三、
文字数 1,757文字
まだ青い麦の穂が、朝日に輝き風に薙ぐ向こうで、教会の鐘が鳴る。荷車を引いたまま、コドルは土を踏んで足を速めた。見慣れた祭服が門を開けて、行き交う人々に挨拶を返している。
「お早う、コドル」
コドルが荷車を道端に寄せると、ひょろりと中背で色白なアドリアン司祭が声を掛けた。街の住民とは疎遠で、村人からは嫌厭されているコドルを気安く呼ぶのは、雇い主の子供たちか、この司祭だけだ。母から寄進用に持たされた蝋燭を渡し挨拶をすると、教会の前室が騒がしいようだった。
「何か、あったのですか」
礼を言って受け取ったアドリアン司祭は、いつもの困ったような笑みを浮かべた。街でよく知った顔の男たちが、内部で何か話し込んでいる。
「徴税役が変わるのだそうだ」
町人も農民も領主に税を納めなければならないが、その徴税を請け負う顔役を新しく決めることになったのらしい。塗りのはがれかけた壁際の狭いベンチに窮屈そうに座り、陰気な声音で話している。こちらには目もくれない。
「教会と、関係、有るんですか」
「そうだね、教会は教区の住民ほとんど全てを記録しているから」
新生児の洗礼、結婚、葬式を主催する教会は、最も正確に教区の世帯数とその状況を把握していると言える。徴税台帳の作成に、教会の協力は欠かせないのである。
「公平な徴税のために、教会が協力できることはするけれどね」
理由は分からないが、アドリアンがこの状況をあまり良く思っていないらしい、ということだけ、コドルには分かった。高くなる日差しのなかで、石畳に二人の影が色濃く浮かび上がる。
「司祭さま、一昨日、異国の人に会いました」
アドリアンの気を紛らわしたかったことと、一昨日から誰かに話したくて仕方無かったため、思わず口を突いて出てしまった。
「商人かい?危害を加えられなかったろうね」
「これ、何でしょうか。もらったんです」
手の内に収まるくらいの麻袋のなかには、親指大の黒光りする“石”と、“針”が入っていた。あの日出会った大男は、コドルに地図を見せてくれ、ここが何という名前なのか、自分たちが何処にいるのか、身振り手振りで教えてくれた。暗くなるまであまり時間が無く、そのまま分かれてしまったが、去り際に手渡されたのだ。何なのか説明されたのだと思うが、言葉も知らなければ、舞い上がってもいたので、当然分からなかった。ただ一つ伝わったのは、この石を持って、自分に会いに来い、ということだった。多分それはコドルが望んでいることだからそう聞こえただけなのかもしれない、実際に何を言われたのかははっきりしない。コドルは、シャールーズにもう一度会いたかった。コドルの話を、あんなに静かに聞いてくれた人は初めてだった。見た目は恐ろしいが、夜の獣のように鋭く穏やかで、そしていろいろなことを知っている。アドリアンは目の高さに石を翳して暫く観ていたが、ふいと小さく息を吐くと、コドルの手に戻した。
「どうだろうね。何かその人の職業に関わるものかもしれない」
にこやかに問い掛けてくるアドリアンに、コドルは喉元がひやりとする。コドルは無愛想だと他人から思われがちだが、実際は己れの言葉の信憑に自信が無いだけである。頭のなかでは忙しなく考えているのだ。そのことを知っているアドリアンは、煤汚れた頬を薄らと染めて迷っているコドルが、自ら答えを導くのを待つ。
「おおきな人で、ターバンを巻いていて、地図と印章を持っていて、手が…」
そうだ、とコドルは思い出す。地図を掴んでいた指の皮膚はごつりと盛り上がり、短く削られた爪に染みていたのは、インクではなかろうか。農民の手ではない。あの強面に威嚇するような声音で、商人が務まるとも思えない。
「南から来たって…」
アドリアンは少年の肩に手を置いた。思考に耽っていたコドルははっとして顔を上げる。一昨日の夜は嬉しくてなかなか寝付けない程だったのに、肝心なことはよく考えていなかったのだ。四十半ばの緩み始めた頬を、微笑みを形作ったまま強張らせ、アドリアンは声を落として少年に警告した。
「その方は、恐らく帝国の使者だ」
ここは因縁の土地。宗教が、民族が、愛憎が、血を贖わせることを、誰にも止めることができない。己れの身は己れで守らなくてはならない。それが、古来よりこの地に生まれた者の、定めなのだから。
「お早う、コドル」
コドルが荷車を道端に寄せると、ひょろりと中背で色白なアドリアン司祭が声を掛けた。街の住民とは疎遠で、村人からは嫌厭されているコドルを気安く呼ぶのは、雇い主の子供たちか、この司祭だけだ。母から寄進用に持たされた蝋燭を渡し挨拶をすると、教会の前室が騒がしいようだった。
「何か、あったのですか」
礼を言って受け取ったアドリアン司祭は、いつもの困ったような笑みを浮かべた。街でよく知った顔の男たちが、内部で何か話し込んでいる。
「徴税役が変わるのだそうだ」
町人も農民も領主に税を納めなければならないが、その徴税を請け負う顔役を新しく決めることになったのらしい。塗りのはがれかけた壁際の狭いベンチに窮屈そうに座り、陰気な声音で話している。こちらには目もくれない。
「教会と、関係、有るんですか」
「そうだね、教会は教区の住民ほとんど全てを記録しているから」
新生児の洗礼、結婚、葬式を主催する教会は、最も正確に教区の世帯数とその状況を把握していると言える。徴税台帳の作成に、教会の協力は欠かせないのである。
「公平な徴税のために、教会が協力できることはするけれどね」
理由は分からないが、アドリアンがこの状況をあまり良く思っていないらしい、ということだけ、コドルには分かった。高くなる日差しのなかで、石畳に二人の影が色濃く浮かび上がる。
「司祭さま、一昨日、異国の人に会いました」
アドリアンの気を紛らわしたかったことと、一昨日から誰かに話したくて仕方無かったため、思わず口を突いて出てしまった。
「商人かい?危害を加えられなかったろうね」
「これ、何でしょうか。もらったんです」
手の内に収まるくらいの麻袋のなかには、親指大の黒光りする“石”と、“針”が入っていた。あの日出会った大男は、コドルに地図を見せてくれ、ここが何という名前なのか、自分たちが何処にいるのか、身振り手振りで教えてくれた。暗くなるまであまり時間が無く、そのまま分かれてしまったが、去り際に手渡されたのだ。何なのか説明されたのだと思うが、言葉も知らなければ、舞い上がってもいたので、当然分からなかった。ただ一つ伝わったのは、この石を持って、自分に会いに来い、ということだった。多分それはコドルが望んでいることだからそう聞こえただけなのかもしれない、実際に何を言われたのかははっきりしない。コドルは、シャールーズにもう一度会いたかった。コドルの話を、あんなに静かに聞いてくれた人は初めてだった。見た目は恐ろしいが、夜の獣のように鋭く穏やかで、そしていろいろなことを知っている。アドリアンは目の高さに石を翳して暫く観ていたが、ふいと小さく息を吐くと、コドルの手に戻した。
「どうだろうね。何かその人の職業に関わるものかもしれない」
にこやかに問い掛けてくるアドリアンに、コドルは喉元がひやりとする。コドルは無愛想だと他人から思われがちだが、実際は己れの言葉の信憑に自信が無いだけである。頭のなかでは忙しなく考えているのだ。そのことを知っているアドリアンは、煤汚れた頬を薄らと染めて迷っているコドルが、自ら答えを導くのを待つ。
「おおきな人で、ターバンを巻いていて、地図と印章を持っていて、手が…」
そうだ、とコドルは思い出す。地図を掴んでいた指の皮膚はごつりと盛り上がり、短く削られた爪に染みていたのは、インクではなかろうか。農民の手ではない。あの強面に威嚇するような声音で、商人が務まるとも思えない。
「南から来たって…」
アドリアンは少年の肩に手を置いた。思考に耽っていたコドルははっとして顔を上げる。一昨日の夜は嬉しくてなかなか寝付けない程だったのに、肝心なことはよく考えていなかったのだ。四十半ばの緩み始めた頬を、微笑みを形作ったまま強張らせ、アドリアンは声を落として少年に警告した。
「その方は、恐らく帝国の使者だ」
ここは因縁の土地。宗教が、民族が、愛憎が、血を贖わせることを、誰にも止めることができない。己れの身は己れで守らなくてはならない。それが、古来よりこの地に生まれた者の、定めなのだから。