第2話 ウイルスに意志はあるのか

文字数 2,280文字

 着替えてから降りる、と

を追い出すと、旭は信じられない思いでつぶやいた。
「うそでしょ」
 おかしいとは思っていた。けれどまさか、こんなにあっさりとそれを認められるとは思っていなかった。
 兄は、名を夜鷹(よたか)という。夜鷹は、幼いころはぶっきらぼうながらも旭にはやさしかった。それが思春期を迎えて反抗的になってからは、旭の存在を無視するようになり、会話はほとんどなかった。まともに話したのは、あのウイルスのせいでおかしくなってからだ。でも、それは夜鷹本人ではない。

だ。
 ゆっくりと呼吸を繰り返して、旭はベッドから降りると服を着替えた。

 ダイニングテーブルには夜鷹ひとりの姿があった。父親は仕事に出かけたのだろう。母親は家にいるはず。
「なにか飲まれますか」
 夜鷹のことばに(かぶり)を振って、自分で冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、コップに注いで飲み干す。夜鷹は黙ってそれを見ている。彼のまえに飲みものはない。
「なにか、飲む?」
 思わず同じことを訊いてしまう。夜鷹は微かに笑うと
「いいえ、お気遣いなく」
 と答えた。
 旭がおそるおそる夜鷹の向かいに座ると、彼は単刀直入に話を切り出した。
「なにからお話ししましょうか」
「あなたは、だれ?」
 先ほど部屋で問いかけたことばを旭は繰り返す。
「もう、気づかれているのでは?」
 テーブルの上で両手の指を組みながら夜鷹は問い返す。

「……ウイルス?」
「ご名答(めいとう)です」

 旭は唖然(あぜん)とした。まさか肯定されるとは思わなかった。
 え? ウイルス? ほんとうに?
 自分で答えておきながらポカンとする旭に、夜鷹は笑みを浮かべる。
「冷静な対応に感謝します。パニックを起こされてもおかしくない状況ですから」
 それはそうだろうと旭は思う。べつに冷静なわけではない。ただ単に頭がついていかないだけだ。
 いや、そもそも、


「ウイルスがしゃべっているの?」
「声帯はこの十枝夜鷹氏のものですが、それを使ってあなたと意志疎通(いしそつう)を測っているのは私です」
「あなたに操られている、ということ?」
「そういうことです」
「目的は?」
 夜鷹は笑みを深くして、じっと旭を見つめる。
「的確な質問です。あなたはとても興味深い」
 ウイルスに興味を持たれても困るし迷惑でしかない。あからさまにいやそうな顔をする旭にかまわず、夜鷹は短く答える。
「目的はすでに達成しました」
「え」

「この地球(ほし)はすでに我々が掌握(しょうあく)しました。ごく(まれ)に、あなたのように我々の影響を受けない人間が存在しますが、それも想定内のこと。観察対象として保護するよう周知徹底してありますから、あなたの身に危険はありません。ご心配なく」

 さらっと説明されたが、いまなにかものすごく重大なことをいっていなかったか。旭はいまの台詞を反芻(はんすう)する。
 掌握っていったよね?
「それって、まさか、地球侵略ってこと?」
「そうです。武力をともなわない制圧とでもいいましょうか」
 よくもぬけぬけと、と旭は思う。目に見えないウイルスはじゅうぶん暴力的だ。一方的に人類を(おびや)かし、これまでの暮らしをめちゃくちゃにしたくせに。
 沸々(ふつふつ)と怒りがこみあげてくる。
「ふざけないで。なんで、こんなこと」
「どうか、落ち着いてください」
 淡々とした声で制されて、ますます頭に血がのぼる。
「みんながおかしくなったのも、あんたたちのせいなんでしょ」

「おかしくなった、と思われますか」
 夜鷹の目が、旭をひたと見据(みす)える。
「いままでのこの家族のふるまいのほうが、よほどおかしなものではありませんでしたか」
「え」
(みずか)らのなすべき義務を放棄し、欲望のままに行動する。そのせいで、この家族のなかでもっとも立場の弱いあなたに、すべてのしわ寄せが集中していた。そうではありませんか?」
 頭から冷水を浴びせられたように、旭はその場に凍りつく。
 なぜ、まるで見てきたかのように、そんなことをいうのか。
 見られていた?
 ぞっとして思わず立ちあがる。

座ってください」 
 夜鷹は、ふつうの声音(こわね)でそううながした。決して怒鳴ったりはしていない。それなのに、旭はまるでその声に縛られたように身動きができなくなる。見えない力に(あらが)うようにじりじりと後ずさると、椅子の脚にひっかかり体勢を崩す。
「あっ」
 椅子が倒れて、旭もひっくり返るようにして尻もちをつく。とっさに床に手をついた拍子に手首をひねり、痛みが走る。
「いた……」
「見せてください」
 いつの間にかすぐそばに夜鷹が移動していた。距離を取ろうと身を退()く旭の手を彼は掴む。
「痛い」
見せなさい
 まただ、と旭は硬直する。抵抗できない。
 ふいに、ぬるり、と


「いやっ」
 自分の意思とは裏腹になにかが体内に侵入してくるおぞましい感触に全身が総毛立(そうけだ)つ。身をよじる旭を夜鷹はやすやすととらえて片手で抱き込むように固定する。そのあいだも、旭の手首の内側でなにかがずるずるとうごめく。痛みよりも、生理的な嫌悪感で涙がにじんでくる。
「もうすこしだけ、我慢してください」
 頭のうえで夜鷹がささやく。旭は無意識のうちに彼の服を握りしめて歯を食いしばる。

 どのくらいそうしていたのか。
 ずるりと

が身体から出てゆくのがわかった。
「あ……」
 肩で息をしながら旭はぐったりと力を抜く。
「まだ痛みはありますか」
 そう訊かれてはじめて気づく。ひねったはずの手首から痛みが消えていることに。ただ、なにかが内側を()いまわるようなあの気持ち悪さははっきりと残っている。
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