第1話 僕の彼女は

文字数 2,623文字




「いたた…っ 転んじゃった」
てへ、とばかりに片目を閉じてぺろっと舌を出す、と一見無理そうな事を見事にやってのける。

狭まった視界から其れを見ている男の体は激しく震えていた。
怒り等と言う感情も及ばない程の恐怖に。
突如 鼓膜を突き破って、頭を粉砕せんばかりの轟音と共に土砂が押し寄せ 生き埋めにされるかと思ったからだ。
世界が真っ二つに割れてやしないだろうか ― そう皮肉たっぷりで精神の錯乱を和らげようとしていたら 生暖かい突風が吹き付け 有り難くも男の体から土砂を綺麗に吹き飛ばしてくれたが あわや共に彼方まで飛ばされるところであった。
彼女が土砂を被った男を見てぷーっと噴き出したのだ。噴き出したのが「息だけ」だったのは不幸中の幸いであった。
「ぷふー!待って待ってあれでしょ?観た観た!」
「貴方も観たんだ?再現度高すぎてマジ草なんだけど!」
「私、録画するのすっかり忘れちゃっててさ、バイトから帰って来たら もう途中からしか観れなくって
「毎週楽しみなんだ~、リアクション王!この間のやつ観た? ほら、あの ― 
云云かんぬん。
リアクション王、聞いた事も無い王だ。と言っても、男は自分が住んでいる此の世界について何の興味も持っていない。知らない国なら幾らでもあるし 王と言う存在を気にした事もなければ国政を憂えた事も無い。言うなれば 「国」と言うものに露ほどの興味も湧かない。
だからといって 盛り上がっている彼女に水を差す様な事もしなければ 重量級の彼女が転んだ事によって被った被害についてさえ、とやかく言う気は無い。
彼女の話す事はちんぷんかんぷんで 男の頭にははてなしか浮かばないが 彼女がそうやって嬉しそうに話すのなら黙って聞いているのが得策だと心得ている。
「楽しいかい?君が笑ってくれるなら僕は何だってするさ」
冷静を装ったつもりだったが声が震えている。顔面筋を鼓舞して笑顔を作り上げたが 反逆を試みる一部の神経がぴくぴくと顔を痙攣させている。
「僕は君の笑顔を見ているだけで幸せなんだ」
白い歯をきらっと光らせ 今迄数多の女を虜にした自分史上最高の煌めく笑みの中に 恐怖心が埋もれている事を願うしかない。
幸いにも彼女はそんな機微には気付きもしなかった。
「ふーん?」
口では冷たくあしらいながらも しなやかな肢体をくねらせて 視線を彷徨わせている。
細面の白い顔、瑠璃色に耀く大きな眸 ― 彼女は世にも美しい生きものだった。
「其れはどーだか」
「最初に会った時、貴方私の事見て引っ繰り返ったわよね?」
「君の美貌にノックアウトされたのさ」
万事が此れなのである。
同じ様な賞賛の言葉なら以前も何度も聞かされ続けて来たが どれも薄っぺらいものだった。
其れは 自分の事を嫌いな自分が嫌いで、自分の事を卑下していたから そう聞こえるだけなのかも知れなかったが 嬉しいと思った事は一度も無かった。
此の男も口ばかり達者だが 出て来る言葉には悪意も下心も感じない。天性の才能とでも言おうか 息をするのと同じ位 自然にそんな言葉が出て来るらしい。
「ねぇ、麗しの君。そろそろ腰を上げてくれないか?今日はまだ一歩も進んでないし、君も知っての通り僕にはもう時間がないんだ」
空は見事な夕映え色に染まっている。此の儘美しい景色に見惚れていたいが 間も無く夜の帳が下りて来るだろう。
男の焦りも分かるが 「歩く」と言う一見単純な行動すらも一苦労なのだ。

ほら、彼処にコンビニが見えるだろう? 彼処の角を曲がって ― 

と言う位、遙か後方に二本の足がある。前の二本は人間的には「手」だが 「前足」と言う事になるのだろう。
胴体がうねるので歩きづらい。
抑も此の躰は歩く様には出来ていないんじゃなかろうか ― 
「… ネフィ。愛しの君。 … すまない  僕はもう
其の声にはっとして顔を上げると 立ち止まった男を暗い影が覆っていた。言い掛けた儘の言葉を残して 男の姿は鬱蒼とした木々の闇の中に消えた。
男の居た場所に震える巨大な青いゼリーがあり 陰々滅々とした気を放って項垂れて ― 首の位置は分からないが ― いる。
「ねぇ大丈夫?アル・ルーエン」
憐れみを誘う程の落胆振りに 声を掛けずには居られなかった。
慎重に前足(手?)を踏み出すと 青いゼリーに近寄って行った。後ろ足が遠過ぎて意思の疎通が上手く図れない。
   えーっと  右、左、右
四つん這いで歩くイメージを思い浮かべながらおっかなびっくり歩く。突然電動のぬいぐるみの中に魂を閉じ込められたかの様な気分で 此れが自分の体だとはまだ思えないでいる。こんがらがって来た。次はどの足を動かすんだったかと言う思考よりも 先に動いた後ろ足の所為で撓んだ体が波の様に前方に押し寄せて来た。
「ふぎ!!」
前足が浮き上がるや、あっという間にバランスが崩れ 勢い良くでーんと倒れる。
「…っくう~!!もうイヤ!!」
下の歯が上顎を貫通したかと思う位、したたか顎を打ち付けて、摩ろうと ― したが首が長すぎて届かず 憤った前足が地団駄を踏んだ。
「あれ?」
気が付くと男の姿は勿論、青いゼリーの姿も無い。
「何処に行ったのかしら」
「せっかちなんだから。スライムの癖に」
長い首を伸ばして辺りを見回す。地平線の向こう側まで見られそうな程、遠くまで見渡せる。
其れに 此の目は夜闇の中でも視界が変わらない。
前方にあった木立が 何時の間にか壮大なドミノ倒しよろしく広範囲に渡って薙ぎ倒されている。
薙ぎ倒された木々の一つに 艶めく青いジュレソースがかかっていた。
   ブルーハワイの味かしら
自身の言葉に噴き出すと 腹を抱え ― るには腹が遠かったし 体重を支えきれないので足を地面から放す訳には行かなかったが ― ケラケラと笑った。
「面白いかい?」
「僕も君が居るだけで、こんなにも愉快な気分になれるんだって事を改めて思い知らされたよ」
「自分がスライムで良かったなんて、そうそう思う事もないだろうからね」
モンスターの体でなければ即死も良いところだ。彼女が歩き始めた赤ん坊くらい良く転ぶ、と言う事を念頭に 前を行く際は背後に細心の注意が必要だ、と頭に叩き込んでおかなければならない。
差し当たっては自嘲的に笑う事で憐れな自分を慰めた。怒りに勝る絶望が重過ぎて 体を起こす事も出来ず、反乱を起こす気力も湧き起こらない。抑も
全てにおいて彼女に勝てる気がしない。
何しろ

僕の彼女は美しくも畏るべきドラゴンなのだから。
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登場人物紹介

歌手志望女子高生・禰屋川璃夢(ねやがわりむ)ことドラゴン娘ネフェルティム

昼は優男、夜はスライム アル・ルーエン

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