第7話

文字数 1,476文字


 目を覚ましたとき、私は自分はハワイにいるのだと思っていた。というのも視界の先には青い空と白い雲だけが見えたからだ。しかしすぐに聞き覚えのある声がして、はっと我に返った。
「ああ、よかった」とその声の(ぬし)は言っていた。「先輩、生きてたんですね? もう本当に死んじゃったんだと思った」

 見ると私は上野動物園の敷地に、(あお)向けになって倒れていたようだった。周囲には人だかりができていた。

「救急車呼ぼうと思ったんですけど、番号忘れちゃって・・・。今タウンページで調べていたところだったんですよ」
「いや、救急車は必要ない」と私は言った。それはどう考えても自分の声には聞こえなかった。ゴホン、と咳払いをしたあとで私は続けた。「というか救急車の番号も覚えてないのか?」
「え! 先輩そんなことまで暗記しているんですか? 何番でしたっけ?」
 
 でもどれだけ考えても、一体救急の番号がなんだったのか思い出せなかった。911だっけ? それとも110だっけ? 「いや、忘れた」と私は言った。「それにしても良い天気じゃないか」
「そうですね」と後輩は言った。「ねえ、先輩」
「なんだ?」
「あの・・・ソフトクリームのこと忘れてないですよね?」
「忘れるわけないだろう」と私は言った。そして立ち上がり、服に着いた(ほこり)をポンポンと払った。そのとき目に見えるすべての光景がほんの少しだけ移動したことを知った。ゴリラシティに行く前と、あととでは、ほんの少しだけいろんなものが変化している。果たしてそれは良き変化なのだろうか?
 
 でもだんだん頭が疲れてきたので、そのことについて考えるのはまたあとにすることにした。とりあえずはソフトクリームを食べなければならない。そして可愛いゴリラの写真を撮るのだ。
 
 そこでふと気付いてゴリラがいたはずのところに戻ってみたのだが、なぜかそこには誰もいなかった。父ゴリラも、母ゴリラもいない。子どもも、飼育員もいない。完全な空っぽなのだ。もっとも周囲にいる人々は、そのことをまったく疑問に感じていないらしかったが。私は後輩を呼び止め、その空白と化したエリアを写真に撮らせた。

、と私は思った。それはまるで俺自身のことみたいじゃないか? 俺はたぶんあの経験をすることによって、一歩完全な空白に近づいたのだ。そこに愛はない。しかし憎しみもない。システムもなければゴリラもいない。記憶さえない。しかしそれはそれで気持ちの良い状態ではあった。なにしろ風通しが良い、ということを意味するのだから。
 
 私はふと思いついてドラミングをしてみた。自分の胸をボコボコとリズミカルに叩く。周囲の目が気になったが、次第にそんなこともどうでもよくなってきた。ボコボコボコボコ。

(先輩どうしたんですか急に! まるでゴリラみたいになって・・・。ああそうか。ウッヒョイ! これはいいや! 僕の仲間になったんですね? ウキー! ドシドシ! ウキー! ドシドシ!)。

 


 
 もっともゴリラポリスは死なないだろう、と私は思った。彼らは世界が死んだあとですら、いつまでも生き続けるのだ。なぜなら彼らは我々の一部であり、意識の存在するところどこまでも付いてくるからだ。そう決められているのだ。もしその闇の手を逃れたいならば、我々はゴリラになるしかない。一頭の、勇敢なゴリラに。そして風を切って進むのだ。空白の中を。どこまでも、ずっと・・・。

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