第19話 閑話 話の真実 下

文字数 8,419文字

 月がないからと言って、夜行性の獣には、不安になる話ではない。
 だが、獣によっては力が弱まり、その間だけ引きこもる者もいる。
 オキの一族は、むしろ逆だった。
 闇の深さが、野生を駆り立て、強くなる。
 今は、独り立ちを成した長兄が戻り、その力は強固なものになったと、そう感じていた。
 それなのに、突如襲って来た人間たちは、そんな自尊心を木っ端みじんに崩した。
 女子供も容赦なく、虐殺される様を見守る父が、薄く笑った。
「まだ、慈悲がある方だな。姿を形どる者を、最後に相手取る気でいるようだ」
 家族の大黒柱は、父であったり父母二人であったりする一族だ。
 その子は成長して出稼ぎに行くまでは、親の姿を形取り人形となる。
 その能力も借りて成長するから、まだ未熟な子供たちでも、大抵の賊には対処できる。
 それを知っているのか、一族の大黒柱達は、未だ刃にかかっていない。
「しかし、ここまで強大な連中が、この地に迫っていたとはな。何が気に障ったのか」
「それとも、何か狙う者があるのでしょうかね」
 大黒柱の一人の女が、ちらりと一瞥した先には、青ざめた少女がいた。
 青白い肌と青い目。
 髪の毛まで真っ白なせいで、動揺した今はそのまま消えてしまいそうなほどに、白く感じた。
 立っているのがやっとの少女を、オキはしっかりと抱え込んでいた。
「そう、そうやって、しっかりと捕まえておきなさい」
 一瞥の後、すぐに賊の様子を伺っていた女が、何でもないように言った。
「誰にも渡さない気概こそが、力になることもある」
 情のある言葉に、少年はしっかりと頷いた。
「……強大な力を持っていますが、数は思ったよりも少ないです」
 気配を辿っていたオキの兄が、静かに告げた。
 父が小さく笑う。
「逆に、厄介な連中だと言う事だな」
「はい」
「ですが、こちらもまだまだ、運がある」
 別な大黒柱が言い、その娘もうっすらと笑った。
「まさか、独り立ちできたと思ったら、すぐに一族の存続にかかわる事態に陥るとは。これで生き残れたら、いい語り草が出来ます」
 緊迫した空気の中で、笑いが湧いた。
 同時に、士気も上がっていく大人たちの中で、オキも気を引き締めた。
「オキ」
 静かに呼びかけたのは、母親だった。
「あなたは、(りつ)を連れて、逃げなさい」
「何でっ? オレも、戦う」
「馬鹿。お前が戦ったって、何も変わらない」
 兄が見下すように言い放ち、むっとした少年を笑う。
「律を連れたまま、本気で戦えるのか? それより、女を守って、どこかに隠れてろ」
 見上げた目を見返す兄の目は、そんな気楽な言葉とは裏腹の、真面目なものだった。
「騒ぎが収まるまで、出て来るんじゃないぞ」
 覚悟を、感じた。
 絶望しか感じない事態で、目当てであろう娘を逃がすことで、少しでも留飲を下げようと言う、足掻きでもあっただろう。
 だが、それも、本当に無駄な足掻きとなった。
 律の手を引いて山を駆けていたオキは、前に立ちふさがった大男を見上げ、そう感じた。
 待ち伏せされていたわけではない。
 一族の殆んどが、すでにこいつの仲間の手にかかって、手が空いたこの男が、自分を追って来たのだろう。
 立ち塞がった赤毛の男は、オキを見下ろして舌打ちした。
「まだ、ガキじゃねえか」
 その言葉で、目を険しくした少年の後ろの少女を見止め、男は頷く。
「確かに、毛色が珍しい狐だな。良くここまで成長したもんだ」
 見据えられて身を固くした律の前から、オキが男へと飛び掛かった。
 拾った木の枝で先手を打って打ちかかり、油断していた男が動転するのを見ながら、叫ぶ。
「先に逃げろっ」
「でもっ」
「早く行けっ、直ぐに追いつくから……」
 必死で言いつのる声が、男の反撃で途切れた。
 拳が体に入り、そのまま小さな体が吹き飛んだ。
「ったく、あんまり、手間かけさせんじゃねえ。余計な苦しませ方は、したくねえんだよ」
 溜息交じりに言い、大男は腰から剣を抜いた。
 地面に倒れたまま、起き上がれないオキの前に立ち、その姿を見下ろす。
「や、止めて下さいっ。お願いです、この人は……」
 咳込む少年を抱え起こしながら、律が懇願した時、オキの体が変化した。
 抱きしめた体が小さく縮み、本来の黒猫の姿に戻るのを見て、律は家族の死を知った。
「お、やじ……嘘だろ」
 呟いた黒猫を抱きしめ、少女も顔を歪める。
 そんな二人を見下ろし、男は首を振って嘆いた。
「おい、ガキ相手でも後ろめたいってのに、小せえ猫を相手にしろってか。ったく、お前が無駄に足掻くから、こうなったんだぜ。悪く思うんじゃねえぞ」
 無慈悲な物言いに、律は男を睨んだ。
 オキを抱く腕に、さらに力を込める。
「だから、悪く思うんじゃねえぞって。お前は、お袋の元で、幸せに暮らしゃあいいじゃねえか」
「……私が、母の元に戻るなら、この人を助けてくれるんですかっ?」
 真顔で言う少女と、思わず顔を上げて律を見る猫の前で、男は少し考えて頷いた。
「ああ、助けてやるぜ。だから、そいつから離れろ」
「……おい、信じるなっ、そいつ、初めからオレたちを、殲滅する気だ」
 オキの言い分を聞くまでもなく、律も分かっていた。
 幼い頃、自分を置いて去る母親が、心にもない事を言っていた時と、同じ顔だ。
 だが、このままここにいても、オキは助からない。
 それならば、少しでも望みがある動きをしたのちに、自分もオキや家族たちの後を追おう。
 そんな気持ちが滲んていたのか、オキがその顔を見上げて首を振った。
「駄目だ、お前は、お前だけは……」
 黒猫を見返して、少女は微笑み、その体を地面に置いて立ち上がった。
「い、行くなっ」
 叫んだオキの声を背に、律が男の方へと歩み寄ろうと足を踏み出したが、その前に立ちふさがった者がいた。
「……弱いもんをいたぶるのが、そんなに好きなのか、あんたは?」
 自分より、年かさの少年だった。
 黒髪で整った顔立ちの少年は、かなり怒っているようだった。
 そして、前に立つ男とは、顔見知りのようだ。
「お前、何で、ここにいんだよ?」
 赤毛の男が驚いて、目を剝いたまま尋ねたその目の先で、更なる驚きが重なった。
「わ、本当に子供だっ。可愛いな」
 自分と同じくらいの、男勝りの少女が、重なる事態について行けずに立ち尽くす律に気付き、破顔した。
「わーい、女の子が増えた。いっぱい遊べるっ」
 嬉しそうな声と共に、二人の少女が律の体に抱き着いた。
「こらこら、驚かしてはいかんぞ。初めて会う友達には、まずは名乗らないとな」
 赤毛の男が、目を剝いたままぎょっとした。
 笑いの滲む声で少女たちを窘めたのは、いつの間にか律とオキの傍に立っていた、若者だった。
 赤毛の男より、頭一つ分は小さいその若者は、瞼を閉じたまま少女を見下ろし、微笑む。
「線が細そうな、狐だな。だが、心根は強い様だ。名は何という?」
 四つん這いで立ち上がり、威嚇するオキの頭を撫でながらの若者の問いに、少女は知らず答えていた。
「律、と言います」
「そうか。良い名だな。お前は?」
「……オキ」
 威嚇しながらもつい答えた黒猫が我に返って、本来の敵の男を見た。
 赤毛の男は、顔を険しくして若者に声を投げた。
「お前、何で、ガキどもを連れて来たっ?」
「何を怒っているんだ? ただの夜の散歩だ。子供たちだけに留守を任せて、出かけるわけにはいかんだろうが」
「だからって、なんでよりによって、ここに……」
 尋ねる男に首を傾げ、若者は笑った。
「何でだろうな。それは、分からん」
「何だとっ?」
「だが、来てよかった。これで、鏡月の腹も決まっただろう」
 言われた少年は、立ち塞がったまま物騒に笑って見せた。
「ああ、腹は決まった。こんな殺戮を好むところになんぞ、居つけるかっ。ミズ兄、早くどっかに行っちまおう」
「おいっ、早まるなっ。いいか、これには事情が……」
「事情、か」
 男の必死の声を、若者が楽しそうに遮った。
「下らん事情だろうな」
「なっ」
「力を失ったガキにまで、刃を向ける事情なんぞ、下らんものだと、決まってるだろうが」
 男の顔が、怒りで歪んだ。
「目が見えなくなって、役に立たねえ男が、偉そうなことを、ほざいてんじゃねえぞ」
「役に立たんかどうかは、試してみんことには、分からんと思うが?」
「おう、泣きを見ても、知らねえぞ」
 剣を構え、体に殺意を乗せた男を前に、若者は持っていた細長い杖を、地面に突き刺しながら、言った。
「律とオキ、と言ったな? お前ら、どうしたい?」 
 顔を上げた二人を見ないまま、若者は続けた。
「恐らく、オキはこの先しばらく、人形を取れないだろう。それでも、二人で生きる方を選ぶか? それとも、この男の言い分に従うか?」
 見知らぬ人だ。
 だが、律はすぐに答えていた。
「この人と一緒に生きれるのなら、この人がどんな姿でも構いません。力を失ったのなら、私が力をつけますっ」
 若者が微笑んで、少女の頭に手を置いた。
「よく言った。その術は、オレが叩き込んでやる。その前に、邪魔者は、消してしまおうな」
 言いながら、若者は杖の先を握った。
 と思ったら、いつの間にか、赤毛の男の背後にいた。
 振り返って身を引く男の手から、剣が零れ落ちる。
「?」
「剣は、手に持っていないと、武器にも防具にも、ならんぞ」
 唖然として、自分が落とした剣を見下ろす男に、若者はやれやれと首を振った。
 その手には、細身の剣がある。
 軽い音が響いたと思ったら、もう一人男が増えていた。
 赤毛の男の前で、若者の振り下ろした刃を、剣で受けている。
「……出たな、化け物その二」
「誰が化け物だ。お前もその一人だろうが」
「何を失敬な。オレはあんたらと違って、年老いて死ぬ」
 若者の真顔の意見に、銀髪の大男はつい吹き出した。
「それだけが、違いか? さして変わらないじゃないか」
「大きな違いだろうが」
 そこでようやく、赤毛の男が後ろに後ずさった。
「何で、そんなに早く動けるんだよっ? お前、目が見えるようになったのかっ?」
 銀髪の男が小さく笑い、若者がきょとんとした。
 閉じていた目を開き、答える。
「元々、こんなだが。面倒だったから、目を開かなかっただけだ」
「は?」
「……あんた、気づいてなかったのかよ。それでよく、剣の使い手を名乗ってんな」
「何だとっ?」
 呆れた年長の少年が、睨む赤毛男に言った。
「ミズ兄は元々、小さい頃から、目が見えてねえの」
「いやいや、気づかれても困る。弱みになることもあるからな」
「お前さんの弱みには、ならんだろう」
 銀髪の男が言いながら、交えられていた刃を払い、剣を構える。
「久しぶりに、腕が鳴る相手のようだな」
「そうか? 随分と退屈していたんだな」
 若者も表情を改め、細身の刃の剣を構える。
 年かさの少年が、その隙に律たちに近づき、その背に守るように立つ。
「……待ってろよ。すぐこの場から、逃げられるからな」
 のんびりと笑う後ろで、二人の男が切り結んでいるのが見えた。
 はらはらと見守る律に、少女の一人が笑顔で声をかける。
「私、ユウって言うの。この子はジュリ」
「は、はあ」
 呑気にも見える会話に戸惑う少女に、同じ年ごろの男勝りな少女も声をかけた。
「律って言うんだな。オレ、ラン。こっちは、ジュラ。よろしくなっ」
「よ、よろしく?」
 今迄の話は、全く無視した挨拶だ。
 戸惑ったままの律の前で、切り結んでいた二人の戦いが、唐突に終わった。
「うわっ」
 男二人の声が、驚きの色で揃った。
 同時に動きを止めた二人の間に、もう一人の男が立っている。
「……やはり、身を挺して止めるのは、良策ではないですね」
 真面目な顔で、その男は言った。
 若者と大男の間くらいの体つきのその男は、二人の刃をその身に刺し、しんみりと言った。
「串刺しは、流石に痛い」
「あ、当たりめえだろうがっ」
 一瞬、唖然として見ていた赤毛の男が、盛大に言い返した。
「しかし、無理にでも止めないと、この隙に鏡月だけでなく、子供全員が姿を消しそうでした」
 男は言い、呆れ果てている二人に声をかけた。
「そろそろ、剣を引いてくれませんか? このままでは、話しづらい。聞く方も聞きづらいでしょう」
 最初に、剣を引き抜いて引いたのは、若者の方だ。
「……相変わらずの、化け物っぷりだな」
「これと一緒にされるのは、流石に不本意なんだが」
 銀髪の大男も剣を引き、気の抜けた溜息を吐く。
「で、終わったのか?」
「はい」
 大男の問いに、真面目な顔でしっかりと答えた男は、顔を強張らせた少女を見下ろした。
「難儀しましたよ。真に迫っていないと、周りが騙されてくれませんからね。根は強い一族だったようですので、あれで何とかなるでしょう」
「そうか」
 銀髪の大男はその説明だけで得心し、子供たちを庇って立つ若者を見た。
「本性を現したところで、改めて話をしたいんだが、一度、元の場所へ戻ってくれるか? その子ら、全員連れて、な」
「……」
「話が決まるまで、その猫の命も預かる。その娘の処遇も。ヒスイやロンには、言い含めて手出しさせないと、約束しよう」
 真に迫った言葉を受け、少年と若者は一旦元居た場所へ戻り、どんな話し合いが凭れたのかは知らないが、なぜか長々と居続けることとなった。
 その年月は、数十年と短いものだったが、律は水月と言う師匠の下で強く育ち、オキも猫のままとは言え、徐々に力をつけて行った。

 その終わりは、唐突なものではなかった。
 水月がカスミの元を離れる事を決めた時から、この終わりは予想されていたと言ってもいい。
 だが、それを見届けた者全てが、それを実感したのは夜が更けた頃だ。
 昼間倒れた男が、息も鼓動もなく全く動かないのを見ても信じられず、本当に死を受け入れられたのは、その体が冷え切って固まり始めた頃だった。
 横たえられた亡骸の枕元で、ただ座っている律と鏡月は、その死を実感しても涙を流すことがなかった。
 すすり泣く女たちの声を聞きながら、律は膝にすり寄ったオキの体を、ゆっくりと撫でる。
 鏡月は、顔を伏せたまま静かに立ち上がった。
 見とがめる者は、いない。
 群れを離れると、辺りは静かだ。
 血の繋がる者はまだいるが、頼れる身内は水月だけだった。
 その水月が、一番気心知れた自分の師匠に、敗れた。
 感情がこみ上げるにはまだ早すぎる様で、何も感じない。
 凌は水月を斬り払った後、倒れた男を見下ろして立ち尽くしていた。
 従兄に駆け寄る弟子に背を向け、黙ったまま立ち去ってしまった。
 鏡月の兄弟子たちも、あの場にはいない。
 水月の体が固まり始めた頃、カスミが静かにやって来ただけだ。
 今後、どういう話になるのかは分からないが、自分と律がここを出る事を選んでも、引き留められることはもうないだろう。
 ひんやりとした夜風を受けながら、鏡月は暫く夜空を見上げて立ち尽くした。
 その風に、僅かな血の匂いが混じっているのに気づき、我に返る。
 この辺りに知った人間はいないようだが、匂いでそれと分からない者に、心当たりがあった。
 慎重に匂いを辿り、その血の匂いが濃くなった場所で、立ち止まった。
 山奥の、険しい岩場の間に、誰かが座り込んでいる。
 岩壁に背を預けたままのその誰かは、顔を伏せたまま動かない。
 月明りの中で銀色に光る頭と大きな体を、鏡月は無言で見下ろした。
「……」
 この人は、何かを残すことなく逝く気か。
 水月は、子供を儲けて逝った。
 呪い持ちで、長く見守る事が出来ない事を悔やみながらも、死にざまには満足していたはずだ。
 逆にこの人は、様々な悔いを残したまま、一人で去ろうとしている。
 小さく咳込み、目を上げた男が、若者に気付いた。
 ただ見下ろす鏡月を見上げ、凌は笑う。
「見つかったか。かくれんぼには、向かないようだな」
 こんなでかいなりでは、身を隠すのにも不向きだ。
 自嘲気味に笑い、黙ったままの若者を見上げると、すぐに真顔になった。
「済まなかったな。もう少しオレが器用なら、水月にとりついた呪いを、解くことも出来たかも知れない」
「何で、謝るんだよ……そんなの、あんたが出来るはず、ねえじゃんか。あんたにそんな事、望んでねえよ」
「そうか、そうだな」
 短く返して見返す凌の目は、昔と変わらない。
 可憐な花の一つに、この色の花びらを持つものがあると知った時は、道行くたびについつい、その花を探した。
 傍にいても嫌じゃない男が師匠となり、今は仇になった。
 怒りはない。
 ただ、身内の死が開けた大きな穴が、どうやったら埋まるのか、分からずにいるだけだった。
「謝って、死で報いる気なら、やめてくれ。あんたは、生きろ。オレや律の恨みや悲しみを、全て受け止める為に」
 どう言って、謝罪を流そうかと考えた挙句、鏡月は乱暴にそう言っていた。
 その顔を見つめ、凌は小さく笑う。
「ああ、そうしよう。次に会う時は、その恨みも全て受けてやるから、今はそっとしていてくれ。もう少しだけ、休ませてほしい」
 とにかく疲れたと目を瞑った男は、若者の去る気配をそのまま見送った。
 親族の者を避け、人払いしたこの場に、鏡月が気づくとは意外だったが、それだけ重傷で血の匂いがひどいのだろう。
 狂った水月の剣は、武器も狂っていた。
 一息に終わらせようとした一閃を縫って襲った刃は、完全に内臓をえぐり取っていった。
 つい、相手がどういう状況になるかも考えず反撃して、名ばかりの勝利は治めたが、回復するとは思えず、一人の療養を選んだのだ。
 随分長く、生きていた。
 もう充分だろうと、凌は固く目を閉じた。
 二度と、目覚めないだろうが、悔いはない。
 最期に、弟子の顔を見て謝れたのだから、それでいい。
 心残りがあるとしたら、その弟子が本当の意味で目覚めるのを、この目で見れなかった事だろう。
 望む者の、癒しの力を引き出す力。
 そんなものが目覚めたら、気安く師弟として付き合えなくなり寂しくなるだろう。
 それでも、誰かに想い寄せる若者を見るよりはましだと、その日を心待ちにしていたのだが、叶わなかった。
 もうこうなれば高望みはしないから、若作りなあの弟子も幸せになって欲しいものだと考えながら、凌は意識を沈めていく。
 朦朧とした意識の中で、夢を見た。
 頭を柔らかい体に抱きしめられ、そのまま口づけされる夢だ。
 痛みが和らぎ、体に熱が孕むのが分かるが、依然として動けないから、矢張り夢だ。
 色恋に縁がなかったのに、女を抱く夢でも見ているのかと、凌は内心苦笑した。
 
 それは、ラブロマンスの、序章だった。
 カスミが書いた、架空の映画撮影の台本。
 読み合わせしている三人の女は、男役すら使い分けて読んでいて、臨場感もあった。
 早々にカウンター席のテーブルに、頭を抱えて突っ伏したのは鏡月だ。
 潰されそうになって若者の膝から避難し、隣の椅子に座った水月は、出されていたホットミルクを啜った。
 様々な思いの溜息を、盛大に漏らす。
「……おい」
「言わないでくれっ」
 小さく呼びかけた幼い少年に、鏡月は小さく吐き出した。
 瀕死の末、無事復活を遂げた男の、寝込みを襲う女。
 その女が秘かに身籠り、先の話にも登場するのだが、鏡月の素直な反応が、気づかせたことがあった。
「お前、すごいな。あの旦那の、寝込みを襲ったのか」
「言わないでくれって、言ってるだろうがっ」
「こじつけかと思って、身籠る件は流し読みしていたんですが、鏡月?」
 突っ伏した若者の逆隣りで、コーヒーを啜っていた律が呼び掛けて、溜息を吐いた。
 違和感は、会った当初からあったのだ。
 ウルに紹介された、ライラと言う女。
 顔見知りの母親だと言われて、何故かしっくりこなかった。
 そして、何故か凌から逃げ回っている、鏡月にも違和感があった。
 逃げ回っている割に、その子供の若者には、何だかんだと理由をつけて係わっているのだ。
「……出来心だったんだ。ただ、怪我を治してほしくて願ったら、段々逆に弱って来て、慌ててしまって……」
 視力と引き換えに、無事怪我を治し安心した時、動かない男が珍しくて、ついつい触り過ぎたのだ。
「だろうな」
 我に返った鏡月は、慄いた。
 そして、芽吹いた物を、男の体に丸投げしてしまったのだ。
「まさか、あんな長い間、女の一人も作らんとは、思わなかったんだっ」
「だよな」
 予想以上の朴念仁、凌の話だ。
 凌に丸投げされた愛の結晶は、そのまま体内で眠り続け、ライラと言う女と出会った時に、ようやく眠りから覚めたのだ。
 こんな形で真実を暴露され、鏡月は仕事中も動揺した。
 今は顔も上げられない程に、憔悴しているのだが、水月は面白そうに笑った。
「まだ、何か面白い話が、隠れているのだろ? 楽しみだな」
 流石はカスミの旦那だと、少年は昔の知り合いを称賛した。
 舞い戻った世で、こんなに楽しい過去話が聞けるとは、思っていなかった。
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