二、
文字数 1,457文字
トゥルゴヴィシュテのワラキア公館は、麗かな日射しのなか、静まり返っている。ワラキア公セルバン・カンタクジノは、執務室の扉の外から呼ばわる声に応えた。
「お久しぶりです、閣下」
ワラキア公位は領主(ボイェリ)たちによる公選制である。五十を前にしたセルバンは、公位に就いてから十年目を迎えようとしていた。ファナリオテスのカンタクジノ家出身であり、通った鼻筋に尖った顎、豊かな髭を蓄え、恰幅も良く、灰色の瞳は矢尻のように鋭くも得体の知れない輝きを宿している。帝国の貢納国でありながら、ハプスブルグ家と裏で結び、機密情報を売ってはオスマン軍を撹乱する、コンスタンティニエにとって厄介極まりない男でもあった。
「…まさか帝国通訳官(ドラゴマン)としてやってくるとは、恐れ入ったな」
多くの属領属国を持ち、常に周縁との交渉・調停を必要とするオスマン帝国には、外交使節に付き従う、通訳・翻訳の専従者たちがいる。シャールーズが伴ってきたのは、セルバンの旧知の人間であった。
「お前を使うような物好きは多いのかね」
カフェヴェを淹れさせ、ソファに腰掛ける。長めの髪を緩く結い、スカーフを巻いているが、毛織りのシャルバルを纏い、撫で肩にジュッベを羽織ったその通訳官は、人好きのする笑顔を浮かべた。
「女官たちには重宝されてますよ」
「…女たちは交渉ごとに長けているからな」
西暦1453年、スルタンメフメト二世がコンスタンティニエを陥落してから、オスマン 帝国はギリシャ・ローマ文明の正統を受け継ぐヘレニック(ギリシャ人)の知識層を重用してきた。特に帝国の要職に就き、通商・外交に大きな影響力を持つヘレニックの名家たちを、ファナリオテスと呼び習わす。セルバンは帝国からワラキアに配されたファナリオテスのカンタクジノ家であり、目の前の通訳官とは血縁であった。
「あの財務官はなかなか曲者だな。再決済を山のように送って寄越す」
「ご都合よろしいのでは?こちらの税務管理の杜撰さは閣下もご存じのはず」
「徴税請負人どもが戦々恐々としておったわ。あの見た目もな」
コンスタンティニエから派遣されてきた財務官のシャールーズは、元前線の兵士であったと言われる通り、大きな上背を財務官服に押し込んだような男で、その上彫りの深い顔半分を覆う傷が有る。目付きも険しく、笑わず、語らず、職務に忠実だ。他国の会計検査を任せるには打ってつけの人物なのかもしれない。にこやかな装いを崩さないまま、通訳官はセルバンに顔を上げた。
「私はただの通訳官です。何かお役に立ちますか」
セルバンは嘆息を吐くように笑った。あの少女が、勇ましくなったものだ。今の通名をフィリオと言う、かつて栄華を誇ったファナリオテスの一族にありながら、咎を得て身を隠し、今こうして通訳官として戻ってきた。鳶色の瞳は空を渡る翼のように輝いている。
「話をしたかっただけだ。何を謀ろうというのではない」
お前も言ったように、領主や徴税請負人たちの不正や横領には悩まされているからな、あの財務官にはせいぜい大鉈を振るってもらおう。帝国に反感を募らせる者がいたとて、私と敵対する訳ではない。寧ろ私へ靡くだろうよ。
「しかしそうだな、一つ頼まれてくれるか」
あの頃、羽搏く鷲の背のように見えた伯父。帝国と渡り合い、ワラキア領主たちを飼い慣らし、ハプスブルク家やロシアにも誇りを譲らなかった、偉大なワラキア公、セルバン・カンタクジノ。まるでイコンの聖人ように微笑むのは、老いたためか、それとも己れの運命を悟ったか。フィリオは深く首を垂れた。
「お久しぶりです、閣下」
ワラキア公位は領主(ボイェリ)たちによる公選制である。五十を前にしたセルバンは、公位に就いてから十年目を迎えようとしていた。ファナリオテスのカンタクジノ家出身であり、通った鼻筋に尖った顎、豊かな髭を蓄え、恰幅も良く、灰色の瞳は矢尻のように鋭くも得体の知れない輝きを宿している。帝国の貢納国でありながら、ハプスブルグ家と裏で結び、機密情報を売ってはオスマン軍を撹乱する、コンスタンティニエにとって厄介極まりない男でもあった。
「…まさか帝国通訳官(ドラゴマン)としてやってくるとは、恐れ入ったな」
多くの属領属国を持ち、常に周縁との交渉・調停を必要とするオスマン帝国には、外交使節に付き従う、通訳・翻訳の専従者たちがいる。シャールーズが伴ってきたのは、セルバンの旧知の人間であった。
「お前を使うような物好きは多いのかね」
カフェヴェを淹れさせ、ソファに腰掛ける。長めの髪を緩く結い、スカーフを巻いているが、毛織りのシャルバルを纏い、撫で肩にジュッベを羽織ったその通訳官は、人好きのする笑顔を浮かべた。
「女官たちには重宝されてますよ」
「…女たちは交渉ごとに長けているからな」
西暦1453年、スルタンメフメト二世がコンスタンティニエを陥落してから、オスマン 帝国はギリシャ・ローマ文明の正統を受け継ぐヘレニック(ギリシャ人)の知識層を重用してきた。特に帝国の要職に就き、通商・外交に大きな影響力を持つヘレニックの名家たちを、ファナリオテスと呼び習わす。セルバンは帝国からワラキアに配されたファナリオテスのカンタクジノ家であり、目の前の通訳官とは血縁であった。
「あの財務官はなかなか曲者だな。再決済を山のように送って寄越す」
「ご都合よろしいのでは?こちらの税務管理の杜撰さは閣下もご存じのはず」
「徴税請負人どもが戦々恐々としておったわ。あの見た目もな」
コンスタンティニエから派遣されてきた財務官のシャールーズは、元前線の兵士であったと言われる通り、大きな上背を財務官服に押し込んだような男で、その上彫りの深い顔半分を覆う傷が有る。目付きも険しく、笑わず、語らず、職務に忠実だ。他国の会計検査を任せるには打ってつけの人物なのかもしれない。にこやかな装いを崩さないまま、通訳官はセルバンに顔を上げた。
「私はただの通訳官です。何かお役に立ちますか」
セルバンは嘆息を吐くように笑った。あの少女が、勇ましくなったものだ。今の通名をフィリオと言う、かつて栄華を誇ったファナリオテスの一族にありながら、咎を得て身を隠し、今こうして通訳官として戻ってきた。鳶色の瞳は空を渡る翼のように輝いている。
「話をしたかっただけだ。何を謀ろうというのではない」
お前も言ったように、領主や徴税請負人たちの不正や横領には悩まされているからな、あの財務官にはせいぜい大鉈を振るってもらおう。帝国に反感を募らせる者がいたとて、私と敵対する訳ではない。寧ろ私へ靡くだろうよ。
「しかしそうだな、一つ頼まれてくれるか」
あの頃、羽搏く鷲の背のように見えた伯父。帝国と渡り合い、ワラキア領主たちを飼い慣らし、ハプスブルク家やロシアにも誇りを譲らなかった、偉大なワラキア公、セルバン・カンタクジノ。まるでイコンの聖人ように微笑むのは、老いたためか、それとも己れの運命を悟ったか。フィリオは深く首を垂れた。