第1話 積雪

文字数 1,602文字

 あなたは、奇跡を体感したことはあるだろうか?別にものすごいものでなくてもいい、パッと思い出せずとも、人に思わず言いたくなるような小さな奇跡は、誰でも体感しているんじゃないかと思う。そんな偶然があるのかと、我が目を、耳を疑う奇跡がこの世にはたくさんある。
 実はこれからお話しすることはある男性に実際に起きた奇跡である。個人の特定を避けるためにぼやかして描写するところはあるが、本人から事細かに聞いた話なので、内容の核心については問題なくお伝え出来ると思う。

 ここに1人の男がいる。
 第二次世界大戦後の昭和に生まれた男だ。当時の警察予備隊の幹部の息子であったから、田舎にあっても何不自由なく暮らせた。彼は幼い頃から愛嬌とお喋りのうまさで周りから可愛がられ、健康と体格にも恵まれたので、おおむね社会的に、一般的な男性としてうまく人生を歩む素養があったと言える。
 彼は雪国にルーツのある人間特有の、彫りの深い顔立ち、色素の薄い茶色の目をした日本人だ。たいていの男性がそうである様に、日焼けを気にしないで生きてきたので、元々色素が薄かった肌は陽射しに負けて赤ら顔になっている。細かいソバカスとシミが彼の年輪を物語る様にその皮膚いちめんに降り積もっていた。
 彼はしばしば、恵まれし者特有の残酷さをもってその人生を闘い、なんとか今まで勝利し続けてきたような男だった。上京して付き合った女性達の中から一番美人な女性を選び結婚し、若い頃雇われた商店は店長と喧嘩して啖呵を切って辞めたが、その後自分で東京で事業を立ち上げ、その店長より成功してしまった。ライバル会社が嫌がらせに若者を雇い、事務所に脅しに寄越した時も全くひるまず怒鳴りつけ追い返した。

 その男が、50代の前半にさしかかった頃の話である。近年彼らしくもなく、その闘いの日々にも疲弊してしまったようだった。居間のカウチに腰掛け、幼い2人の子供たちを膝に乗せて絵本の読み聞かせをしていても、なんだかしらじらしい気がする。その気配をどこか他人事の様に感じながら、知らぬふりをして、読み聞かせを続ける。不思議なことにこういう時、もう1人の自分が自分の横顔を見つめている気さえしていた。

 俺は知っているぞ、お前は芽生えた罪悪感を見えないフリして、そうやって善人ぶっている—


 可愛らしい絵本の文字をなぞる指、そして手の甲には、若い頃に創った細かい喧嘩の切り傷が沢山ある。絵本の内容が男の情動を揺さぶるべく心に訴えかけてくるが、とうに泣き方も忘れてしまった。忘れたことすら彼は気付いていないようだった。

 男は幼い頃からまるでスーパーボールの様に跳ねっ返りながら生きてきたので、周りにぶつかり傷つけて、時に自らも傷を負ってきた。これまでは自分や家族の食い扶持の為に必死だったので、傷だらけのわが身や、打ち倒した敵などを省みる余裕などなかった。壮年になってから、ようやく立ち上げた事業も軌道に乗り、落ち着いて周りを見渡す余裕が出来た。するとどうだ、世界は自身が置き去りにしてきたものだらけ。男は、今なら、今の自分なら手を差し伸べることが出来ると思った。日々の仕事に忙殺されながらも、熾火がくすぶるように、自身がその善性を発揮できるチャンスはないかと今か今かと待ち続けていた。

 そのタフでマッチョ的な生き方の彼が、後に、とあるけだものに命を救われる、童話のような奇跡を経験することになる。あえてけだものと言ったが、戦後棒切れで野良犬を追い払っていたような時代に生まれた、およそペットなどに興味のない男であるから、人間から見た獣への見方は価値観は平成生まれの筆者などとはだいぶ違うのだ。往時を知る人々と動物には超えがたい溝があった。

 その彼が獣に救われることなど誰が想像し得ただろうか?しかもこの当時、彼が働いているのは道端で獣に遭遇することなどまず有り得ない、大都会東京である。
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