第4話 トンネルの時間

文字数 5,723文字

 会社のレクリエーションで野球大会が催された日に、写真係を申し出て久しぶりにM1を活躍させた。そのフィルムを持って亀さんの店に立ち寄ると、連休に廃線の撮影に出かけないかと誘われた。
「廃線、ですか? 」
「あんたの性格なら案外、気に入るかもしれないよ。なに、最初は日帰りでね、ハイキングみたいなものです」
 亀さんのお気に入りは鉄道建築物の遺構だった。駅舎、鉄橋、橋げた、トンネルなど線路がはずされても残っている施設がある。明治時代の建物からつい最近まで使われていた設備までさまざまだ。レンガの積み方や使われている資材から当時の建築技術や世相まで読み取ることができるという。いくつかのプリントを指し示しながら熱心に説明されたが、どうもぴんと来なかった。それでも冷え込みの厳しい朝、亀さんのワゴン車で信州に出かけた。
 高速道路を出たあとも慣れた様子で走るが、最後は地図を頼りに細い山道を登る。カーブで道幅か広いところに車を置いて、そこからは機材を担いでの歩きだ。慣れない山歩きに戸惑うが、亀さんは物知りで、道端の草やキノコの説明をとうとうしてくれる。
 その日の目的地はトンネルだった。
 小一時間、上り下りを繰り返し谷に下りると、廃線跡らしき平らな道を歩いていく。枯れたすすきの向こうにトンネルの遺構が見えた。
「午前中しか日が当たらない」
 と亀さんは重たそうに担いでいたジェラルミンのケースを下ろすと嬉しそうに開いた。
「あんたに見せるのは初めてかな。ライカのM3。宝物だね」
「ドイツ製ですね。高いものですか」
「ああ、コンパクトカメラの最高峰だからね、ボディだけで数十万円の価値はあるだろう。第一金を出しても品物がない。これは昭和二十九年に作られた機種だから」
 差し出された黒と銀のボディは思ったよりも小さく、子供の頃見たおもちゃのカメラのようだった。ボタンの数も少なくシンプルである。
「触るのが怖いですね。でも構造はシンプルだし、二眼ですか」
「そう、これがあまりにもすごいカメラなので他のメーカーは一眼レフに転向した。日本の会社もね。ライカだけは今でも頑固に二眼を作っている」
「どこが違うのでしょう」
「表向きの性能は日本のカメラのほうがいいかな。値段も安い。でも、これが欲しいという人がいる。理由を簡単に説明するのは珍しい。まあ、魂が入っているかどうかの違いだな」
「また、魂ですか」
「たとえ話だけどな。デジタルのカメラで撮った画像はみんなすぐに消せるだろう。だから簡単にシャッターを切る。だけど銀塩の場合はそうは行かない。一度入った光の痕跡を消すことはできない。切る前にそれなりに覚悟が必要だ。一期一会なんだよ。このボディの中に作った人、使った人、そして写された人の因縁が染み付いていて消すことできないんだ。ライカはそんな機械さ」
「だから高いのですか」
「魂には値段が付けられないだろう。そもそも取引してはいけないものなのさ」
 亀さんは腰を落としてカメラを構え、ファインダーを見ながら歩き出した。そしてポイントを決めると三脚を構えた。ジェラルミンケースは二つあり、ライカのほかにニコンの一眼レフとそのレンズがぎっしりと詰まっている。谷にせり出した岡の腹にレンガで組まれたその遺構は位置していた。今は見かけない馬蹄形のトンネル口は美しい形状だと言えなくもない。近くに行って中をのぞくと、遠くに白い光が見えた。出口はかなり遠いようだ。意外にも生暖かい空気が漂ってくる。乾いた泥のにおいがした。
「おーい、入らないほうがいいよ」
 と亀さんが叫んでいる。私は彼が三脚を構えているところに戻り、亀さんが撮影している様子を自分のカメラでスナップ風に撮ってみたりした。
「なんとなく、向こうまで歩いてみたくなるでしょう」
「いえ、そんな」
「正直に言っていいよ。でもね、やめたほうがいい。一度入ったら出てこられないの。脅しじゃないよ。あんなところ歩いたらいけないの。わかる? 」
 亀さんはカメラを調整しながら目を細める。
「崩れるかもしれないとかそんな物理的な意味だけじゃない。たとえ出てきたとしてもそれは元の自分じゃない、それほどの意味。つまり精神的なもの。トンネルは怖いだろう。でも化け物がいるわけじゃない。あそこには空間だけではない、時間がある。それも歪んだ時間。だから過去の亡霊が飛び出してくる。それよりも怖いのは未来かもしれない。あたしにはわからないよ。だけど、あの黒い入り口は誘惑に満ちている。女と同じだ。往ったら戻らない」
「向こう側の出口が見えましたよ」
「そう。そんなに長い距離ではないからね。だけどそこにたどり着くことができない、ということもある」
「反対側には行かないのですか」
「もちろん、行くさ。午後は光が反対だ。だから向こう側から撮る。だけど中を通るのはいやだ。山を越える」
「そりゃ大変だ」
「そうだね。でも、あたしはそうするよ」
 ポジションを変えて撮影を済ませると、亀さんはしばらくうろうろして、トンネルの前でじっと奥を見ていた。
「ねえ、子供の頃、井戸を見たことあるかい? 」
「いいえ」
「そうだろうね。今の人たちは知らないね。昔はどこでも井戸があった。使っていなくても残っていた。あたしの家の近くにも大きな寺があって、井戸があった。危ないから近寄っちゃいけない、って言われた。するってぇと子供っていうのはどうしても見てみたくなる。重たい木の板でふさがれていたけど、どけて中をのぞいた。何も見えない、これが。ひんやりとした空気を思い出すよ。それでなにをしたと思う? 石を投げ込んだ。その辺の石ころを拾って落とす。しばらくしてぽとん、て音がした。大きな石を落とすと、もっと大きな、ぼとん、になる。投げてから友だちと顔を見合わせる。その待ち時間がなんともいえない。大分深かったと思う。ぽとん、やろうか、って遊んでいた。楽しくてしょうがなかった。ある日、寺の人に見つかって大目玉を食らった。井戸の底には悪い霊がいていつもは大人しくしているが、石を投げ込んだから怒って出てくるぞ、と脅かす。友達は泣き出した。正直言って怖かった。夜になっても落ち着かない。井戸から化け物が出てきて、襲われるかも、ってね。友達が学校を休んだので家に行ってみたら真っ青な顔で寝ていた。二人きりになるとあたしの腕をつかんで夜になると井戸のほうから、ぽとん、って音が聞こえると言う。氷みたいに冷たい手だった。その家は寺から歩いて十分以上かかるところだったから聞こえるわけがないってあたしは主張した。でも友達がかわいそうだったから、代わりに様子を見に行ってやる、と約束した。
 まずは昼間に出かけたよ。井戸に変わったところはなかった。閉じられていたふたを上げて中をのぞいたけどやっぱりなんともなかった。それで、夜、みんなが寝た頃、もう一度出かけた。月明かりはあったと思うけど、ただでさえ寺は怖いからね、三回くらい、戻りかけた。でも友達のことを思い出して境内に入った。音なんかしていない。それだけで十分だと思った。でも一応井戸のほうに行ってみた。腰を抜かしそうになったよ。木のふたがはずされているんだ。昼間、ふたを忘れたのかと思ったけどそうではない。確かに閉じた。誰かがまた開けたのか? そのまま逃げ出してもよかったけどあたしは勇気を振り絞ってのぞいて見た。もちろんなにも見えない。真暗だ。そしてよせばいいのに、石を投げ込んでみた。怖さのあまりそうせずにいられなかった。他にどうしていいのかわからない。
 音がしない。
 怖くなって、もう一つ、大き目の石を投げ込んだ。しーんとしていた。なにかいる、と思った。そいつが石を食っているのかもしれない。とにかくいつもと違う。あたしは怖さのあまり、泣き叫び、家まで走った。小便をちびっていたね。家に帰るとすごい熱で何日か寝込んだよ。学校へ行ったら友達が死んだとを知ってびびったね。肺炎だって。それから一年くらい次はあたしじゃないかっていつも怯えていた。親に話してもまともに取り合ってくれなかった。神主さんを呼んでお払いはしてくれたけどね。あの寺には二度と近寄らなかったよ。トンネルを見ているといつも思い出すよ」
「なんだったんですかね」
「わからないな。熱が出て夢を見ただけかもしれない。ちっこい頃だから。でもあたしはあの黒い穴を忘れないよ。怖い。だけど目が離せない。トンネル見に来るのもそれが関係しているのかな」
 亀さんの背後の黒い口が急に存在感を高めているように見えた。
「こういうところにぽっかりと穴が開いているって言うことはないかな」
「穴? 」
「そう。宇宙にも、ブラックホールとかあるよね。あんた、詳しいだろう。空間がねじれたところがあって、そこに吸い込まれると出てこられない。トンネルもそんなことはないかね」
「まあ、暗いし歩いて入るのは危険だとは思います」
「神隠しとか、関係ないのかな」
 そうですね、と私は言葉を濁した。
 小一時間で撤収し、歩いて車まで戻った。そこから峠を越えて、再び路肩に駐車して谷に下る。今度は十五分くらいでトンネルの壁が見えた。まったく同じ構造の反対側の出入り口である。昼を少し過ぎていたので、草むらにジュラケースを置いて椅子代わりにするとコンビニで買った握り飯を食べた。天気がいいので気温は上がっている。のどかなピクニックのようだった。私はさっきの亀さんの話で、例の働きたいと言っていた女性がまた店の前に来ていた晩のことをなんとなく思い出し、彼女と話した、と告げた。亀さんはぎくっとして握り飯を落としそうになった。
「なんでも、亀さんに感謝しているとかで」
「あ、そう。それだけだった? 」
「ええ」
「なんか、つらいよね」
「どうしたんですか。妹が迷惑かけたとか言っていましたけど」
「ああ。まあね、迷惑だね」
 亀さんはため息をついて、茶をすすった。
「もういいって言っているのに、なんでしつこいんだろう」
「亀さんが本当には許していないからだって」
 ええっ、と亀さんは顔色を変えた。
「許していない? 」
「ええ」
 弁当の包みを腹の上に置くと亀さんはトンネルのほうをじっと凝視していた。
「許していないのかな」
「妹が謝らなかったからだって」
「ああ、そうだったかな。なにをしたのか話さなかったの」
「ええ、聞いていません」
「万引きだよ」
 私は言葉を失った。
「あの女の妹はね、ミス神奈川かなんかでさ、かわいい女なの。だけどあたしの店に入ってきて、フィルム盗もうとしたわけ。見て見ぬふりしていたけど、それがいけなかった。次に来たとき、カメラ盗ろうとして失敗した。でも、あたしは警察には通報しなかった。何日かして、巡査が来てお宅に被害ありませんか、って言うんだよ。誰かが密告したらしい。本人のためになりませんから告訴してください、って決め付けたけどあたしはなんにも被害はない、と言い張った。巡査が帰ってから調べたらストラップとかストロボ用の充電器とかほかにも盗られているのがわかった。でも告訴はしなかった。全部あわせても数千円だよ。そんなことで若い人の人生をおかしくしてもしょうがないと思った。それであの女はあたしに礼を言いに来た。それはいい。償いに店で働きたいって言う。気持ちは嬉しいよ。だけど本人はどこに行ったかわからない、っていうのさ。逃げたんだよ。誰も告訴しなかったから事件にはならなかったけど、先行きの暗い話だよね」
「そうだったんですか」
「ああいうのは、ある種の病気だね。必要だから盗むんじゃない。盗むことそのものを楽しんでいるような節がある。余計腹立たしいと思う人もいるだろうが罰すれば直るものでもないんだ」
 亀さんは話を終らせたかったのか、首を横にふって弁当を片付けて、機材のセッティングを始めた。昼過ぎなのに晩秋の日差しは既に哀愁を含んだ橙色だ。トンネルの入り口付近は腰くらいの高さの枯れ草が茂っており近寄るには煩わしい。軍手をはめて草を掻き分けながら進んでみる。レンガを積んだ構造物は一部が崩落していて、反対側に比べると荒れた様子だ。道床も土砂に覆われていて定かではない。こちら側からトンネル内に踏み入れるにはかなりの勇気が必要だ。壁によりかかり少しのぞいてみると、やはり生暖かい空気が流れており、ドブの様な臭いがした。はるか彼方に点のように出口が白く光っている。その手前にはぼんやりと筋のようにねずみ色の光が見えた。水溜りがあるのかもしれない。亀さんはトンネルの中に「時間」があると言った。どんな時間なのか、思いを致しながら眺めている。通り過ぎて戻らない、それが時の性格だ。同じ時は二度と訪れない。決して戻ることなく果てしなく進むだけだ。惑星探査に送り出されたボイジャー号は木星や土星の鮮明な映像で世界中の人々を感動させ数々の科学的な発見を導いた。そして千九百八十八年、海王星の映像を地球に送りその任務は終了、太陽系の外へ出た。余生は宇宙の存在するかもしれない他の生命体へのメッセージを積んで永遠へと旅だった。決して帰ることの出来ない絶望的な運命。他の生命体に出会う確率など無に等しい。絶対的な孤独。
 手の中でレンガの角が少し崩れ、体重を支えていた私はバランスを失って転びそうになった。ひやりとしてふり返ると亀さんは無言で三脚を構えている。撮影の邪魔になってはいけない、とトンネルを離れた。
 歩き回っていると、空のペットボトルや菓子のパッケージなどが泥まみれになって落ちている。こちらは道路に比較的近いから同じように廃墟を見にやってくる物好きがいるのだろう。赤っぽいものがあったので気になって足先で蹴ってみるとプラスチックのカップでどうやら水筒の蓋のようだった。なんとも言えない寂寥感が広がった。見上げると山の木々に傾いた日差しが反射して黄金色に輝いていた。思いも寄らぬところで景色に出会う。そのほうが感動も深い。渋滞や混雑の果てに嬌声に満ちた観光地でアリバイのようにちらりと眺める眺望よりも人知れず潜んでいるこうした景色が本当の絶景だと思った。
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登場人物紹介

 主人公の「私」。横浜在住。グッズを扱う商社の営業開発部に勤務、ノベルティ等の営業を担当。独身なのでしばしば寄り道するが、自宅近くで写真館に足を踏み入れたことから、商店街の人々の葛藤に巻き込まれる

亀さん。亀井写真館の主人。妻子もいるが今は一人で店を営んでいる

西山さと子。ドラッグストア西山の長女。薬剤師。亀さんの一人息子、修司と交際していた

リッキー富岡警部。富ちゃん。キャバレー「八十八分署」のホステス。元写真店経営。

亀山修司。写真館の跡取りで写真家を目指すものの家出同然で渡米。

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