兄の務め

文字数 2,480文字

「長男なんだから確りしなさい」
 みたいな台詞、長男なのに言われたことがなかった。だって下の兄弟がいないから。
 歳の離れた姉がいて、随分甘やかされて育ったものだった。まだ小学校にも入っていない頃は遊びに付き合って貰ったし、学校に入ってからも勉強を教わっていたものである。頼まなくても、向こうが全てやってくれた。



 落語家の前座は、先輩方、師匠方に気を遣うのが仕事なのだと思う。
 楽屋で適切な量、温度、濃度のお茶を出す。
 鼻をかんだらくず籠を差し出す。
 打ち上げに行ったら給仕をする。
 落語に関係ないだろう、と見習いの頃は思っていたけれど、こうやって人の様子に敏感になることで、お客様を楽しませられる噺家になれるのだ、と師匠が言っていた。
 本来、一番下っ端の人間が一番気を遣わなければならないのだが、小蔵兄さんは、何から何までやってしまう人だった。
 兄さんは師匠四蔵の一番弟子だ。惣領弟子とも言う。呼び方なんてどうだっていいが、とにかく上の存在として、ペーペーの俺を導いてくれたのだ。前座としての振る舞い方や、ごく基礎的な前座噺、先輩のお茶の好み、太鼓の叩き方に至るまで全部この兄さんが教えてくれた。
 加えて、兄さん自身の働きぶりも目をみはるものがあった。福丸師匠がトリを取った時、福丸師匠から可愛がられていた兄さんは前座の身分でありながら打ち上げの仕切りを任されていた。会場設定から飲食物の注文、給仕、食器の整理、太鼓持ちまで、下っ端が手を出す前にやってしまう。
 だからやる気のない奴だと思われたくなくてもがいてみるのだけど、小蔵兄さんには到底叶わない。
 兄さんは二ツ目に昇進してからもよく働いた。付き人の仕事は積極的にやって、師匠が何か言うよりも先に動き、常に的確な判断を下す。ここに入り込む余地がない。最も適切な関係が師匠四蔵と小蔵兄さんだけで成立するのだ。
 今思えば、俺の脳裏に渦巻いていたのは諦観と甘えだと解る。

「兄さんみたいにテキパキ動くにはどうしたらいいんでしょうか」
 立て前座になるという頃、最適解がどうしても分からなくて仕方なく兄さんを頼った。
「はあ? そんなの雰囲気見てりゃ大丈夫だよ。『お前、空調やれ』とか『お前、開口一番やれ』とか指示してやりゃいいんだから」
 そういうことを訊いているんじゃない。
 

 ◇


 夜中、おかみさんから電話がかかってきて、病院にすぐ来いと言われた。師匠が交通事故に遭って生死の境をさ迷っている。わざわざ呼び出すということは、そういうことなのだろう。自宅を飛び出して、通りでタクシーを捕まえて、道中で何も無い空をただ眺めていた。
 現実味がない。
 明日世界が滅ぶほうがまだ現実的に思える程に。

 嘘みたいな時間が長く続いた。

「あんたたち、進路はどうするの」
 師匠の葬儀が終わる夜、おかみさんが俺たち弟子三人を集めて言った。
「早いとこ誰かに引き取ってもらわなきゃいけないから、私も一門の人と相談しているけど」
 落語界には、師匠を失った前座と二ツ目は他の師匠の門下に直らなければならない不文律が存在する。師匠の死と共に、俺たちは否応なしに次の師匠のもとへ送られることになる。
「小蔵はもう決めているんでしょ?」
 小蔵兄さんは黙って首を縦に振った。
「俺は、福丸師匠のところへ行きます」
 おかみさんは一瞬言葉を失った。
「だったら、まず藤丸師匠と話をつけておいたほうがいいと思うの。福ちゃんも福ちゃんで、今は忙しいのよ。弟子を取れる余裕があるかどうか……」
「自分でご挨拶してきますので」
「福ちゃん本人にその話をするなら、十二月に入ってからにしておきなさい」
「あと一ヶ月もありますよ」
「その間に藤丸師匠と話し合っておくのよ」
 小蔵兄さんは渋々了承した。
「二蔵と千之助は? 考えてないんだったら一門の誰かにお願いしておくけど」
 先の見通しがついていなかった俺は、千之助と一緒に師匠の弟弟子の今昔亭幸蔵師匠に弟子入りすることになった。
 小蔵兄さんはうまく折り合いがつかず、福丸師匠ではなく蘭丸師匠の弟子になった。全く別の一門に移ったから、小蔵でも今昔亭でもなくなって、芙蓉亭ほうむ蘭とかいうわけのわからない名前を名乗っている。
 新しい一門で、俺は惣領弟子になってしまった。


 ◇


 立て前座とは前座のリーダーみたいな役職だ。これを務める頃になると、前座生活も終盤に入る。
 お正月はどこの寄席も大忙しだった。初席と呼ばれる期間中は出演者が多い。円滑に番組を進行させられるよう、前座の能力が試される。
 俺より下の前座たちは、こちらが指示を出さなくてもよく働いた。
 中でも、弟弟子の千之助の落ち着きようは見ていて奇妙にすら思える。特に師匠方の着物の着付けは素早く、お茶を出す仕事も全部やった。彼は元々大師匠千蔵の最晩年に入った弟子で、看病や介護など色々やってきたのだろう。大師匠が亡くなったことで四蔵門下に来たのだが、今回で二度目の移籍である。千之助は俺よりも四つ年下なのに、ひどく大人びて見える。
「兄さん! 今の太鼓で合ってましたか?」
「兄さん! 今度『湯屋番』の稽古お願いしてもいいですか?」
 俺は頷くしかなかった。雑用ばかりやってきて芸に自信がなさそうだったが、ちゃんとできている。
 春秋舎いくらもよくできる前座だった。いつも持ち歩いている小さいカバンから、のど飴やら替えの帯や足袋やら、なんでも出てくる。おまけにこいつは笛が吹けるので出囃子では大活躍だった。

 正直、俺が手出しするまでもなかった。

 今の俺にリーダーとか教育係とか、そんな役目が務まる筈もない。
 上に頼れる人もいない。今までずっと、2番目以下の存在として生きていたのが、急にトップとして放り出されたのだから。
 この年で長男の重みを痛いほど実感するなんて。



 居心地の悪い楽屋を出て、高座に上がる。
 開口一番として、『寿限無』をかけた。小蔵兄さんから最初に教わった噺だった。
 結局、兄さんの背中を見て吸収したのは落語だけだったのだ。
 あの有名な言い立てが、まだガラガラの客席に木霊した。




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