第5話

文字数 2,116文字

 街ゆく爆弾魔
 永見エルマ


 青年は夢を見ていた。
 遠い夏。電車で二駅の隣町。石畳に並ぶ屋台。鈴虫の鳴き声。薄桜色の唇と浴衣、赤い花飾り。
 夜空には大きな花が咲いた。振り向き笑う君も花みたいだった。頬にあたる風が生温かくて、妙に夜空が高かった。
 どれも鮮明だ。まるでこの世界の彩度が何十倍にもあがったみたいに、全てが色鮮やかに彩られていた。
 「先に行くね。待ってる」
 あの子がそう言った。夢の中のあの子が僕に語りかけたのはこれが初めてだ。記憶にはないもので、僕の脳みそが作り上げたものに違いはなかった。それでも、僕は泣かずにはいられなかった。
 僕からではなかった。最初で最後だった。

。あの日を境に。届かない君に手を伸ばして、そのまま落ちてゆく僕を見ていて欲しかった。
 夢が終わる最後まで僕は泣いていた。
翌日は、まるで犬と猫が喧嘩しているみたいに土砂降りだった。
  
 外は真っ暗だった。およそ午前四、五時であろうか。青年は重い体を持ち上げて、時刻を確認しようとする。小さな目覚まし時計に反射した自分を見て、初めて自分の頬に涙が流れていることに気がついた。
 その事実に気づいた途端、腹の奥の方からえも言われぬ激情が押し寄せてきた。
 なぜ泣いているのだろう。これはなん涙なのだろう。
 傍には泣いていることに驚いた自分もいた。青年は暗い部屋の中、うずくまって嗚咽を吐くことしかできなかった。
 心の水面が凪ぐまでには、しばらくかかった。今までにない経験だった。言葉にできない、という表現はよく聞くが、その多くが感情を言葉にするというプロセスが不可能なだけで、心は感情を曖昧にも捉え、評価しているものだ。しかし、青年にはそれすらもできていなかった。自分の中に押し寄せるものが何であるのか、どんな影響を与えるのかも、彼の心は理解できないのだった。ただ濁流のごとく激しく溢れでるのだった。
 青年は夜が明ける前に、街へ出た。今度は体が変に軽い。頭の中はやはり空っぽだった。いや、正確には、頭の中はあの子のことで一杯であり、脳の隅まで一杯だからこそそれは何もないと同義だった。
 ああ、あの子は何をしているのだろう。どうしていってしまったのだろう。
 歩いて、歩いて、青年は気がつくと母校に辿り着いた。青年が合格した大学は家の近くではあったが、無理を言って一人暮らしを始めたのだった。今を振り返ってみると、少しでも離れて忘れてしまいたかったのかもしれない、と青年は感じた。もちろん、電気は一つも点いておらず、ただひっそりと立ち尽くしていた。
 あの時と何も変わらなかった。あの子と出会ったのも、あの子と別れたのも、あの子と別れようとしたのも、全てこの場所だった。当然入ることはできないため、外から自分の教室を眺めていた。
 今なら、今なら今度こそ。
 決意した青年は校門を乗り越える。グラウンドを横切り、校舎脇の階段を登り始めた。屋上を目指し、パイプと出っ張りを駆使してなんとか登る。途中何度か足を滑らせかけて、肝を冷やしたし、その度に決意が揺らいだ。そもそも今自分が行なっているのは、犯罪以外の何物でもない。しかし、これからやることを考慮したら、これくらい怯えずにできるほどの胆力は必要だった。青年は屋上へ登り切ると、狭い幅に立った。屋上のフェンスはあまりに高くて登れたものではないが、その心配は必要なかった。
 屋上はやはり高かった。下を覗くと、本能が足をすくませる。
 屋上が思ったよりもずっと高いのも、足がすくむこの感覚も、遠くに見える建物が思いの外小さいのも、全てあの時と一緒だった。
 僕の体を爆破する。思い出と共に。そう、僕の体は思い出でできているんだ。だから、思い出を、人生を、爆破するんだ。
 あの時のショックは大きかった。クラスの担任になんの前触れもなく告げられた。外に興味のない僕の耳が無意識に捉え、そして頭に伝達したのは、彼女がここ最近学校を休みがちであったこと、その持病がありふれた病気であり、悪化の一途を辿っていたことだった。
 大きなショックであった。しかし、それは文字通りの衝撃を意味しており、悲しみとか辛さとかを伴うものじゃなかった。ただ、わからなかった。やはりというべきなのだろうか。わからないことが多くなって、収拾のつかない青年だけが取り残された。
 わからない、の次に青年が感じたのは、不条理だとか卑怯だとかだった。
 あの子は、僕にしこりを残していなくなったのだ。自分でも解決できないしこりを。手も足もでなくて、唯一解決できるとしたら君だと思った。
 だから、もう解決はできない。
 涙が流れ始めた。
 僕は。僕はもう一度、君に会いたい。
 まだ聞いていないんだ。あの銅像を、燕を、あの物語をどう感じたか。君は僕のために読んでくれた。だから、聞かなくちゃ。きっと君なら、素敵な話だねって言うのだろう。それでいい。それでもいいから、君の話を聞かせてくれ。
 陽が登ってきた。あたりは朝焼けで曙色に染まってゆく。涼しげな朝風が青年の頬を掠めた。
 青年は再度覚悟を決めた。緩やかに、確かに。目の前には大きな花火が散った。
 
 
 
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