第6話

文字数 7,015文字


 私は暗さに慣れた目をなんとかその部屋の明るさに適応させようと努めた。チクチクする痛みがなくなってしまうと、そこにあるものが一望に見渡せた。といっても非常に奇妙な光景ではあったのだが。
 
 まずその場所には赤いカーペットが敷かれていた。映画祭の授賞式とかで、よく敷かれているやつだ。あるいはこれが音を吸い取ってしまうのかもしれない、と私は思った。本能的にそう感じたのだ。そしてその中央に置かれた椅子に、一人の男が座っていた。人間だった。それも私のような半分の大きさではなく、Gと同じくらいの――ということはかなり大柄の――完全な大きさの人間だった。高級そうなスーツを着て、高級そうな革靴を履いていた。白髪で、(ひたい)にはたくさんの皺が寄っていた。かなりの歳であるようだったが、矍鑠(かくしゃく)として、物腰には威厳が満ちていた。ふとその雰囲気に見覚えがあることに気付いた。
「さて」と彼は言った。「私が誰だか分かったかね?」
 
 太く、低い、重みのある声だった。こんな声を獲得するのには、きっと当たり前の経験を積むだけでは駄目なのだろう、と私は思った。深い闇をくぐり抜けなければ。
 
 彼にそう言われて、その顔が誰に似ていたのか思い出した。そもそも彼を人間だと認識したことで、気付くのが遅れたのだ。彼はつまり例の老いぼれゴリラだった。こう見ると(うり)二つだ。だとすると、あいつは本当は人間だった、ということなのだろうか?

「ゴリラの方の私は、今は宴会に出席している」と老人は椅子に座ったまま言った。「しかし人間の方の私は今このようにして君たちの前にいる。この世界はそういう風にできているんだよ」
「俺たちはあんたを殺すためにきたんだ。父さん」とGが言った。
 

? それは初めて聞く情報だった。



「そうだ」と私の驚いている顔を見て、Gが少しだけ笑いながら言った。「こいつが俺の父親なんだ。そのことはまだ言ってなかったっけな」
「聞いていません」と私は言った。
「そう、君を(かくま)ってくれた夫婦にも言わないでくれ、と頼んでおいたんだ。もし教えたりしたら、きっと俺の意図を疑うかもしれないから。でもそれを隠していたことを別にすれば、何も嘘はついていないよ。こいつはろくでもなしで、偽善者で、生きる価値もない。俺はずっとこいつを殺すために生きてきたようなものなんだ」
「でも血を分けた息子なわけでしょう?」
「だからこそ、だ。だからこそ俺にはこいつを殺す義務があるんだ」

「ハッハ。なかなか面白そうなコンビじゃないか。ゴリラと、半分の人間。これは傑作だ。なあ、もし殺したいのなら今すぐ殺せばいいじゃないか? その一トンの握力で私の頭を潰してもいい。喉元に噛みついてもいい。やり方はいくらでもある」
 しかしGは動かなかった。

、という感覚をようやく彼も持ったようだった。

「あんたはわざと俺たちをここにおびき寄せたんだな」とGは言った。「だからこそゴリラポリスは俺たちを捕まえられなかったんだ」
「どうだろうな」ととぼけたように老人は言った。もっともその目付きは真剣そのものだったが。「もしかしたらそういうこともあったかもしれない」

「あんたの目的は何なんだ? それくらい教えてくれてもいいんじゃないのか?」
「私の目的は人々に――ゴリゴリに――幻想を見せ続けることにある。なにもかも今まで通りだったし、これからも今まで通り続いていくのだ、という幻想を。そして彼らはそれを求めているんだ。もちろん中には君みたいな批判的な(やから)もいるわけだが」
「しかしそこに本当の生命はない」とGは言った。「生命の発露(はつろ)、といった方がいいか」

「いいかい?」と老人は教え(さと)すように言った。「人間界でも、ゴリラシティでも、ほとんどの者はそんなものは求めていないんだ。彼らが求めているのはフィクションだ。そして哺乳類的な(ぬく)もり。だから我々は家族制度を支持するんだよ。人々は――ゴリゴリは――その構成員として生まれ、その構成員として死んでいく。結婚式とか葬式みたいな、中身のない儀式で時間を潰すこともできる。そうやってグルグルと同じところを回って、最後はみんな死ぬ。それでハッピーなんだ」
 
 彼は「グルグル」というところで、実際に宙に指で円を描いた。それはまったく歪んだところのない、完璧な円だった。その完璧さが、私を息苦しくさせた。

、と私は思った。

「いや、私はおかしくなんかない」とまるで私の心を読んだかのように彼は言った。「完全に正気だ。なあ、あの後輩のお()りをするのは大変だっただろう?」
「どうしてそれを・・・?」と私は言った。

「どうしてか、というと、私があいつを送り込んだからだ。結局のところ、世界は微妙なバランスのもとで成り立っている。私がやってきたのは、そのバランスを取ることだ。人間というのは――ゴリラもそうだが――非常に不完全な生き物だ。きっと神様が設計の時点で失敗したんだろう。まあなんにせよ、その不完全さを(おぎな)うように人々をマッチングする。ある男とある女を引き合わせる。能力のある者と能力のない者を引き合わせる。そうやっていろんなことがうまく行くようにする」
「と、同時に人々に幻想を見させる」
「そうだ。なかなか大変な仕事だろう。一体どうして君が私のことをそんなに恨むのか分からないね」

「それはあんたが根本的に間違っているからだ」とGは憎しみを噛み殺したような表情で言った。彼はまだなんとか平静を保っていた。「あんたは都合良く大衆を操作しているのだと思っている。しかしそうはいかない。人々の――ゴリゴリの――意識というものは、そんなに簡単に操作されるものではないからだ。俺はドッグフード工場で働いているときにひしひしとそれを感じ取った。あるいはだとすると、理不尽な職場替えもまったく意味がなかったわけじゃないのかもしれない。白衣を着て、マスクを付けて、ひたすら袋詰めをしているのは生身のゴリラだ。彼らにはそれぞれ個性があり、歪みがある。でもそれでいいんだ。それが正しい状態だ。あんたはそれを、綺麗で整った、整合性のあるものに変えようとしている。なぜならその方が管理しやすいからだ。一括で管理しやすい。ただそれだけの理由なんだ」

「しかしお前だって分かっているはずだろう。ほとんどのゴリゴリは――人間もだが――自由なんか欲してはいないんだ。彼らは

そういった整合性を求めているんだ。なぜならそれ以上何も考える必要がないからだ。一度枠組みにはまってしまったら、一生そこを出る必要はない。死ぬまでグルグルを続けるんだ。発展もない。成長もない。くだらない音楽を聴いて、くだらないテレビを観て、くだらない労働をして、一生を終える。ハッハ。そう思うとなんだか笑えてきたな」
 
 彼は口角を上げたが、目は一切笑ってはいなかった。そこにある凍りつくような不毛さを、彼自身もまた感じ取っているのだろう、と私は思った。

「しかしフラストレーションというものが溜まってくる」とGが老人の話を引き継ぐように言った。「なぜなら意識というものは生きているものだからだ。完全に動きを止める、ということは、少なくとも生きている限りはできないんだ。あんたはその不満を、フラストレーションを、ゴリラポリスを使って都合良く処理してきたんだろう」

「よく分かっているじゃないか」と老人は言った。「今回の君たちの件も、まさにそういった出来事だ。人々は――ゴリゴリは――整合的な生活を送っているが、一人一人の精神の隙間から不満のようなものがこぼれ出てくる。ゴリラポリスはそれを効率的に回収し、外にいる誰かに押し付ける。今回でいえば君らだな。大衆は暴力性を適度に発散し、なおかつ自分たちは正しいのだ、という幻想を見続けることができる。よくできた寸劇だよ。彼らのアイデンティティーは――もしそんなものがあるとすればだが――『自分たちは正義の(がわ)に立っている』というフィクションをもとにして成り立っているんだ。昔もそうだったし、今でもそうだ。何の変わりもない」

「あなたは自分のことを正義だとは思っていないようですが」と私は口を挟んだ。
「その通りだ。正義とはなんだ? かつてアドルフ・ヒトラーは自分は正義なのだと信じていた。心から信じていたんだ。その結果何がもたらされた? あるいは一生懸命仕事をするのが善なのだと思っている者もいる。でも全部嘘だ。幻想だ。何一つ正しいものなんてない。いいか? ここでいいことを教えてやるよ。世界の中心にあるのは無だ。我々は日々せっせと生きている。でもその中心にあるのは無なんだ。何一つ意味なんてない」
 
 彼はそれだけ言ってしまうと、しばらく黙り込んでいた。話す者がいないと、部屋の静けさが余計に強調されるような気がした。これはたしかに「無」を思わせる沈黙だな、と私は思った。私は目をつぶり、宇宙のことを思った。一秒ごとに膨張し、なにもかもを呑み込んでいく、闇のことを。
 
 目を開けると、老人が立ち上がっていた。
「なあ、もし私を殺す気がないのなら、君たちを良いところに案内しよう。こっちに来てくれ」
 
 私はGの目を見たが、そこに警戒の色は読み取れなかった。もはやこのような状況になってしまった以上、今さら逆らったところであまり意味はない、と悟ったのかもしれない。実をいえば私も同意見だった。それに、その先に何があるのか見てみたい気持ちもある。我々はゆっくりと歩く老人に続いて先に進んだ。赤いカーペットの奥に、もう一つ別のドアがあるようだった。
「こっちだ」と老人は言って、ドアノブを回した。
 
 我々は彼のあとに続いて、その中に入った。ドアの先にあったのは、

暗闇だった。無音の次は暗闇か、と私は思った。老人がドアを閉めてしまうと、光は完全になくなった。それは地下通路にあったような、目を凝らせばなんとかものが見えるようになる、という種類の暗闇ではなかった。もっとずっと深い。光という概念の暗示すらない。本当の暗闇だ。
 
 我々三人は、おそらくその入口のところで立ち尽くしていた。もはや姿は見えなかったものの、気配から、まだ近くに二人がいることが分かった。
「ここが本当の中枢だ」と老人が言った。その声はさっきまでの部屋の中とは、まったく違った風に響いた。なんとなく私自身の声に似ていなくもない。
「これは何なんです」とGが言った。その声もなぜか自分の声のように聞こえた。
「だから中枢だ。君がずっと目指していたところだ」
 
 我々はしばらくその場に立ち尽くしていた。というのもほかにすべきことを思いつけなかったからだ。と、そのとき部屋の中央のあたりで何かが光ったことに気付いた。それはほのかな光だったが、周囲がこのように深い暗闇であるため、ものすごく明るいような錯覚を受けた。それは青い光だった。
「あれはなんです?」と私は言った。
「あれは

だ」と老人は言った。「というか彼らの『(あらわ)れ』だ。今回は青い光だったようだが」
「いつもは違う?」
「まあな。彼らは固定された形を持たない。いつやって来るのかも分からない。だから私はただここでじっと待っているんだ。光がやって来る瞬間を」
「もしかしてだからこそここはこんなにも暗いのですか? ほんのちょっとした光にも気付けるように」
 
 しかし老人はその質問には返事をしなかった。彼はその光に意識を集中し、そして今そちら側に歩いて行こうとしていた。空気の流れでそれが分かった。
 
 Gはどうやら、ただそれを見ているようだった。父親を殺そうという彼の意思は、すでにどこかに消え去っていた。おそらく私と同じように、今目の前にある光景に純粋に()せられていたのだと思う。それはそれくらい神秘的な光景だったのだ。
 
 そのとき黒い風がやって来た。私にはそれが分かった。それはどこかからやって来て、どこかへと去っていった。しかしすぐにもう一度やって来て、今度は去っていかなかった。それは部屋の中でグルグルと渦を巻いていた。老人が宙に描いた完璧な円のことが、また頭をよぎった。

「世界が終ろうとしている」と私は言った。「ウサギさんがそう言ったんです」
「ウサギさんか」と老人は言った。「かつての私の仲間だ。今では仲違(なかたが)いしてしまったが。いずれにせよ世界が終ろうとしているのは間違いのないことだ。あの光を見てみるがいい。今彼らのメッセージは、『自分は死にたいのだ』ということだ。だとしたら、我々に逆らう自由はない」
「それはつまりどういうことです?」とGが言った。「逆らう自由がない、というのは?」
「言葉の通りだよ。そう決まっているんだ。人間は――ゴリラは――結局は世界の一要素に過ぎない。そして世界

今死にたいと言っている。だとすると、我々にできることは何もない」

「私はここで人々に――ゴリゴリに――自ら考えた命令を出すつもりでした。『あなたたちは自由にならなければならない』と。あなたはここからゴリラポリスに指令を出していたんでしょう?」
「まあ基本的にはな。しかし私がやっていたのは基本的には『声を聴くこと』に過ぎない。そこには二つの意味がある。一つは人々の――ゴリゴリの――無言の願望を聞き届けること。そしてもう一つは

の声を聴くことだ。そしてそれに応じて適切な命令を発する。ほとんどのゴリラは嬉々(きき)としてそれに応じる。まあ中には君みたいな反抗的な奴もいるがな」
「あなたはさっき何一つ意味などないと言った」とGは言った。
「そうだな」
「だとすると、あなたは一体何のために生きているのですか?」
「私は生きてはいない」と老人は言った。「なにもかも幻想に過ぎない」

 そのとき青い光が縦に長く伸びたのが分かった。どうやらそこに裂け目のようなものが生じたらしかった。私は()せられたようにそれを見ていた。強くなった光の中で、老人がそれに触れようとするのが分かった。彼の(しわ)は深く、哀しみに満ちていた。おそらく生まれてから一度も愛というものを受け取ったことがないのだろう、と私は思った。そのときGが私の左手を握った。一トンもの握力の何十分の一かの力で、そっと彼は私の手を握っていた。私もまたぎゅっとその手を握り返した。哺乳類的な体温の交換。そこにはたしかに何かがあった。心を芯から温めてくれるものだ。しかしこれだけでは十分ではないのだろう、という気もした。だからこそ我々はこんなにも苦しむのだ。
 
 やがて老人がその裂け目のようなものの中に消えていくのが分かった。これはおそらく世界そのものの裂け目なのだろう、と私は思った。そのあとにやって来るのは何なんだろう? 

、とウサギさんは言った。もっとも彼は終始酔っぱらっていたから、その話を全部真に受けるわけにはいかないが。しかしたしかにそれに似たものが今もたらされようとしていた。本能的にそれが分かった。私は両目を開けてそれを見ていた。Gもまた同じようにそれを見ていた。あるいは我々は死ぬのかもしれない。ここで世界は――人間界も、ゴリラシティも――終わってしまうのかもしれない。しかし、だとしたら、それが

終わるのか、この目で見届けなければならない。
 
 老人が完全に消えてしまうと、割れ目は一旦閉じられた。しかしすぐにまた開いて、今度は赤色の光が飛び出てきた。これまでの比ではないくらいの強い光だった。私はやはりじっとそれを見ていた。Gもまた。さまざまな記憶が焼き尽くされていくのが分かった。私という人間の統合性もまた崩れ去っていった。Gは一旦人間になり、またゴリラに戻った。私もまた一旦ゴリラになり、また人間に戻った。しかしその構造が違っていることが分かった。細胞の配列が違っている、と私は思った。あるいはGは思った。我々はそのようにして世界の消滅を見ていた。あらゆるものが裂け目の奥に吸い込まれていった。もはや意味も、無意味も存在しなかった。時もなかった。地面も、空もなかった。愛はどこに行ったのだろう、と私は思った。本来そこにあるべきはずの愛は。
 
 最後に光が消え、あたりは闇に包まれた。最後の最後にほんの一瞬だけ、太陽のようなものが地平線に沈んでいくイメージが私を捉えた。これで世界が終わった、ということか、と私は思った。もっともどれだけ待っても、再びその星が姿を見せることはなかった。というのも地平線そのものが存在しなかったからだ。すべては混ざり合っていた。私も、ゴリラも。

」という声が一番最後に聞こえた。一体誰の声なのかも分からない。あるいはGだろうか? それともあの老人だろうか?
「ハワイ」と私は言った。そして南国に吹く風のことを思った。



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