第1話 山辺団地のルール

文字数 5,037文字

1話「山辺団地のルール」

花壇で向日葵が咲いている。沙原由子(さはらゆうこ)はまだ雨粒のはねるビニール傘をちょっと傾けて、目の前の建物を見上げた。山辺(やまのべ)団地。今日から彼女の新しい家になる場所だ。

(……あ)

見上げた外壁はほとんど緑色で、それが植物のツタだと気づくまでに時間がかかった。視線を下へ移動させると、先ほどの花壇に咲いていた向日葵(ひまわり)の花びらの鮮やかな黄色が目にとまった。近づいてみると向日葵のほかに百合や紫陽花などさまざまな花が植えられている。そのどれもが状態から丁寧に育てられているのを感じた。

(いけない、管理人さんに挨拶しなきゃいけないんだった)

花壇の花々に見入っていた悠子はハッとして、片手にぶら下げていた小さな紙袋を見た。傘からはみ出た上のほうが濡れているが、中身は大丈夫そうだ。急いで持って行こう。

「いいんですかこれ、頂いてしまって」

管理人の久世亨(くぜとおる)が申し訳なさそうな表情でたずねる。7月も後半だというのに淡い青色の長袖のシャツと紺のジーンズ姿、時折手にした近所にあるスーパーの名前がでかでかと入ったうちわで急がしくあおいでいる様子を見るとこちらまで汗が出てきそうだ。

「ええ。つまらないものですけどよかったら召し上がってください」
「すみませんねえ、では有り難く頂戴します。あ、えっとあなたお名前は?」

そのまま管理人室から出ていこうとする由子を久世が呼び止める。

「え?沙原由子ですけど」
「ああ、今日から404号室に入られる方ですね。はい、これ部屋の鍵です。失くさないようにしてください」

管理人室の壁にかけられた鍵の中から久世が由子の手に404と印字された赤いプレートの付いた鍵を手わたす。

「あー……それから、今ってお時間あります沙原さん?いくつかお伝えしたいことがあるんですが」

久世が少し言いにくそうな調子でたずねてくる。視線は由子の濡れたスーツに注がれている。さっき帰り道で降られたのをすっかり忘れていた。

「あの、すみません。風邪ひく前に服だけ着がえてきます、すぐ戻るので」
「ああそうですね。そうしてください」

濡れたコートを見た久世がうなずく。由布子はもう一度「すみません」とだけ言って管理人室を飛び出し、4階への階段を駆け上がった。



4階の部屋で手早く着がえを済ませた由子は管理人室にもどるため、再び階段を下りようとしたところで奥のほうにエレベーターが設置されているのに気がついた。さっき外から見上げた時にさらに上のほうにも部屋があったはずだ。上がってきた時に太腿あたりが痛かったので、下りるのはこっちを使おう。由子はそう思い、エレベーターの逆三角形が書かれたボタンを押す。チーン、と間の抜けた音がして目の前のドアが開く。中には誰も乗っていなかった。

(管理人室はたしか、1階だったよね)

由子は頭の中に先ほど行った管理人室を思い描いた。隣は101からの部屋番号で始まっていたはずだ。由子はためらわずに1階のボタンを押した。ゆっくりとドアが閉まり、下降が始まる。しばらく経たないうちにドアが開いた。由子は急いで外に出て管理人室まで走る。

「遅くなってすみません、今戻りました!」

管理人室のドアを勢いよく開け、由子が中に声をかけると久世が「おかえりなさい」と言った。先ほど手にしていたうちわがいつの間にかカップのアイスに変わっている。

「あの……さっき伝えたいことがあるって言ってましたよね、何ですか?」
「ああ、別にそんなに大したことないんですけどね……一応この団地のルールなので。はい、これ」

久世はアイスを食べる手を止めて、由子の前に何かが印刷された紙を差し出す。ざっと目を通すと以下のようなことが書かれていた。

【山辺団地のルール】

①夜間の外出は禁止 

②団地内の花には必ず水をやる 

③地下階は立ち入り禁止

「この3つさえ守っていただければ問題ありません。ただし、1つでも破ったと私の耳に入ったら即出ていってもらうのでよろしくお願いしますね」

由子が紙に目を通し終わったと判断した久世がカップの中のアイスを付属のスプーンですくって口に運びながら言った。その額にはうっすらと汗が光っている。

「あの、いくつか質問いいですか。1つめの夜間の外出は禁止って……どうしてですか」
「それですか。ほら、最近ニュースになってるでしょう不審死。なぜかこの団地の周辺で多いんですよ……必要なら許可しますが、他の入居者の方にもなるべく外出は夕方までに済ませるようにお願いしています」

久世の由子はうなずき、次の質問をする。

「次に2つめ、団地内の花には必ず水をやるというのは?」
「ウチの団地は共同で花を育てているんですが、単に数が多いので皆さんに分担して水やりをしてもらってます。特に深い意味はありません」

由子は再度うなずき、最後の質問をする。

「では3つめ、地下階は立ち入り禁止というのは?」
「ああ、それでしたらこれも単純に老朽化していて危ないのでという理由で立ち入りを禁じています。この団地は昭和初期に建てられたらしいので」

久世はパイプ椅子に背をあずけ、食べ終わったカップアイスの容器を近くのテーブルの上に置く。

「……他に何か、お聞きになりたいことはありますか。なければそろそろ仕事に戻りたいのですが。日も暮れてきてますしね」

久世がそう言って窓の外を見る。白っぽい空の片隅に夕焼けのオレンジ色が水でにじませた絵の具のように出てきていた。

「す、すみません。つい気になってしまって」
「いえいえ、皆さん入居されると必ず聞かれるのでもう慣れっこですよ。あ、そうだ沙原さんもう夕方ですし……よければ夕飯のおかずにこれ、持って行ってください」

由子が謝ると久世がそう言ってパイプ椅子から立ち上がり、奥の小型冷蔵庫を開ける。白いビニール袋にいくつか冷凍食品を詰め、由子に差し出した。

「あ、ありがとうございます。いいんですかこんなに」
「ええ。私1人ではとても食べきれなくて困っていたので」

久世が微笑む。由子はもう一度礼を言って管理人室を後にした。



(意外にいい人だったな管理人さん。年いくつなんだろう、うちのお父さんと同じくらいかな)

404号室に戻った由子は久世からもらった冷凍食品を電子レンジで温めながら今日あった出来事を振り返る。1番印象に残っていたのは例の管理人だった。年齢はだいたい50代後半に見えたがもう少し若いかもしれない。この時期に暑いだろうに長袖シャツにジーンズ姿なのは何かわけがあるのだろうか。伸ばした前髪を含む髪はほぼ真っ白で顔の右半分を隠していたのも気になる。

(あ、管理人さんの名前聞き忘れた)

由子はそこで気がつく。渡された団地のルールの紙を読んだ後、そればかりが気になってしまって失念していた。ふいに電子レンジが鳴る。由子は両手にミトンをはめ、中の皿を取り出す。たらこパスタが湯気をたてていた。食器棚からフォークを持ってくるとぐう、とお腹がなる。

(まあ……それは今度でいいか)

食欲に負けた由子は「いただきます」と言った後、考えるのをやめてパスタを食べることに集中した。



夜、寝苦しさで久世は目を覚ました。管理人室兼自室の部屋の窓は開けているし、扇風機もゆるくついている。久世はベッドから起き上がり、窓の外を見る。雨が滝のように降っていた。寝苦しさの原因はこれか。久世は扇風機の風量を中に切り替え、再びベッドに戻る。

(……まさか)

久世はベッドの端に座ると寝間着として着ている白いシャツの袖口のボタンを外し、おそるおそる覗きこむ。開け放った窓から差しこんだ弱い光が日焼けひとつしていない白い腕に赤黒くみみず腫れか植物の根のような模様が一面に広かった様を映し出す。久世の顔が一瞬ひきつる。

(もう……こんなに広がってたのか)

久世が浮き出た血管にも似た腕の模様にそっと指先で触れるとそれがぴくりと脈打つように(うごめ)いた。

「…………嬉しいのか?ああ今日はよく雨が降るからな」

久世は愛おしそうに腕の模様をなでながら優しく囁く。応えるように模様が何度も久世の手の下で蠢く。久世はその様子を見ながら嬉しそうな表情を浮かべ、再び眠りに落ちていった。



翌日。昨日の雨は嘘のように止んでいた。由子が管理人室に昨夜のお礼を言いに行くと、ドアの向こうの寝起きらしい久世は青白い顔をしていた。目の下には薄く隈がある。

「おはようございます沙原さん。ああ、それでしたら気になさらなくて結構ですよ」
「でも……そんな悪いです」

由子がそう言うと久世は手を軽くふって笑う。

「いいんですよ。それより沙原さん、お仕事大丈夫ですか?」
「え……ああっ!いけない、遅刻するので急ぎます。あっそうだ管理人さん、お名前なんておっしゃるんですか?」

由子は久世に言われて腕時計を確認する。出勤時間5分前だった。

「え、ああ。私ですか。くぜ……久世亨です」
「久世さんですね、ありがとうございます。じゃあ行ってきます!」

由子は久世の名前だけ聞くと大あわてで団地の門をくぐって出て行った。久世はその姿を見送りながら「行ってらっしゃい」とつぶやく。

「おはようございます、久世さん。今の方、もしかして新しく入られた方ですか」

外で花壇に水やりをしていた初老の男性が由子が出て行った門から入ってきて久世を見つけ、声をかけてくる。たしか春川瑛二(はるかわえいじ)という名前だったはずだ。

「おはようございます、春川さん。ええ、昨日404号室に入られた沙原さんという方です」
「ああ~そうなんですか。私の住んでるのが403なので、それなら隣同士ですねえ」

久世が「ぜひ仲良くしてあげてくださいね」と言うと春川はにっこり笑ってうなずき、花壇の水やり作業に戻っていった。久世は春川がいなくなると管理人室に戻って鍵を閉め、ベッドに横になる。昨夜はあれから何度も起きてしまって眠れなかったのだ。

(……少しだけ、寝るくらいなら)

久世は横向きになり、枕に顔をうずめて目を閉じる。首近くまでかけた薄手の布団がほんのりと暖かく、すぐに眠気がやってきた。



ドンドン、と激しく管理人室のドアを叩く音で久世は飛び起きた。ベッド近くに置いていた目覚まし時計を見ると時刻は午後7時を過ぎている。

(そんなに眠ってたのか)

乱れた髪とシャツを直すと久世はドアの鍵を外す。すると息を切らした由子が管理人室に飛びこんできた。

「ど、どうしました沙原さん」
「あのっ……久世さん早く来てください。は、春川さんって方が」

由子が息を整えながら声を絞りだす。

「え?春川さんがどうかしたんですか」
「春川さんが…………倒れられて病院に緊急搬送されたそうです」

久世は言葉を失った。春川は今朝、自分と会って話し、そのまま別れた。あの時はたしか……花壇の水やりをしていたはずだ。まさか。

「く、久世さん大丈夫ですか。顔、真っ青ですよ」
「い、いえ。とにかく春川さんのいる病院に向かいます。場所、わかりますか」
「はい。たぶん近所の夜見総合病院だと思います。あの……わ、私も一緒に行きます。隣の部屋の方だったそうですし」

久世は由子にうなずくが、すぐに思い直して首を横にふった。

「……沙原さん、夜間外出は禁止だと言うルールをお忘れですか?病院へは1人で行けるので大丈夫です。すぐに部屋に戻ってください」
「で、でも……!」
「駄目です、部屋に戻ってください」

食い下がる由子を管理人室の外に押し出し、久世は「ドアの鍵を忘れずに」と言った後にさらに付け加える。

「もうひとつ。夜中にインターホンが鳴ったり玄関ドアがノックされても決して開けないでください……いいですね?」

久世の気迫におされて由子はうなずくしかなかった。

「……はい」
「ではまた明日、おやすみなさい」

久世はそう言うと由子の目の前で管理人室のドアを閉めた。由子はコンクリートの床からやっとのことで立ち上がり、4階に続く階段を上がり始めるが数段進んだところで足が疲れて座りこんでしまう。

(久世さんは一体何を恐れているんだろう)

「私が気にしても仕方ないか……。急いで部屋に戻ろう」

由子は足を揉んで再び階段を上がりだした。404号室に着いた由子は鍵を開けて中に入り、久世から先ほど言われた通りに玄関ドアに鍵をかけてドアチェーンもした。

(これでいいかな)

由子の口から欠伸がこぼれた。同時に1日の疲れからか眠気がやってくる。食事は済ませたが入浴する気にはなれず、由子はベッドまで歩いてゆき横になる。目を閉じるとあっという間に眠りに落ちていった……。
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