愛しい心音

文字数 5,696文字

「お父さん!」
 父が突然胸を押さえて蹲ったので、私は畳んでいた洗濯物を放り出して、すぐ傍に駆け寄った。顔を顰め、苦しそうに肩で息をしている。
「ねえ、大丈夫? あたしの声、聞こえてる?」
 返事はなかった。多分、返事をする余裕もないのだろう。
 今、家には私たちのほかに妹と弟しかいないのだ。頼れる母は買い出しで不在である。私ひとりで対処するしかない。
 何が父をこんな風にさせてしまうの? もしかしたら、もしかしたら、父はこのまま死んでしまうの? 恐怖せずにはいられなかった。病気なんかとは無縁の存在だっただけに、父を蝕むものの正体が余計に推測しづらい。
「落ち着いて、深呼吸。すー、はー、って、ゆっくり息して」
 私は父の背中をさすった。
「大丈夫、絶対大丈夫だから」
 自分に言い聞かせるように、呪《まじな》いの言葉を繰り返す。
 父は薄目を開け、呼吸をすることに集中していた。まだゼエゼエと音が聞こえるくらい荒い息。まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだった。
「美幸、」
「今は大丈夫だから、喋らないで」
 普段は何をしてもお喋りをやめない父に言っても無駄だろうけど。
「あいつが、むこうに、」
 あいつって誰? 私のことではないのは明白だ。
「何言ってんの? しっかりして、お父さん、ほら、息吸って」
「四蔵が、……しぞ、……はあ」
 そこで私は、父の見ている景色が、今私が見ている景色と違うことを悟ったのだ。


 ◇


 私の父は落語家だ。高座に上がりたくても上がれない、どうしようもない落語家だ。倒れる前はそこそこ人気で、テレビやラジオに出ることもあった。一軍……と言っても過言ではない筈。同期に今昔亭四蔵とか、同門の後輩に芙蓉亭蘭丸とか、近くに売れっ子がいたから、父の実力が霞んでいるのかもしれないけれど。正直私は落語をよく知らない。
 父は私が生まれる前から芙蓉亭福丸だった。お母さんとも知り合う前から噺家をやっている。父が家事をするところなんて、掃除をするところしか見たことがない。前座修行を通して覚えたらしい。電化製品は触れないし、台所に近づくことすら許して貰えない。そういう人だった。男は仕事に出て、女は家事をやるのは当たり前だと思うけど、最近はそうも言っていられない時代だ。私にも保母になる夢がある。親の将来が見通せないのに、自分だけ夢を叶えようとするなんて、酷い子供だ。

「蘭ちゃんは忙しいでしょ? なのになんで毎日うちに来てくれるの?」
「君らのために何かできないかって思って」
「炊事くらい、あたしにもできるわよ」
「君のお父さんはお湯すら沸かせないじゃん」
「でもー」
「お母さんだって外へ働きに行ってて帰りが遅いでしょ」
 高校二年生の女と四十歳近い男が台所に並び立つって、なんだか変な感じだ。しかも他人同士だし。
「とにかく、あたしが家事をやってるから大丈夫よ。敦子も稔ももう十代だからちゃんと家の仕事はできるはず。気遣いは嬉しいけど」
「俺も俺でさ、福丸兄さんのことが心配なんだよ」

 私たち三きょうだいは芙蓉亭蘭丸を『蘭ちゃん』と呼んでいる。今昔亭四蔵のことは呼び捨てにしていた。テレビや寄席の売れっ子とこんなふうに気安く話せるのは、間違いなく父親のおかげだろう。こんなこと、普通の人だったら絶対にできない。

「去年の十二月に兄さんと若松亭で会ってね。俺はすっごい心配だった。四蔵兄さんが亡くなって、お葬式でぼろぼろ泣いてたって聞いたから」
「本当に。三日くらい泣いてた。でもその後警察に呼び出されたりとかで忙しかったから、その後は泣いてなかったよ。あたしが知らないだけかもしれないけど」
「わかるよ。あの時だって『久々の仕事だ〜!』ってヘラヘラ楽屋に来てさ。なんともないんだ!? って思ったけど、結局はあれも上っ面の笑顔だったのかね」
「どういうこと?」
「え、美幸ちゃん知らないの?」
「ねえ、何? そう言われると気になる」
「兄さん、高座で倒れたんだよ」

 お玉杓子を持つ手が止まる。包丁を持っている時でなくてよかった。
 蘭ちゃんが云うには、父は高座に上がってから暫くはいつもの調子だったらしい。悲壮感など全くない、陽気な芙蓉亭福丸だったのだと。喋っているうちにだんだん呂律が回らなくなって、やがて動くことも喋ることもできなくなり、ついに意識を失った。慌てて駆けつけると、白目を剥いて小さく痙攣していた。数分で意識が戻ったから心底安心したけれど、「病院へ行け」と念を押しておいた。
 そんなこと、私はこれっぽっちも知らなかった。

「ストレスのせい、なのかなあ」
 蘭ちゃんはため息をついた。
「ねえ、蘭ちゃんはさ、怖くなかったの?」
「怖いよ」
「随分ストレートなのね」
「だって、あの兄さんが体調不良で寄席を休むとか聞いた事ないから。そういう頑丈な人が白目剥いて失神したんだから、そりゃ怖いって」

 あのとき、去年の十二月十三日に、救急車を呼んで病院で診てもらえば、この病の正体がもっと早くわかったのかもしれない。
 なんで父は大事なことを言ってくれないのだろう。競馬の当たり外れはいちいち報告するのに。そんなことよりも自分の異常を報告してほしい。自分が一番に伝えるべき情報が分からないなんて、本当に馬鹿な父親だ。
 今日も夕飯の準備ができたら父を居間に呼び出す。そうすれば父はにこにこ笑って来てくれる、と思う。私はいつ起きるかわからない発作に戦々恐々としながらも、なるべく当たりざわりのない会話を心がけなければならない。
 こんなの、なんにも楽しくないのに。

「兄さんは、心を閉ざしてる。でも兄さん自身は多分自覚していない。だから厄介なんだ」
 心を、閉ざす。父には最も似合わない言葉だ。誰とでもすぐに打ち解けて、落語会の客すら家に呼ぶような人が、心を閉ざすなんて、信じがたい。
「美幸ちゃんはさ、あの事故以来、兄さんの本音を聞いたことがある?」
「……ない」
 お喋りで自分に正直な父が、本当のことを家族にも言ってくれない。こんなの、違う。今までの父ではない。
「……だよな。俺も兄さんの気持ちを知りたいけど、家族でも無理なら、俺もだめだな」
 蘭ちゃんは、それきり口をつぐんでしまった。


 ◇


 父は、今年に入ってからほとんど外へ出ていない。私たちが学校に、お母さんが仕事に行ったあとも、ずっと家に籠りきり。父が一人で出歩いているときに発作を起こすのを家族みんなが恐れているので、こういう生活になった。私が学校から帰ると、父はたいてい居間でぼんやりしていることが多い。「ただいま」と言えば「おかえり」とにっこり笑って返してくれるので、そのやり取りは毎日続けている。


「四蔵くんが、四蔵くんがね。今日、亡くなったんだって。昨日の夜に車に撥ねられて。明日、学校が終わったら四蔵くんチへ行くからね」
 受話器を置いた母が訃報を伝えてくれた。
 去年の、十月二十八日のことだった。
「お父さん、精神的にだいぶ参ってるみたいだから、優しくしてあげてね」


 父と四蔵は、小学校以来の仲で、高校も同じ、落語界へ入った日も同じ、まさに志を同じくする親友だった。四蔵はまだ売れる前、頻繁に家へ来てくれて、幼かった私の相手をしてくれたものだ。敦子も稔も、四蔵のことが大好き。きょうだい皆に優しくしてくれた。そして、父も四蔵が大好きだった。四蔵と一緒にいる時、父はすごく幸せそうな顔をする。なんだかんだ、父が幸せそうにしていると私も安心するし、母も嫌な顔ひとつせず付き合っていた。これが、ずっと続くと思っていたのだけど。
 母親と、きょうだいと一緒に弔問へ行き、四蔵の亡骸に会った。棺の中で動かぬそれは、もう四蔵ではなかった。言葉も、心も、何もかも奪われた抜け殻が、ただそこで身体を硬直させている。頭部には包帯が巻かれて痛々しいと思った。
 幼稚園児みたいに泣きじゃくる父を連れ帰り、早いうちに寝かせた。朝起きると父が泣いている、というのが三日三晩続いたが、そのうちいつもみたいにだらしない言動が戻ってきたので、勝手に安心してしまった。勝手に。こうして、平和な日常を取り戻すと思っていたのがいけなかった。


 ◇


「いただきます」
 父は明らかに食が細くなったと思う。前は茶碗にご飯を大盛りにしていたけど、今は私よりも食べる量が少ない。大好きなお酒もやめていた。尤も、ことを重く見た藤丸師匠が、禁酒を言い渡したようだけれど。
「お父さんさあ、最近痩せたよね」
 食事中にふとそんなことを言ったのは、敦子だった。
 父はそうかな、と返事をする。
 確かに、ここのところ父はあまり外出をしていないので、少し肉が落ちてしまったのかもしれない。
「あんまり食べないと、あたし怒るよ」
「はーい」
「本当ににわかってんの?」
「わかってるよ」
「お姉ちゃんと蘭ちゃんが忙しい中ご飯作ってるんだから、」
「あっこ、言い過ぎ」
 私が制止すると、敦子は拗ねたように頬を膨らませた。
 私は父のことが心配だ。でも、こんなこと父に直接言えない。それに、父がこのことについてどう思っているのか分からない。
 父はこの生活を甘んじて受け入れているよう。このままだと、本当に危ない。そう思っていても、口に出せなかった。父を追い詰めたくない。きっと母もそう思っているだろう。



 誰か私たちを助けてください。
 そして、お父さんが自由に生きられるように、悲しみを取り除いてあげてください。





 風呂から上がって、ずっと居間にいる。今、時計の針は11時15分を指している。
 どうしても父のことが理解できない。顔を合わせても、なんだか遠くを見ているようで、私の声が届いているか、いつも不安になる。だいたいは普通に言葉を返してくれるから、大丈夫だと思いたいのだけど。
 たまに、声が届かなくなるのだ。
 そういうときは、四蔵が事故に遭ったときの景色を見ているのだろう。聞いた話によると、あのとき、救急車の手配は車の運転手がやってくれたらしい。父は「その瞬間の記憶がない」と言っているけれど、きっとその記憶を無理矢理心の奥に押し込めているだけで、ふとしたときに強烈な記憶が出てきて、苦しんでいるのだ。
 私には、その記憶が存在しないから、わかってあげられない。

「美幸、早く寝なさい」
 母の声で我に返った。眠気は全くない。寧ろ自室へ行きたくなかった。私の弱さを、妹や弟に見せたくないから。カーペットの上に座って俯いたまま、言葉を絞り出す。
「……わかんない」
「はあ? あんた、どうしたの?」
「あたし、お父さんのつらさがわかんないの」
 次の瞬間、大粒の涙が零れた。頬をぬるい塩水が伝う。私は驚いて顔を上げた。
 私、泣いてる。
 どうして泣いてるのかわからなくて混乱する。悲しいわけじゃない。悔しいわけでもない。ただ、無性に寂しくなって、心細い。
「美幸、とりあえず落ち着きな」
 母は、私の肩を抱いて、背中をさすってくれた。
「お父さんのこと、嫌いになったんじゃないんでしょ」
「でも、お父さんは、あたしたちのこと、見てくれてるの?」
「何言ってるのよ。あんたたちはお父さんとあたしの大事な子供なんだから、気にしないわけないじゃない」
 母は私の身体をぎゅっと抱き締めた。幼稚園の頃以来かもしれない。母の身体は温かかった。まるで心の氷が溶けたように、涙が込み上げてくる。
 私は母の胸に顔をうずめた。胸の奥で心臓が動いているのがわかる。
「あたしが家に帰るまで頑張ってくれてるのは本当にありがたい。でも、美幸ももっと人に頼っていいのよ。敦子も稔もいるんだから。明日は日曜日なんだし、ゆっくりしたら?」
 うん、と呟くと、母は頭を撫でてくれた。
 私はずっと一人で抱え込んでいたのだろうか。そう思うと、急に自分が情けなくなってきた。
「ごめん」
 そう言った後、強く鼻を啜った。
「これくらい、なんてことないわよ」
 母の言葉に安心してまた泣きそうになる。しかし、それをぐっと堪えた。
「さ、とっとと涙拭いて鼻かんで寝なよ」
 立ち上がる母を呼び止める。
「お母さん」
「何、まだ何かあるの?」
「……今日、一緒の部屋で寝ていい?」
 母は一瞬驚いたような表情を見せたが、「美幸らしくないわね」と小さくため息をついた。
「ほら、電気消して。早く来な」
 私は立ち上がって蛍光灯の明かりを落とした。
「あらっ、この人まだ起きてる」
 寝室の方はまだ明かりが点いていた。父は布団の上で正座して、小声でぶつぶつ喋っていた。落語の稽古でもしたくなったのだろうか。だが、私に気付くなり嬉しそうに笑顔を見せる。
「美幸! どうした、一緒に寝るか?」
「お言葉に甘えさせていただきます」
「改まるんじゃないよ」
 父が声を出して笑っている。とても優しい顔で。それだけで安心した。なんだかまた目が熱くなりそう。今日の私は情緒不安定だ。
「消すよ」
 真っ暗にはならず、常夜灯の柔らかい光が部屋を照らした。
 父と母の間に入り、布団を被る。枕がないのはたいした問題ではなかった。
 まだ胸がざわざわする。しばらく経っても眠れない。
「起きてる?」
 両親に向けて囁いてみる。
「起きてる」
 父が返事した。母はもう寝ているようだ。連日仕事と家事をこなしているから、無理もない。
 母が目を覚まさないのを確認し、父の元へ寄る。
「お父さんさあ、明日さ……その、一緒に散歩とか、どう?」
 父は少し考えた後に、
「行きたい。俺だって外の空気を吸いたいよ」
と言った。
「じゃあ、明日起きられるように早く寝てね」
「お前こそ」
 父は逆側に寝返りを売ってしまった。顔が見えない。
「あたしは大丈夫だもん」
 私は父の胸に腕を回した。手を当てると、鼓動がはっきり伝わる。生きているんだ、確実に。
 私の手に、父の手が重なる。慈しむような手つきだった。前よりも薄くて、指も少し細くなってしまったけれど。



 もしかしたら、道中でなにか起こるかもしれないけれど。それは散歩を提案した私自身が処理しなければならない。
 でも、嫌ではなかった。

 お父さんには、お父さん自身がやりたいことを自由にやってほしいから。




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