第5話

文字数 5,959文字


 私はそれから五日間、避難所となっているマンションの一室――とはいっても壁をくり抜いて作られた非常に狭い小部屋なのだが――でなんとか生き延びてきた。あのときマンホールの蓋を開けると、そこはあるマンションの地下駐車場だった。見張り役の若いゴリラは私の合言葉を聞くと、すべて予定通り、といった感じで、私を大きな黒い袋に入れた。かつての半分の大きさになった私は大人しくその中に入り込み、彼が階段を(のぼ)っていく足音を聞いていた。ずいぶん長く(のぼ)っていたあとで――ここにはエレベーターというものはないのだろうか?――ようやく一つの部屋に着いた。私はその中で袋から出され、Gの知り合い――ブレーンだと言っていた――である、ゴリラ夫婦と顔を合わせたのだ。
 
 彼らは親切な人々――ゴリゴリ――だった。私をあくまで対等の存在として扱ってくれたし、まず一番に熱い風呂に入れてくれた。あの不潔な地下通路を通ったあとでは、清潔になることのありがたみが身に染みて理解できた。その後温かい食事を与えられ、綺麗な衣服を着せられて(デザインはなかなか独特だったが)、この狭い隠し部屋に避難させられた。そこには子ども用のベッドのようなものがあって、私はそこで好きなだけ眠ることができた。天井も低く、四方の壁も目と鼻の先にあるのだが、一応通気口が付いているおかげで息苦しくなることはなかった。それにこれくらいの狭さは、意外に心地良いといえなくもなかった。私はそこで長い時間を過ごした。
 
 (かくま)ってくれた夫婦は、盗聴の危険があるから、あまり大きな声で話すことはできないんだ、と言った。我々は表向きには熱心な政府の支持者ということになっているが、それでも、と。私は全然構わない、と言って、その厚意(こうい)に感謝した。

「ただ、Gがどうなったのかについての情報は逐一教えていただきたいんです。それと選挙の結果も」
「分かった」と夫の方は言った。「それについてはあなたにすぐに情報が伝わるようにしよう」
「どうもありがとうございます」
「あと何か気になることはあるかね?」
「ええと・・・少々言いにくいのですが」
「なんだ?」
「用を足すときはどうすればいいのですか?」
「ああ。あの隅に(わら)があるだろう。あそこで適当に済ましてくれればいい。あとで我々の下の者が処理するから」
「どうも申し(わけ)ないです」
「いやいや」
 
 彼はその後私が退屈しないように、と、小型のCDラジカセと、いくつかのCDを持って来てくれた。クラシックやオペラが大半だったが、中には最近のヒップホップなんかも混じっていた。この人たちがヒップホップを聴くのだろうか?

「申し(わけ)ないのだが、本はこれくらいしかないんだ。ゴリラ語のものならたくさんあるんだが」
 そう言って彼が持ってきてくれたのは、『新約聖書』と井筒(いづつ)俊彦(としひこ)が訳した『コーラン』だった。まあ何もないよりはいいだろう。私は礼を言って、その隠し部屋の扉を閉じた。そうするとひどく心細くなるのが分かった。定期的に食事は運ばれてくるし、そのときに(わら)も交換してもらえる。聖書もじっくり読めば、きっと楽しいに違いない。しかし、にもかかわらず、私は孤独だった。彼ら夫婦は表向きはG(と私)の捜索に加わらなくてはならないから、日中はここにいることはできないんだ、と言った。申し訳ないが。もっともそのこと自体はさほど苦にはならなかった。本当に正直にいえば、人間の(うつわ)――ゴリラの器――ということでいえば、Gとは比較にもならないレベルの人々――ゴリゴリ――なのだろうな、と思った。こんなふうに(かくま)ってもらっていながら傲慢なことは分かっている。しかしそれが正直な気持ちだった。彼らはあくまでフィクションの中で生きているのだ、と私は思った。そのフィクションが、たまたま反政府、という形を取っているだけなのだ。本質的にはゴリラポリスとあまり変わりがない。
 
 私は音楽を聴いたり(ワーグナーを全部聴いてしまおう、というのが私の計画だった)、聖書、あるいはコーランを読みながら時間を潰した。たまに腕立て伏せをやったり、腹筋をやったりした。そんな(おり)によくあの後輩のことを思い出した。あいつは今どこにいるんだろうな、と私は思った。私がいないで、まともに生きられるのだろうか? でもそんなことは心配しても仕方のないことだった。私は今ここにいるのだし、Gの言葉を信じるならば、そのときが来るまでは、しっかりと生き延びていなければならない。そして彼とともに政府の中枢に入り込むのだ。地下通路で会ったウサギさんはこのままでは世界が終わる、と言っていた。原初の混沌に帰るのだ、と。私はそれでも構わない、と言った。たとえそうだったとしてもこの目で何が起こっているのか見てみたいのだ、と。それは本心から出た言葉だった。考えてみれば新聞記者にはなったものの、「真実」というものとはほど遠いものばかり取材してきたような気がする。もちろん生活のためにはある程度会社の意向を()み取らなければならない。なにしろ一介のサラリーマンに過ぎないのだから。しかし若い頃に感じていた熱い気持ちのようなものが、なぜかこの奇妙な世界において復活してきていた。私はかつて腐敗した(ように見える)大人の世界に激しい(いきどお)りを感じていたのだった。そして自分が大人になったときには、もっとずっとましな人間になっているのだ、と決意していた。しかしいつの間にか

その腐った世界の一部になってしまっていたのだ。たしかにいつまでもイノセンスをそのままの形で保持し続けることはできない(あの後輩の顔が頭に浮かんだ)。それは一種のファンタジーの中でしか存続できないものなのだ。サンタクロースとか人魚姫とか、そういったものと同じ種類のものなのだ。しかし、にもかかわらず、私はそれを求め続けなければならないような気がしている。それは純粋な生命の形であり、おそらくは愛と密接に結びついたものだ。でも分からないな、と私は思う。私は今この奇妙な世界に来て、そして半分ゴリラになっている。地下通路で四つん()いになって歩いているときに、明らかに私は人間ではなくなっていた。その事実をフィジカルに感じていたのだ。しかしこの安全な――少なくとも今のところは安全な――部屋に(かくま)われて、逃走を続けているGのことを考えているとき、私はほぼ百パーセント人間になっている。どうもその境目あたりに何かがあるような気はしているのだが。人間とゴリラの境目。あるいは意識と肉体の境目・・・。
 
 そんなことを考えながら、私はただ時間を潰した。このように何もできないことはもどかしいことではあったが、精神の休息という点でいえば、あながち悪い時間でもなかったと思う。(かくま)われてから丸五日経った頃、私は夫婦に頼んでメモ帳とペンを貸してもらった。そしてこの手記を書き始めたというわけだ。私は結構記憶力が良い方だから、自分が経験したことは大体全部書き尽くしたと思うのだが・・・。果たして事態はこのあとどうなるのだろうか?


 と、ここまで書いたところで、私は夫婦に呼び出されて話を聞いた。どうやらGが亡くなった、ということだった。ゴリラポリスの一団が死闘の末捕まえた、ということになっているらしい。その事実を大々的に伝えた政府の機関紙によれば、一緒にいた人間もまた死んだ、ということだった。その写真まで載っていたのだが、Gにしても私にしても――たしかに似てはいるものの――明らかに違う人物だった。

「政府は平気でこういうことをやるのさ」と夫の方が言った。
「おそらくこの写真を撮るためだけに無実のゴリラと人間が一人ずつ殺されたのよ」と妻が言った。
「だとすると、Gは無事に逃げることができた、ということなのでしょうか?」
「おそらくそうだろう」と夫は言った。「だからこそ政府はこうした嘘の記事をでっち上げたんだ。いつまでもテロリストを野放しにしておくと、住民から批判されかねないからな」
「それで、選挙はどうなるんでしょう?」
「選挙は予定通りにおこなわれる。投票日は明日だ。もっとも結果は投票する前から分かってはいるがな。このGの捜索で、例の老いぼれが功績を上げたことになっている。彼がゴリラポリスに的確な指示を与え、テロリストを抹殺したのだ、と。全部嘘っぱちだがな」
「それで、Gはここに来るのでしょうか?」
「もしいろんなことがうまく行ったらそうなることになる。しかしまだ状況がどちらに転ぶのかは分からない」
 
 私はそこでふと「世界が終わりかけている」という事実を彼らに教えていなかったことを思い出した。地下通路で会ったウサギさんがそう言っていたのだ、と。しかしやはりそのことについては黙っていた方がいいだろう、と思った。というのもあれは、おそらく彼と私との間の秘密のやり取りだったからだ。本能的にそれが分かった。彼はあの話を語ることによって、おそらく何かを私に託したのだろう。何を、かは分からないが、いずれにせよ重要なことだ。それは今も私の中で生き続けていた。「みんな死んでみんなハッピーだ」と彼は言った。あるいは本当にそうなのかもしれない、と私は思う。しかし、にもかかわらず、なぜか必死に生き続けなければならないような気もする。結局のところ、私を動かしているのは一種の好奇心なのではないか? 可能な限り先に進んで、そこにあるものを見てみたいという欲求。私はあの通路の中で四つん()いで歩いているときに、身を持ってそのリズムを、ドライブを感じ取ったのだ。やはり私は――少なくとも死ぬまでは――前に進み続けなければならないのだろう。
 
 その翌日に投票がおこなわれ、例の老いぼれ候補者が当選した、とのことだった。二位以下にかなりの差をつけた圧勝だった、ということだ。夫妻はその祝賀パーティーに参加するために留守にする、と言った。
「本当はそんなもの行きたくないんだがね」と夫の方は言った。
 私は黙って頷いた。

 その夜にGがやって来た。彼は前に会ったときと比べて、ずいぶん痩せてしまったようだった。突然私のいる隠し部屋の扉を開け、血走った目でしばらく前方を睨んでいたあと、重みのある声でこう言った。「時が来た。さあ行くぞ」と。
 私はさすがにこんなところにいるのもうんざりしてきたところだったので、喜んで彼の後ろについた。彼は言葉少なで、顔には焦燥(しょうそう)の色が見えた。
「あの老ゴリラが当選したみたいですね」と私は言った。
「そのようだな。もっともずっと前から分かっていたことではあるが」
 
 彼はその後、例の黒い袋に私を入れ、肩に担いで部屋を出た。階段を降り――やはりエレベーターは使わなかった――そして敷地の外に出た。袋の口の部分から、外の新鮮な空気が(ほんのわずかではあったが)入り込んできた。そこには紛れもなく死の匂いが(ただよ)っていた。
 
 Gは足早にどこかへと向かっていた。部屋を出るときにナイキのキャップを頭に(かぶ)っていたが、変装といえるものはそれくらいだ。もっとも人々は――ゴリゴリは――選挙後の熱狂に浮かれているから、そんなことには気を払わないのかもしれない。それにGと私はすでに死んだことになっているのだ。しかしよく考えてみれば、それは一般大衆に向けた嘘の発表に過ぎなかった。だとすると、ゴリラポリスは引き続き我々を探しているのではないか?
 
 しかしそんな心配とは裏腹に、彼はすいすいとどこかに向けて進んでいった。どこかで宴会のようなものが開かれている物音がしたが、そこには警戒の色は一切感じ取れなかった。Gは終始淡々として、何も言わなかった。
 
 やがて彼はマンホールの蓋を開けた。雰囲気からそれが分かった。そして中に入り、器用にその蓋を閉めた。また地下通路か、と私は思ったが、今回はそれほど不安になったりはしなかった。なにしろGが付いているのだ。そして着実に前に進んでいる。心配する理由などない。
 
 彼はそこを迷いなくゴリゴリと進んでいった。時折カラン、という音が聞こえたが、それは缶が立てるよりはもう少し鈍い音だった。あるいは白骨なのかもしれない、と気付いたのは、もうずいぶん進んだあとのことだった。
「不気味な場所ですね」と袋の中から私は言った。
「不気味な場所さ」とGは言った。
 
 やがてかなり奥まで進んだあとで、彼は地上に出た。そこがどんな場所であるのか私には分からなかったが、少なくともどこかの建物の近くであるようだった。Gは素早く(あま)(どい)を伝い、二階か、三階のあたりまでウホウホと(のぼ)った。そういう気配が感じ取れた。
 
 彼は素手で窓ガラスを割り、その中に入り込んだ。そしてさらに奥へと進み、階段を(のぼ)った。周囲に音はなかった。不自然なくらいしんとしている。何が起こっているのだろう、と私は思う。


 
 そのとき何かがおかしいことに気付いた。それはGも感じ取っていいはずのことだったが、あるいは彼は自分の任務のことに気を取られて、そのことに気付いていないのかもしれなかった。私は袋の中から声を出した。
「G。あまりにも簡単過ぎます。これは罠です」
 
 それを聞いてGはニヤリと笑った。というかそういう雰囲気を感じ取った。「だからなんだというんだ? もしこれが罠なら、自分から引っかかってやるだけのことさ。最初からそのことは()り込み済みだ」
 ()り込み済み? だとすると、彼はこれだけの労力をかけたにもかかわらず、自分から破滅へと向かおうとしているのだろうか?
 
 私がさらに何かを言おうとした瞬間、すべての音が消えた。もちろん今までだってとても静かだったのだが、そこは「とても静か」なんてレベルでは言い切れない静寂に満たされていた。

、と私は思う。

、と。しかし一方の側ではそこに何があるのか心底見たいと思っていた。その二つの私が今同時に存在していた。
 
 そこはどうやら特殊な部屋であるようだった。Gがドアを開けて中に入った瞬間、音が消えたのだ。彼はそこでしばらく立ち尽くしていた。そして何かに気付いたかのように、ふと私を袋から出した。そして言った。「ここが中枢だ」と。

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