怖がり

文字数 3,489文字

「私、怖いんだ」
彼女がそうポツリと呟いたのは、一体いつ頃のことだっただろうか。
唯の、なんてことのない日だったはずだ。唯の何でもない日の夜だ。いつも通り僕の家でどうせ見やしないテレビを付けて、特に理由もなくソファの上で互いに身を寄せ合ってスマホをいじっていたあの日の夜。
僕がその、独り言かそうでないかわからない程度のつぶやきにスマホから目を離さずに「何が?」と返したら、
「人って死んだらどうなるんだろうね」
と、質問の返しにならない返答をしてきた。
『人が死んだら』なんて、まだ大学生である僕たちが考えるものだろうか?
『死』なんてものに実感と親近の気持ちを持つ大学生なんてそうそういないだろう。
精々哲学を専攻するような学生くらいだろう。
それは僕も例外ではなかった。死なんてものは僕にとっては遠い未来のもので、高校生の時に戦争のビデオを見た時も最近あった親戚の葬式なんかでも死を実感するなんてことはできなかった。
だから僕は、
「さあね、地獄か…天国にでも行くんじゃないか?」
だなんて、適当に答えたんだ。
彼女も僕と同じだって思っていたから。
違うとしても何かの小説だかドラマ、それか友人の影響だろうと思っていた。
だから軽い気持ちで、一種の雑談のようなものかと思って適当に答えてしまったんだ。
その時も僕のスマホをいじる手は依然として止まることはなかった。
「ふふ、そうだね。でもそうだなぁ…、私は天国にいけるのかなぁ」
横目に、彼女がスマホを手放して天井へ顔をあげたのが見えた。
その時に彼女の震える声に気がつければ、彼女のことをきちんと見ていればなにかが変わったのだろうか。
「何か天国に行けないようなことをした覚えでもあるの?」
なんて彼女を少しからかうように聞けば彼女は、
「ううん、ちっとも」
なんて平然に彼女は答えた。
「じゃあ…なんでそんなことをいったの?」
「これから何か悪いことをするかもしれないじゃないか。…私、死ぬのが怖いんだよ。
さっきの…天国に行けるかもそうだけどさ何より…」
ここで彼女の言葉は途切れた。ここで僕はようやくスマホの電源を切った。
何を言うのか気になったのかもあるけれど、それよりも彼女の出すその悲しさをこもった異様な雰囲気が僕の不安を煽ったんだ。
そうして顔を上げた先にいる彼女は…
ニヤニヤとした表情でこちらを見ていた。口角の上がった口に手をあて、漫画なら『プププ…』
と効果音がついてもおかしくない程にニヤついてこちらを見ている彼女は、とてもじゃないが先程まであの真剣な話をしていたとは思えなかった。
「…また僕をおちょくったな」
僕がそういえば彼女は心底楽しそうに、愉快に笑っている。
「そう怒らないでくれよ、唯の雑談じゃないか。それとも私が死んでしまうとでも思って心配したのか?」
「……」
僕は彼女の質問には答えず電源を消したばっかりのスマホにまた手を伸ばした。
この状況で肯定なんかすればすぐにからかわれるに決まっている。
「…死んだらどうなるかなんて考えるだけ無駄だよ」
本気でそう思っていたんだ。だってそうじゃないか、僕たちの人生はこれからだと思っていたんだ。
そんなものに怯える必要なんてものはないんだから。
「君は、そのままでいい。そのままがいいよ」
この言葉を最後に、彼女は何も言わなかった。

次の日から彼女のいない生活が始まった。
…僕があのときの話をもっと真剣に受け止めれば、ちゃんと彼女の話を聞いていれば何か変わったのだろうか。

次に彼女に会うことができたのは半年後のことだった。
僕たちが暮らしていた家から遠く離れた田舎の病院に、一つの管と酸素マスクを付けて、あの頃よりも何回りも小さくなった体をベットに横たわらせていた。
心電図がピ…ピ…ピ…ピ…、と規則的に鳴っていた。
「どうして、こんな手紙を置いていった。どうして僕に何も言わずに、僕の前から消えたんだ。こんな嘘を僕が信じると思ったか?」
僕が力強く握ってしまったせいでぐちゃぐちゃになってしまったものは『他に好きな人ができたから別れてほしい』という旨が書かれた彼女からの手紙だ。
久しぶりに会った病気に侵されているであろう彼女に一言目から言うことではないことはわかっている。
でも僕はこう言うしかなかったんだ。この僕の心から出てくる苦しさを消すために、こうやって怒りのような感情で塞ぐしかなかったんだ。
半年だ、半年。あんなに恋しい思いをして死にもの狂いで探して見つけたらこんな状態だなんて誰が想像するというんだ。
「ああ…来て、しまった、か」
弱々しく、生気のない声で彼女は言った。言葉も途切れ途切れで、それほどに重症なのだということが僕の心に突き刺さる。嫌な汗が背中を伝った気がした。

…まさかあの時の質問は、自分がこうなることを知っていたから…?
「なんで…、なんであの時に言ってくれなかったんだ。あの話をした時にはわかっていたんだろ? どうして言わなかったんだ!」
違う、僕はこんなことが言いたかったわけじゃない。ただ彼女が心配なんだ。何もすることが、助けになれないこと腹立たしいだしくて、彼女がいなくなってしまうのが…、
「そんな顔をして、怒らないでくれ…。それじゃぁ、悲しんでるのか怒ってるのかも、分からない、よ」
そう言って弱々しく笑う彼女がとても痛々しくて、辛いだろうに無理に元気に見せようとする姿を見るのが辛くて、でも彼女から目を離すことができなかった。
「あの手紙のこと、は…悪かったね。君は強情、だからね。ただ、別れてくれというだけじゃ…別れては、来れないと思ってね…。だけれども、まさか、君がここまで…来るなんてね。これでは夜逃げをした意味が、ないじゃないか…」
「正直に言えばいいじゃないか! そうしたら僕は…!」
「君に死に目を…見せたく、なかったんだ、よ。君が隣に居ると、どうしても、死にたくなくなって、しまうんだ。そんな思いを、持ちながら死ぬのは、嫌なんだ…」
初めて聞く彼女の弱音に思わずたじろいだ。彼女はもっと強い人だと思っていた。死とは程遠い場所にいる人だと思っていたんだ。
「以外だ、と思っているの、かな…?ははは…、困ったね…。私は、君が思うよりも、ずっとずっと、弱い人間なんだよ。すまないね…、君は私の、強いところが好き…だったんだろ…?」
彼女の言う通りだ。彼女はいつも僕の手を引いて先に言ってくれていたんだ。僕は僕の手を引っぱって先に行く彼女を見るのが好きだった。時折こっちを見て笑いかける彼女が、僕の先を行って輝く彼女が好きだ。
でもだからと…だからといって、
「弱いからといって、それだけで嫌いになるわけがないじゃないか…!」
「そうか…、それなら…よかった、よ」
ピッ………ピッ………ピッ………ピッ………
一定のリズムを刻む心電図が段々とゆっくりになっていっている。
嫌な予感だ。いや、予感ではな確信だ。
「ああ、もうそろそろ…だめかも、ね。……君の、家に…唯一、置いて、いった…物があるんだ。探して、みて、くれ」
彼女はそう言うと一度、少しの間だけ目を閉じた。
そしてその目をゆっくりと開けて、
「…最後に、顔を見せて…おくれ」
誰よりも辛いであろう彼女は優しく微笑んだ。
僕は彼女の言う通りに顔を彼女に近づける。
ああ、どうしてこんなときになってまで笑っていられるんだ。
僕は彼女に対して何も声をかけなかった。声をかけることができなかったんだ。
何も言えない口に変わって涙が目からこぼれ落ちていく。
「あぁ、死にたくない。死にたく…ない、よ。君が、来る前は…我慢できて、いたはずなの、に。まだ、君と…居たかった。君と、君と…。ああ、もし叶うなら…、君が、私を永遠に…______」
ピーピーピーピーッ
彼女が死んだ。無機質な心電図の音が彼女の死を告げていた。

この結末は、彼女を知ろうとしなかった僕への罰なのかもしれない。だって僕は知らなかったんだ。彼女があんな風に笑うことも、彼女が怖がりだったことも。…何も知らなかったんだ。
僕は彼女を見ようとしなかったんだ。彼女を知ることを恐れたんだ。だって彼女を知ってしまえば、見てしまえば、僕はもう彼女を忘れることなんてできないから。怖かったんだ。いつか失ってしまう『大切な人』を。
僕も怖がりだったんだ、彼女と同じ。もっと早く気がつけばよかったんだ。僕自身の気持ちを、彼女の気持ちを。
君が置いていった鈴。小さく可愛らしく鳴るその鈴は、僕が君を忘れないために用意したんだろうか。
そんなことをしても、僕は君を忘れることなどできないのに。

本当に僕たちは臆病で

などうしようもない人間たちだったんだね。




 













ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み