弊した秀吉勢を」
「三河から満を持して出陣した家康がすべて平らげ、天下餅は一挙に家康のものに」
「そうか」
 光秀はその頂上作戦、斬首作戦の策に舌を巻いた。
「賭けとはいえ、うまく行けば成果は大きい。しかも家康殿はその根回しも抜かりないだろう。
 その賭けの失敗のことを考えてもあるのだろうな」
「そうです。光秀さまには本来いわれのない謀反ではありますが」
 更に光秀は背に発汗した。
「そうか! そういえば!
 安土で家康殿をお迎えした宴で、十分に下調べして、家康さまの好物、鮒寿司を差し上げた。
 しかし、彼はそれを吐き戻して宴がめちゃめちゃになった。
 私はそれに激怒した親方様に、その場で足蹴にされた!」
「ええ。家康殿は筋書きをあそこから書いていたのでしょう。
 家康様は鮒寿司が好物でした。しかし、あのとき吐き戻し、親方様は激怒、光秀様を足蹴にした。
 でも、家康のあれは演技だった。光秀様に謀反の動機を用意し、筋書きを固めたのです」
「何たる謀(はかりごと)だ!」
 光秀は沸騰した。
「なぜ気づけなかったのだ! 私としたことが! 何という失着!」
「でも、選択は一つだけです」
「ああ。これで突入救出作戦しかなくなった」
 光秀は、改めて叫んだ。
「敵は本能寺にあり!」



「也助、支援の弓を頼む。この夜間の救出作戦ではそなたの夜目と弓だけが頼りだ」
「承知しております」
 光秀は指揮する全部隊が立てている旗指し物を下げ隠させた。当然である。救出作戦は奇襲しかありえないからだ。旗幟を鮮明にしながら行う戦いではない。

 也助はすぐに気心のしれた仲間に、狙撃点を探させた。
「くそ、先に行った本能寺の城塞化が仇になったな。掘られた堀、高い塀。立てこもられると外から狙撃しにくい。
 さらに外には見下ろせる高所がほとんどない。低所から打ち上げる狙撃は成功しにくいし、また全体の状況を確認し支援する狙撃兵の役目が果たせない」
「恐らく立てこもり側の小姓がこれを見越して行ったのでしょう。後手に回りました」
「まあ、楽な仕事はない。何とかならないか探そう。その間、光秀さまには彼らと身代金の交渉を続けて、時間を引き延ばしていただこう。
 喇叭にも狙撃点と突入路の検討を手伝ってもらおう」
「ええ」
 本能寺は東西を西洞院川・堀川に挟まれ、南北には堀が掘られている。しかもその四方の水濠の内側は塀が建てられている。
「定石では可能な限り強行突入は避けるべきだが、他に方法がない。あとは限られた時間で、できるだけ準備を固めよう。準備はしても必ず何か見落としがあるものだ。用心に越したことはない。
 できればあそこが使いたいのだが」
 也助の視線には、本能寺前にある村井長門守の邸宅の大屋根が見えていた。
 他には南蛮寺、二条御所、二条茶屋、妙覚寺、妙顕寺がある。これらの屋根は射点として辛うじて使えそうだ、
 しかし京都上御所まで1キロ以内(作者注・便宜を図って現在の度量衡を使います)、見下ろすという高さではないが、周りは市街地である。隠密に行わねばならない救出作戦、周囲の市街住民に騒がれたらすべてがぶち壊しである。
 隠密に、冷静に、そして、豪胆に。
 也助は決めた。
「一番弓、二番弓は本能寺内に進入する。三番弓は村井様の屋根をお借りするよう、光秀殿にお願いするしかない」
 何番弓と呼んでいるが、その単位は射手2名と観測・警戒の武者1名の3名一組になっている。
「村井様は協力してくれますでしょうか」
「親方様と家康殿のどちらを選ぶかだが、家康側についたらこの明智本隊で仕留めると脅しながら、信長様への忠義を問う両面で働きかけよう。四番弓は南蛮寺の屋根に登って射点とする。
 その三番・四番弓の射点が確保できたら、一番弓の私と二番弓は喇叭に助けてもらいながら堀を越え塀を登る。
 そして、他の射点に配置が済んだら、本能寺内の親方様と立てこもりの連中の位置・武器などの装備の確認、そして突入可能な経路状態を確認。
 そののち、時機を見て突入する」
「あの本能寺北東の物見ヤグラはどうします?」
「それが厄介だ。鬼門になっているしな。あそこを先に制圧したいんだが、立てこもり側はあそこに警戒兵を置き、警報をすぐに出せるようにしているだろう。私だったらそうする」
「では」
「でもあの北東のヤグラはあっても、あそこからは本能寺の本殿・宿坊の屋根が邪魔で南西方向が見えない。そこで南西方向の角にも歩哨が置かれているだろう。とはいえ本殿と宿坊には距離がある。
 それと、南蛮寺と本能寺の間に地下通路がある」
「本当ですか!」
「ああ。ここにも立てこもり勢の警戒兵がいるはず。いざとなったら彼らはそこから脱出するだろう。でも」
「ええ。すべてを網羅するには、連中の人数が足りない」
「そのとおりだ。どこかに警戒の目が行き届かないところがある。その意味でも、まず三番・四番弓からの観察が必要だ」
「承知しました! でも、也助さまは? 我らは三番四番の射点から全体を見ていただけると有り難いのですが」
「そうはいかんさ。そなたたちをいつも先鋒で肉薄させている。私は一番弓だが、少し離れた鐘楼から全体を見るから大丈夫だ。二番も宿坊の屋根の上から本殿を狙う。
 突入は明智勢の精鋭選抜組が行う。そして。
 親方様もむざむざ裏切り者たちには殺されはしない。そのお知恵に我らは惚れてきたのだ」



「くそ、水が冷たいな。夏が近いのに」
「無駄口はいけませんよ」
「そうだな」
 暗がりで油のように揺らめく堀を泳ぎ、南西の角の塀をよじ登って、内側をのぞきこむ。
 そこには三番弓が射抜いた歩哨が、頭に矢が刺さって倒れていた。
 矢は発射音も飛翔音も小さいので、こういう突入前の暗殺には一番適している。
 射程が短く風に流されやすいのが難点なのだが、そこは腕と本数で補うしかない。
 うまく射抜いたと褒めたいが、しかし射抜かれた敵の無念の形相にも心が痛む。
 心の中で成仏を願いながら、さらに本能寺の中の様子を探る。
 あたりはまだ暗い。警戒のための、かがり火は境内でたかれていない。
 いける!
 そのまま、そっと境内の物陰から物陰へと進み、也助は鐘楼へ向かう自分と、宿坊に向かう二番弓の部下の組にわかれた。

 そして、鐘楼の上に登る。見張りがいそうだったが、いなかった。人数が少ないのに広い本能寺なので、手がまわらないのだろう。
 それより前に三河勢の喇叭がいたらと思ったのだが、その影は見えないと味方の喇叭が教えてくれた。
 弓を抱えて登るのは、なかなか鍛錬していても、辛いものがある。特に桶狭間からこの役目をやっているので、自分の体のキレの衰えを感じる。この技芸を継ぐものを育てていて、今回の他の弓組は若手なのだが、やはり完全に任せるのはまだ心配だ。
 特にほかならぬ親方様の危急なので、力みが入ってしまう。
 
 空を見上げた。
 
 また、あのきらめく純白の鳥が、夜を流星のように駆け抜けていく。
 あの日と同じだ。
 あの、弓を射ることの楽しさに夢中になって、一晩中弓のことを考え続けたあの夜。
 疲れ果てて眠るまで、私の一番の得意である弓術と兵法に考え続けたあの夜。
 あのとき、師範に、夢中になれる物があるということは、すばらしいと言われた。
 しかし、今は、そう思えない。
 このせいで多くのものを失ったと思うからだ。
 そして、また、失う。失うために私は生きている。
 そして、失うとともに、奪うのだ。この一矢で。
 そう思う青灰色の空を、あの純白の鳥が流星のように駆け抜けていく。

 何とか屋根に登り、頂の影から本堂や宿坊の中を見通す。
 よし、見える! 分かるぞ!
「親方様は事前の話通り、本殿南の間だな。前の表廊下に警戒の敵が二名。中にもいるだろうが、それは喇叭に確認してもらおう。
 南門はカンヌキで閉められているが、人はいない。恐らく表廊下の二名から見えると思っているな。
 北門は北東の物見ヤグラから確認するのだろう。門そのものは固く閉ざしているが、こちらも直接の警戒はいない。
 本殿裏の渡り廊下にも人はいない。馬小屋にも馬守はいるが警戒はいない。
 宿坊にも何人かいるな」
 也助は数える。
「残りは南蛮寺への地下通路にいるだろう。脱出経路なしに立てこもるのは、つまらんだろうからな。
 せっかくの人質の親方様を失ったら、なで斬りにされる運命も避けられんしな」
 也助は考えた。
「でも、親方さまをいつもお守りしていた女武者・卯月さまがいないな。
 まさか、殺められた?」
「かもしれませぬ」
「何ということだ」
 也助は考え込んだ。
「なるほど。ならば、作戦の手順が見えた。光秀さまに知らせよう」



 夜明けの寸前、本能寺北側の南蛮寺で時の声が、明智の桔梗の旗指し物とともに一斉に上がった。それが作戦の始まりだった。
 北東の物見ヤグラの者が、明智勢の殺到を予期していたとはいえ、それが先に南蛮寺だったことに驚いていた。
 そしてそれを紐付きの鈴で知らせたが、直後に彼らは邪弓隊の弓の狙撃に射抜かれて、次々と倒れる。
 守られたヤグラの中にいても、高所からなら、戦国の急所で活躍してきた彼らの技量なら狙い撃ちは可能だった。しかも彼らの初速の速い強弓の矢は、彼らに命中すると、その勢いで彼らの体を吹き飛ばし、さらに切り裂いてしまう威力を持っている。
 そして、あえて鈴が鳴るのを許したのが、手順の工夫だった。
 立てこもり側は鈴で退路を断たれたのを悟ったが、かといって防御しようにも人数が足りない。
 そこで呼子笛を鳴らし、北側の手勢を呼び戻して態勢を固めようとする。
 だが、北からくるその途中の廊下が、外から見えていた。当然そこは弓の射線が通るので、そこで狙撃され、彼らは次々と射殺される。
 それに気を取られた南縁側廊下の見張りを也助たちが狙い撃ちにし、それと同時に南門に光秀の部下の戦国の精鋭、斉藤利三の軍勢が突入を開始する。
 倒れた見張りが絶命する時の声と音は、北側の明智軍本隊の騒音と声で聞こえない。
 信長を幽閉していた彼らは、不意を突かれることになった。。
 あとはそのまま斉藤たちが正面から突進、一気に信長を捉えていた彼らを、槍を突く精鋭の武者が、抵抗する間を与えずに制圧した。
 彼らの一部は刀で立ち向かおうとしたが、槍ぶすまに刀では勝ちようがなかったのだった。そして信長を人間の盾にしようにも、手練れの武者の冴えた槍は素早く、それを許さなかった。
 反旗を翻した小姓を、容赦なくその槍が貫いた。

「親方様の無事を確保! 確保した!」
 確認の武者の声が上がるが、そのとき本能寺の離れが爆竹のような音と共に爆発した。
「くそ、火薬を仕掛けていたのか!」
「ここにも仕掛けているかもしれん! 脱出しろ! 急げ!」
「親方様、こちらへ!」
 突入した光秀が警戒しながら先導する。
 也助が鐘楼から全体を警戒する中、他の具足をまとった鎧武者が自分の身体を信長への狙撃に対する盾として、本能寺からの脱出を図る。
「さすが優秀だな。見事な救出作戦だった。光秀」
 信長は褒めた。
「いえ、それどころではありません」
 光秀はなおも気を緩めず警戒しながら脱出のために歩く。
「なあ、光秀。お前にこそ、我が」

 そう言いかけた信長の胴を、その刹那、鋭い直線で矢が貫いた。

「しまった!」
 光秀は叫んだ。
 巧みな射撃だった。完全に鎧武者がその身を盾にして守っていたのに、隙間を一瞬のすきで突いたのだった。
 也助は、頭に鳴り響く失敗感の轟音に耐えながら頭を巡らせる。
 すると、こちらも手勢不足で、狙撃点として確認しながら、抑えきれなかった射点が目に入った。
 明らかにそこからの狙撃だった。そして見ると、やはりそこに弓を持った敵がいた!
「弓隊、目標転換! 射点予備七番に集中射撃!」
 しかし、敵は既に逃げ出した。
「逃すな!」
「駄目です! 暁の風が強すぎます!」
 偏流で矢は当たらず、それを見届けるより先に、也助は鐘楼からもどかしさの中滑り降り、信長の元へ向かった。

 光秀勢が手負いの信長をはこびだし、手当を始めた。
 背後で本能寺本殿に火が回っている。他の建物もくすぶりはじめ、中で怯えていた関係ない僧や女どもが逃げ出して混乱し始めている。
「くそ! 何で血が止まらないんだ!」
 信長を抱えながら、刺さった矢傷に光秀が叫ぶ。
「光秀、虚しいものだな」
 懸命の手当を受けている信長が弱々しく言う。
「こうして最後まで心配してくれたのは、光秀、そなたと也助だけ。人生は夢幻のようなものだった。だが、これが、あの熱田神宮で魔王となる契約をした定めだ。魔王らしい最後だ。眼に収めてくれ」
「親方様! あきらめないでください!」
「金融の呪縛とは、恐ろしいものだな。この身を滅ぼしてなお、光秀、そなたをも巻き込む。
 すまない」
「親方様!」
 仕掛けられた爆薬で炎上する本能寺の明かりに照らされながら、信長はその四十九歳の息を引き取った。



 夜が明けた。本能寺は灰燼に帰していた。
「也助、親方様の棺を守って、我が隊と離れて供養してくれ。
 親方様の魂を救えるのは、そなただけだ。
 これから、私はどうやっても負けて、無残に死ぬだろう。
 だが、そこで唯一、我が魂は救われる。
 かつて親方様とは、よく話し合ったのだ。
 金とは、金融とは、呪われた麻薬だ。
 でも、親方様もそうだが、私はその麻薬から、ようやく覚めることができる。
 家康もまた、この麻薬であり、呪いである金融から覚めたいのだろう。
 たしかに既にこの時代の金融は暴走している。
 秀吉はそれをゆくところまで暴走させきろうと高成長を目指すやりかただ。だが、それは際限がなく、いずれ日本だけでは限界に達する。海外に拡大していくしかない。
 かといって、家康の金融引締めは低成長と身分制を固定し、そしてさまざまな技術や知恵の発達を止めてしまう。
 人の世はかくも、どうにもならないものだ。
 だが、私は、幸せだよ。
 その麻薬漬けになったまま死ぬよりも、ずっと幸せだ」
 也助は考えていた。光秀にこれから生きる筋はもうない。裏切りの罪を着せられた今、救出に動いた精鋭は真相を知っていても、他のものは何があったかまだ知らない。そして秀吉軍も家康軍もその『裏切り者』の『成敗』に殺到するだろう。
 そして、歴史は常に勝者の側から書かれる。
 このことは、のこらないだろう。
 あとには馬鹿げた騒ぎが、貧困な想像を交えながら残るのみなのだ。
「光秀さま」
 ご無事で、とはいえなかった。喉が詰まってしまった。
「気遣いは無用だ。それより親方様の棺、くれぐれも頼んだぞ」
 光秀はそう言うと、馬にまたがり、夜明けの太陽に向けて、颯爽と去っていった。
 その向こうには、過酷な運命しかないのにもかかわらずなのは、結果がどうあれ、全力を尽くした者だけが知る、充実があるからだろう。

「守れなかった」
 その震えながらも澄んだ声に也助が振り返ると、そこに、奮戦の後らしき小傷にまみれた女武者がいた。
「卯月さま!」
「歴史には抗えないものがあると知っていましたが、これもそうなのですね」
 卯月は、沈痛な顔だった。よく見ると、手裏剣を受けたあとらしき傷が、まとったその見慣れぬ装束の鎧板にいくつもある。
 おそらく三河の忍者、服部半蔵の手のものを、密かに別に必死で防いでいたのだろう。
 也助はそれで合点した。武者一人で相手をするには、彼らは手ごわすぎる。
 でも、その奮闘のおかげで、也助たちは助かったのだ。
「いえ、でも」
 也助は、言った。
「それでも、決して、虚しくはないのです」
「そうでしょうか」
 疲れきって、さらにこの自体に少し震えている卯月の疑問に、也助は、思いを巡らせた。
 そして、力強く言い切った。
「ええ」



 也助がそのあと、信長の棺をいずこに埋めたかは、也助自身が関ヶ原でも生き抜き、家康の死を看取るまで生き延びても、何も語らないまま余生を終えたため、不明である。
 ただ、穏やかに魂を休められるところを彼なりに探して、彼が精一杯、丁寧に弔ったことは、間違いない。



 そしてはるか時代を下がって、平成の御代。

 4階建てのPCコンクリートが白く輝く鉄道高架駅・京急蒲田駅。
 遠くにジェット機が上昇していくその下を、羽田空港と成田空港、そして都心や横浜を結ぶ『エアポート快特』、空港連絡快速特急が行き来している。

 そのホームに、彼らは、いた。
「また、麻薬が暴れだしたようだな」
 駅ホームのニュースディスプレイでは、NY市場の株価暴落のニュースが流されている。
「ああ。アメリカでも、欧州でも、そして中国でも。その猛威はいまだに人を狂わせている」
「退治しようにも難しい呪縛、そして人を狂わせる麻薬、それが金だ」
「金を退治しようにも金がいる。日本のアベノミクスも、またそれで現実には失敗しつつある」
「まあ、でもやらなければ良かったとも言いがたい。いつの世も上手くいくかどうかはわからない。ただ、賭けねばならないのがまた呪縛たる所以だ」
「搾取の構造も変わらない。持つ者は持ち続け、持たざる者は持つ者ののために搾取されるか鉄砲玉になるか。その立場は滅多に変わりはしない。我々が戦国の世で戦国武将という名の鉄砲玉であったように。革命も所詮は持つ者と持つ者の争いでしかない」
「だが、麻痺していても、人は間違いなく、こうして豊かになっている。
 これはみな、それでも我々の夢だったのだからな」
 蒲田の街から東京の繁栄が見える。
「ああ。ここからあの昔に戻るのは、まっぴらだ。命そのものをやりとりするよりは、金をやりとりする方がまだマシだ」
「だが、また元に戻りそうではあるが」
「そうだな。今朝、また人身事故があったからな。おそらく」
「金のやりとりのはずが、やはり命のやりとりになってしまうな」
「ところで、あれは?」
 遠くからキャリアスーツ姿の女性がやってくる。そのまとった雰囲気は、空気をゆらめかせるような、只ならぬものがある。
 そして、それはあの本能寺の灰燼の朝を思い起こさせる。
「ああ。私の次の赴任時の担当でな。また組むことになった」
 一人が頷いた。その声は、あのキンキンとした名古屋弁だ。
「おや。見慣れた顔じゃないか」
「卯月です。お迎えに上がりました」
 彼女はあの透明な声で挨拶し、軽く一礼した。
「なるほど。なかなか人間は呪縛から逃れられないのだな。はるか未来、33世紀までも」
「ええ。ハズカシイことですが」
 卯月はうなずき、ちょっと恥じらった。
「まあ、それもまた生きていればこそだ」
「では、達者でな」
 手を上げて応じ、それぞれの赴任地に向かう彼らを載せた、銀色の地に赤と白の帯をまとった列車のドアが閉まり、閉扉を知らせる側面ランプが揃って灯った。
 そして、列車はテールランプのLEDを輝かせながら、ホームから走り去っていった。

 そして、そのあと、その空を、ジェット機とともにまた白い鳥が、流星のように飛んで行く。
 時空潮汐力執行駆逐艦「卯月」が、歴史を超えて。

〈了〉


=謝辞=
 なお、本能寺の変の諸説については、K'sBookshelfさまのウェブページの資料を参考にしました。
 http://ksbookshelf.com/
 また、戦国時代の金融と歳差暦については、小島佐則氏に多大なヒントを頂きました。
 小島佐則
 主な著書:天を掘る 天岩戸編[Kindle版] http://www.amazon.co.jp/dp/B00G54RRNS

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