ふたりの尊い人
文字数 3,004文字
芙蓉亭福丸は大人数で食事をするのが好きだった。寄席が跳ねると、必ず同期や後輩たちを連れて飲み歩く。きっと、若い頃から先輩の飲み会に着いていき、可愛がられた経験がそうさせているのかもしれない。
家庭でも、朝食はなるべく家族揃って食べるようにしていた。弟子に前座がいる時は、その時間までに彼を家に来るよう指示し、妻の手料理をたんと食べさせる。
「福丸師匠、ご馳走さまです」
「そりゃあどうも」
「師匠と御一緒できて嬉しいですねぇ」
二人だけの落語会だった。福丸自身が企画し、手配し、前座も連れてこない、正真正銘の二人会。
テレビでレギュラー番組があるからといっても、東京の落語会にはなかなか人が集まらない。地方巡業では有名人を人目見ようと、1000人入るホールが満席になることがあるから、知名度が飛躍的に上がったのは間違いないが。
今日の客は20人だった。小規模のホールを借りて開いた会だったこともあり、客数には期待していなかった。
それよりも、福丸は芙蓉亭蘭四郎と話してみたかったのだ。
「蘭丸って弟子にはどんな風に接してる?」
「普通じゃないですか? 小言はしょっちゅういただきますけど、それ以外は」
「彼奴、俺にまで講釈垂れてくるもんなあ」
「ですよねぇぇ。うちの師匠のこと、どう思います?」
「嫌いにはなれないよぉ」
だって、最初にあたしを助けてくれたのは、蘭丸だったのだから。
◇
酷く酔っていた夜だった。あの時も、二人きりだった。
月明かりも星明かりもなく、暗い世界へ吸い込まれるように、四蔵は何か衝動に駆られるように走り出した。その刹那、彼の身体は動く鉄の塊に跳ね飛ばされ、残酷なまでに美しい放物線を描いて、アスファルトの地面に叩きつけられた。
彼は終始無言だった。
芙蓉亭福丸の脳味噌は現実を理解することを拒否した。
己の叫びにより、福丸の記憶は遮断された。
まだ、時々夢に見る。
ふとしたきっかけで、思い出が津波のように押し寄せることがある。福丸の身体を蝕むほどの、強い感情も。
蘭四郎は元々、四蔵の総領弟子だった。同い年の四蔵が弟子を連れて道をゆく姿に、ほんの少し嫉妬心を覚えた。当時の福丸にはあまりにも理想的な関係に見えたのだ。だがそんな弱い心と向き合うことをせず、福丸はかの師弟に笑顔を見せた。
幸せな関係は突然終わりを迎えた。
病院に駆けつけた四蔵の妻は弟子たちを電話で呼び出した。助かる見込みは薄いと判断したらしい。
はじめに来たのは当時今昔亭小蔵を名乗っていた蘭四郎だった。
「ししょう」
肌寒くなってきた頃なのに、小蔵は身体中汗まみれで現れた。顔面は涙に濡れ、体液という体液が全て吹き出したかのような異様な姿だった。
「あ、……あ、そんな、」
四蔵の妻は、立ち尽くす小蔵の体を手ぬぐいで拭きながら、「最期になにか伝えてあげて」と言った。上ずった声だった。
小蔵は暫く何も言えなかった。福丸は、あまりの痛々しさに、彼らから目線を逸らそうとしていた。
下を向けば四蔵がいる。
四蔵はベッドに横たわり、人形のように動かない。
福丸はただ見ていた。見ていることしかできなかった。
「……師匠」
小蔵は師の顔を真っ直ぐ見た。
「6年間、貴方の弟子でいられて幸せでした」
聞いた途端、福丸の両目から涙がどっと溢れた。この世に存在する全ての感情をひとつにしたような、理性では抗えない大きなものが胸に込み上げ、声をあげて泣いた。
四蔵の妻も、小蔵も泣いていた。
ただひとり、四蔵だけが涙を流さなかった。
◇
蘭四郎は美味そうにおでんを頬張っている。
まだまだ話したいことが山ほどあるけれど、一旦話すのをやめて、彼の胃袋に何か入れてやるのを優先した。
福丸は熱燗を一杯口にする。口当たりがよくグビっと一気に飲み干した。後には酸味がふわりと広がる。もう少し強い酒も飲みたい。
誰にも邪魔されず、二人でゆっくりできる。お互い他愛もない話ができるようになってよかった、と福丸は実感した。
「うちの師匠、最初は全然乗り気になってくれなかったんですよ。俺も移籍先が希望してた人じゃなかったんで、だいたい大師匠が決めたんだと思うんです。あ、でも今はとっても上手くやれてますよ。俺、師匠のこと好きですし」
おでんを平らげた蘭四郎は、師匠蘭丸を語り始める。
「あっ、そうなんだぁ……。蘭四郎は誰のところに行こうと思ってた?」
「内緒です」
「なんだよ!」
「でもうちの師匠蘭丸って、かっこいいんですよ。長く師事させていただいて気づきました」
「わかるよ、わかる。彼奴、なんでも完璧にこなすし、何より男気あるんだよな」
「そうなんです、誰かのことをを思ったときの行動力がすごいなって。誰にでも気を遣って、不幸があったら一緒に悲しんでくれて」
「お前、今日はよく喋るね」
このままずっと喋って夜を明かしたい、と福丸は思った。
◇
今は無き若松亭。まだ小蔵の移籍先も決まっていない頃の話だ。
12月上席の初日だった。
福丸は高座で体調を崩した。
『こ、こりゃ……、熊の野郎だ、おい、起きろよ! 起き……!』
この台詞まで喋ったことだけは明確に福丸の記憶にあった。『粗忽長屋』のごく序盤の展開だ。浅草観音で行き倒れの現場に出くわした八五郎が、死体を親友の熊五郎と勘違いする場面。
これ以降、話の展開通り喋ったのか、そもそも言葉が出ていたのか、福丸にはわからない。口だけは動かしていた気がする。
呼吸が浅くなっていく。手足が痺れ、言うことを聞かない。視界が水に垂らした油のように歪む。ああ、悲しみに、恐怖に、怒りに溺れていく。だが、福丸は噺を止めはしなかった。喋っていないと自分が自分でなくなる気がした。
「あにさん、あにさん」
遠くで声が聞こえた。
視界が蘇る。まだ鮮明ではない。
「福丸兄さん」
蘭丸の声だ。聞いたこともない声だったが、福丸は確信していた。蘭丸は気が動転しきっている。
福丸は必死に酸素を取り込んだ。意識して呼吸をするうち、景色が広がる。それは若松亭の楽屋天井だった。
「兄さん、あたしのことがわかりますか」
蘭丸は今にも泣き出しそうな声だった。福丸は息を吸うのに精一杯で声が出ない。蘭丸と目を合わそうとすると、彼の整った顔が汗と涙でぐしゃぐしゃになっているのに気付く。福丸は小さく首を縦に振った。
蘭丸の涙を見たのは、これが最初で、今のところは最後だ。
なんだか、四蔵の事故の後に見た小蔵の姿と重なって見えた。
◇
「だからさぁ、俺、お前が蘭丸の弟子だって納得いっちゃって」
「そう、ですか」
蘭四郎は笑ってみせた。
「ふたりの師匠がちゃんとしてるからお前も真面目に育って、いい事だよ」
福丸は気分良さげに話し続ける。
「ちゃんと下の世代のことを見て色々言ってくれる人っていそうでいないから、これからも蘭丸のこと大事にしてやってね」
「それは弟子として当たり前です」
「俺も彼奴のこと大事にするから」
「ありがとうございます」
蘭四郎はお茶漬けをかき込んだ。福丸師匠ってうちの師匠たちのこと大好きだよな。でも、自分たち下っ端にも好かれていることを知ってほしい。そう願わずにいられない。
誰にでも優しくて、可愛がってくれる素敵な師匠。
こんなちっぽけな蘭四郎《じぶん》に何ができる。
お茶漬けに乗っかっていた梅干しが妙に酸っぱくて、ずっと舌に残りそうだった。
家庭でも、朝食はなるべく家族揃って食べるようにしていた。弟子に前座がいる時は、その時間までに彼を家に来るよう指示し、妻の手料理をたんと食べさせる。
「福丸師匠、ご馳走さまです」
「そりゃあどうも」
「師匠と御一緒できて嬉しいですねぇ」
二人だけの落語会だった。福丸自身が企画し、手配し、前座も連れてこない、正真正銘の二人会。
テレビでレギュラー番組があるからといっても、東京の落語会にはなかなか人が集まらない。地方巡業では有名人を人目見ようと、1000人入るホールが満席になることがあるから、知名度が飛躍的に上がったのは間違いないが。
今日の客は20人だった。小規模のホールを借りて開いた会だったこともあり、客数には期待していなかった。
それよりも、福丸は芙蓉亭蘭四郎と話してみたかったのだ。
「蘭丸って弟子にはどんな風に接してる?」
「普通じゃないですか? 小言はしょっちゅういただきますけど、それ以外は」
「彼奴、俺にまで講釈垂れてくるもんなあ」
「ですよねぇぇ。うちの師匠のこと、どう思います?」
「嫌いにはなれないよぉ」
だって、最初にあたしを助けてくれたのは、蘭丸だったのだから。
◇
酷く酔っていた夜だった。あの時も、二人きりだった。
月明かりも星明かりもなく、暗い世界へ吸い込まれるように、四蔵は何か衝動に駆られるように走り出した。その刹那、彼の身体は動く鉄の塊に跳ね飛ばされ、残酷なまでに美しい放物線を描いて、アスファルトの地面に叩きつけられた。
彼は終始無言だった。
芙蓉亭福丸の脳味噌は現実を理解することを拒否した。
己の叫びにより、福丸の記憶は遮断された。
まだ、時々夢に見る。
ふとしたきっかけで、思い出が津波のように押し寄せることがある。福丸の身体を蝕むほどの、強い感情も。
蘭四郎は元々、四蔵の総領弟子だった。同い年の四蔵が弟子を連れて道をゆく姿に、ほんの少し嫉妬心を覚えた。当時の福丸にはあまりにも理想的な関係に見えたのだ。だがそんな弱い心と向き合うことをせず、福丸はかの師弟に笑顔を見せた。
幸せな関係は突然終わりを迎えた。
病院に駆けつけた四蔵の妻は弟子たちを電話で呼び出した。助かる見込みは薄いと判断したらしい。
はじめに来たのは当時今昔亭小蔵を名乗っていた蘭四郎だった。
「ししょう」
肌寒くなってきた頃なのに、小蔵は身体中汗まみれで現れた。顔面は涙に濡れ、体液という体液が全て吹き出したかのような異様な姿だった。
「あ、……あ、そんな、」
四蔵の妻は、立ち尽くす小蔵の体を手ぬぐいで拭きながら、「最期になにか伝えてあげて」と言った。上ずった声だった。
小蔵は暫く何も言えなかった。福丸は、あまりの痛々しさに、彼らから目線を逸らそうとしていた。
下を向けば四蔵がいる。
四蔵はベッドに横たわり、人形のように動かない。
福丸はただ見ていた。見ていることしかできなかった。
「……師匠」
小蔵は師の顔を真っ直ぐ見た。
「6年間、貴方の弟子でいられて幸せでした」
聞いた途端、福丸の両目から涙がどっと溢れた。この世に存在する全ての感情をひとつにしたような、理性では抗えない大きなものが胸に込み上げ、声をあげて泣いた。
四蔵の妻も、小蔵も泣いていた。
ただひとり、四蔵だけが涙を流さなかった。
◇
蘭四郎は美味そうにおでんを頬張っている。
まだまだ話したいことが山ほどあるけれど、一旦話すのをやめて、彼の胃袋に何か入れてやるのを優先した。
福丸は熱燗を一杯口にする。口当たりがよくグビっと一気に飲み干した。後には酸味がふわりと広がる。もう少し強い酒も飲みたい。
誰にも邪魔されず、二人でゆっくりできる。お互い他愛もない話ができるようになってよかった、と福丸は実感した。
「うちの師匠、最初は全然乗り気になってくれなかったんですよ。俺も移籍先が希望してた人じゃなかったんで、だいたい大師匠が決めたんだと思うんです。あ、でも今はとっても上手くやれてますよ。俺、師匠のこと好きですし」
おでんを平らげた蘭四郎は、師匠蘭丸を語り始める。
「あっ、そうなんだぁ……。蘭四郎は誰のところに行こうと思ってた?」
「内緒です」
「なんだよ!」
「でもうちの師匠蘭丸って、かっこいいんですよ。長く師事させていただいて気づきました」
「わかるよ、わかる。彼奴、なんでも完璧にこなすし、何より男気あるんだよな」
「そうなんです、誰かのことをを思ったときの行動力がすごいなって。誰にでも気を遣って、不幸があったら一緒に悲しんでくれて」
「お前、今日はよく喋るね」
このままずっと喋って夜を明かしたい、と福丸は思った。
◇
今は無き若松亭。まだ小蔵の移籍先も決まっていない頃の話だ。
12月上席の初日だった。
福丸は高座で体調を崩した。
『こ、こりゃ……、熊の野郎だ、おい、起きろよ! 起き……!』
この台詞まで喋ったことだけは明確に福丸の記憶にあった。『粗忽長屋』のごく序盤の展開だ。浅草観音で行き倒れの現場に出くわした八五郎が、死体を親友の熊五郎と勘違いする場面。
これ以降、話の展開通り喋ったのか、そもそも言葉が出ていたのか、福丸にはわからない。口だけは動かしていた気がする。
呼吸が浅くなっていく。手足が痺れ、言うことを聞かない。視界が水に垂らした油のように歪む。ああ、悲しみに、恐怖に、怒りに溺れていく。だが、福丸は噺を止めはしなかった。喋っていないと自分が自分でなくなる気がした。
「あにさん、あにさん」
遠くで声が聞こえた。
視界が蘇る。まだ鮮明ではない。
「福丸兄さん」
蘭丸の声だ。聞いたこともない声だったが、福丸は確信していた。蘭丸は気が動転しきっている。
福丸は必死に酸素を取り込んだ。意識して呼吸をするうち、景色が広がる。それは若松亭の楽屋天井だった。
「兄さん、あたしのことがわかりますか」
蘭丸は今にも泣き出しそうな声だった。福丸は息を吸うのに精一杯で声が出ない。蘭丸と目を合わそうとすると、彼の整った顔が汗と涙でぐしゃぐしゃになっているのに気付く。福丸は小さく首を縦に振った。
蘭丸の涙を見たのは、これが最初で、今のところは最後だ。
なんだか、四蔵の事故の後に見た小蔵の姿と重なって見えた。
◇
「だからさぁ、俺、お前が蘭丸の弟子だって納得いっちゃって」
「そう、ですか」
蘭四郎は笑ってみせた。
「ふたりの師匠がちゃんとしてるからお前も真面目に育って、いい事だよ」
福丸は気分良さげに話し続ける。
「ちゃんと下の世代のことを見て色々言ってくれる人っていそうでいないから、これからも蘭丸のこと大事にしてやってね」
「それは弟子として当たり前です」
「俺も彼奴のこと大事にするから」
「ありがとうございます」
蘭四郎はお茶漬けをかき込んだ。福丸師匠ってうちの師匠たちのこと大好きだよな。でも、自分たち下っ端にも好かれていることを知ってほしい。そう願わずにいられない。
誰にでも優しくて、可愛がってくれる素敵な師匠。
こんなちっぽけな蘭四郎《じぶん》に何ができる。
お茶漬けに乗っかっていた梅干しが妙に酸っぱくて、ずっと舌に残りそうだった。