第2話 病院にて

文字数 3,139文字

2話「病院にて」

翌朝。目覚まし時計のアラームで起こされた由子はぼさぼさの髪のまま起き上がる。ぼうっとした頭で枕元に置いていたスマートフォンを見ると管理人の久世からメッセージが数件届いていて、一気に眠気が吹き飛ぶ。

《昨夜は怒鳴ってしまってすみませんでした。春川さんの緊急搬送された夜見総合病院にあの後行きましたが、面会時間外で会えませんでした》
《帰り際にナースステーションで春川さんの容体を聞きましたが命に別状はないそうです》

(……よかった)

由子は安堵し、メッセージアプリ・LETTERS(レターズ)にキーボード機能を使って返信を打ちこむ。

《おはようございます、それはよかったです。あの後ずっとそのことが気になっていました》

由子の送ったメッセージはすぐに既読マークがつき、久世から返事がきた。

《心配をおかけしてしまってすみません。日があるうちなら外出しても大丈夫ですから、沙原さんの都合がよければ夜見総合病院までお見舞いに行きませんか?》

由子はそこでふと今日が土曜日だったことを思い出す。目覚まし時計をいつもの癖でセットしていた自分を恨んだ。

《はい、ぜひ!後から管理人室まで行きますね》

由子はそこまで打ってスマートフォンを閉じると寝間着からいつも仕事に出かける時に着ているスーツに着替え……かけ、あわてて普段着のベージュ色のパーカーと紺のジーンズに変える。LETTERSの通知音が鳴る。久世からの返信だ。

《いえ。わざわざ何度も来ていただくのもあれですし、こちらから向かいます。OKなら連絡お願いします》

「もう……これでいいか」

寝ぐせであちこちにはねた髪をブラシでなでつけながら、由子は浴室に併設された洗面台の鏡を見てつぶやく。寝室兼リビングの部屋に戻るとパーカーのポケットからスマートフォンを取り出し、久世に部屋に来てもいいという返事を打ちこむ。数分経たずに返信がくる。

《わかりました。では伺わせていただきます》

由子はメッセージに目を通すと外出用の灰色のショルダーバッグにスマートフォンと財布、読みかけの文庫本その他諸々を詰めた。あと何か必要なものはなかったかと部屋の中を探していたところに玄関のチャイムが鳴った。由子は部屋から出て念のためドアスコープを覗く。久世が立っていたのでドアチェーンを外して開け、出迎えた。

「おはようございます沙原さん。そういえば今日は土曜日ですから、お仕事お休みでしたね……うっかりしていてすみません」

そう言って苦笑する久世は今日も長袖の淡い黄緑色のシャツと黒のスラックス姿だ。目の下の隈が昨日より濃くなっている気がする。

「おはようございます。いえ、それは大丈夫です。私も朝一瞬あせりましたけど」

由子は久世の様子が気になったものの口には出さなかった。久世が「行きましょうか」と言う。朝から階段を降りる気にはなれなかったのでエレベーターで久世と一緒に1階まで降りることにした。

「私、夜見総合病院ってあまり行ったことないんですけど久世さん昨日どうやって行かれたんですか」
「ええと、夜でしたし歩きじゃなくてタクシーを使いました」

由子はなるほどと納得する。タクシーなら夜間でも安心して移動できる。

「あ、着きましたね」

久世がドアが開く気配を感じて言う。外に出ると気持ちのいい風が吹いていた。夜見総合病院へは山辺団地から行くのに30分ほどかかるらしい。久世と相談してタクシーを呼ぶことにした。



「……こんにちは春川さん、体調はどうですか」
「ああ……わざわざ来てくださったんですねえ久世さん。おかげさまですっかり良くなりましたよ」

春川が入院中の病室をナースステーションで聞き、由子と久世がベッドのそばまで行くと眠っていた春川は薄目を開け、にこやかに微笑んだ。

「それは良かったです。怪我とか、は…………」
「どうしました?」

久世が春川の着ているレンタルの寝間着の袖口からのぞいた腕を見て、目を大きく見開き固まる。

「久世さん……?大丈夫ですか」
「ああ。いえ……なんでもないです。帰りましょうか沙原さん、ではまた来ますね」

由子の囁く声に一瞬ハッとした久世は、ベッドの春川にまた来るとだけ告げて病室を後にした。

「あの、どうか……したんですか。すごく顔色悪いですよ」
「……いえ、私の見間違いです。きっと疲れてるんです」
「何がですか」

由子が意味をつかめずにいると廊下を歩いていた久世は突然、由子の手を引き突き当たりの部屋に入る。監視カメラがないのを確認するといきなり自分の着ている長袖シャツの袖をめくって腕を由子に見せた。

「沙原さん今、私の腕に何か……見えますか?植物の根っこみたいな模様とか」
「いいえ、何も」
「そうですか。ならまだあなたは…………

ないんですね」
「呪われてないって……それ一体、どういう意味なんですか」

由子はひどく怯えた表情で自分の腕を見つめる久世に問いかける。

「……それは、今ここで話すのは難しいので一旦場所を変えましょう。沙原さん、行きつけのカフェとか喫茶店ありますか?」
「あ、ありますけど」
「じゃあ……そこまで行きましょう。腕、急に引っ張ってすみませんでした」

久世がシワになってしまった由子のパーカーの袖を伸ばして直してから申し訳なさそうに謝った。



由子と久世が夜見総合病院から出て向かったのは落ち着いた内装のレトロな雰囲気の喫茶店だった。向かい合わせで座ったテーブルに注文したアイスコーヒーが2つ運ばれてくると、由子も久世も無言で飲み始める。外は快晴で道に陽炎ができるほどに暑かった。

「久世さん……さっきの病院での話の続き、聞かせてもらえますか。春川さんの病室で何を見たんです?」

手にしたアイスコーヒーを紙ストローで半分ほど飲んだころ、由子が切り出す。久世はうつむいたままだ。

「…………春川さんの腕に、寝間着の袖からちらっと見えただけですが模様が……あったんです。こんなふうな」

久世はそう言うと自分の目の前に置かれた紙ナプキンに机の隅に立てられたボールペンでぐりぐりと、植物の根のようなものを描く。あまり上手くはないが何かは分かった。

「……それ、さっき病院でも私に言ってましたよね自分の腕見せて。やっぱり見間違いじゃないんですか?」
「だといいんですけど…………痛っ」

久世が不意に顔をしかめて小さくつぶやく。人目を気にしてか、隠すようにして長袖の袖口をまくりあげて肘あたりまで腕を出すと白い肌の一部だけが日焼けした後のように真っ赤になっていた。

「それどうしたんですか、そんなの……さっきまでなかったですよね」
「……きっと水分が足りてないんですよ。今日はとにかく暑いですからね」

久世はさも当然のように言い、冷やされたおしぼりを腕の赤くなった部分に押し当てる。それでも赤みは引かなかった。

「あの久世さん、何かそのう……腕に見えてるんですか?」
「ええ、はっきりと。沙原さんには見えないんですよね。逆に良かった気もします」
「どうしてですか?」
「今…………ちょっと大変なことになってるので」

久世は眉根に皺を刻みながら腕に押し当てたおしぼりに自分のコップに残っていた水を全て含ませる。目の端で肌に浮き上がった赤黒い根の模様が水を求めてぎしぎしと伸び縮みしながら蠢いている。それを覆い隠すようにしておしぼりを広げた。

「久世さん……?」

向かいの沙原が心配そうな表情をしている。

「ああ……すみません。もう大丈夫です、ほら。これは単にただの寝不足ですよ……昨夜眠れなくて遅くまで起きていたので」

久世が眠そうに小さく欠伸をし、何もなかったかのようにグラス残ったアイスコーヒーを(すす)りだす。

「そうですか。それなら……良かったです」

由子もそう返し、残ったアイスコーヒーを飲んだ。
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