其の詞は誰が為に

文字数 3,967文字

 四蔵兄さんが自動車に轢かれて瀕死だって。日比谷演芸場の楽屋はその噂で持ち切りだった。
「ほんとかよ、こないだ千蔵師匠が亡くなったばっかりじゃない」
 四蔵兄さんは去年癌で亡くなった今昔亭千蔵師匠の弟子だ。兄さんには元々弟子が2人いたのだけれど、師匠の死に伴ってまだ前座の弟弟子を1人引き取ったばかり。
「千蔵さんだってまだ若かったからなァ、これから四蔵が一門を背負って立たなきゃいけねぇのに」
「平成の落語界を牽引するうちの一人だと思ってるんだけど」
「もし死んだら前座がまた移籍しなきゃならねぇじゃねぇかよ」
 冷めたお茶を啜りながら師匠方が駄弁る。頼まれた前座はそれぞれの好みに合うよう研究して、最適な緑茶を出しているというのに、お喋りに夢中でなかなか湯のみに手を出さない。これでは前座も報われないだろう。
「あのさ、四蔵兄さんの件って誰が最初に言い出したの?」
 同期にそれとなく話しかけた。
「俺が来た時からもうこの話題だったからわかんないよ」
「はぁ……そうか」
「俺もう着替えていい? お後だから」
「ごめん」
「謝るなよ、みんな気になってることだろうから」
 喋りながら襟がヨレヨレのTシャツを脱ぎだした。
「あ、でもさ、第一発見者は福丸兄さんだって聞いた」
「福丸兄さん?」
 訊くと、彼奴は意外そうな顔をした。するすると長襦袢を身に纏いつつ、丸い目を此方へ向ける。
「知らなかった? お前の兄弟子なのに」
「いや、まあ想像はつくよ。あの兄さんって四蔵兄さんと仲いいし」
「福丸兄さんってすごいお喋りだから情報源はそこじゃないの?」
「流石の兄さんでも人の生死に関わる事を不用意に知らせないでしょ」
 高座の方から拍手が聞こえた。次の演者の出囃子が鳴る。
「じゃ、お先に」
 彼奴は帯を巻いて着物を整えると、そそくさと出ていった。
 四蔵兄さんの訃報が届いたのは、その翌日のことだった。


 ◇


 福丸兄さんは四蔵兄さんの亡骸に向かって泣き叫んだらしい。葬儀の時もぼろぼろ泣いて、参列者の涙を誘ったと聞いた。俺は葬儀に行っていないし、福丸兄さんともしばらく顔を合わせていなかったから、細かいことは知らないけど。
 四蔵兄さんはテレビで売れまくっているのに、俺たち後輩に優しく接してくれたから、俺だって悲しかった。
 でも。
「やっぱ福丸兄さんも悲しむよな……」
 独り言が唇から漏れ出る。
 福丸兄さんと四蔵兄さんは小学生の頃から付き合いがあったらしい。高校まで同じ学校で、「一緒に寄席に出よう」と誓い合った仲だったと、福丸兄さん本人から聞いたのを思い出した。

 ひと月が経って、若松亭で福丸兄さんと再会した。感情がよく顔や仕草に出る人だから、何食わぬ顔で「蘭ちゃん元気?」と尋ねてきて、拍子抜けしてしまった。俺はてっきり、四蔵兄さんの件を引きずっているのかと思っていたのだ。
 それでも四蔵兄さんのことを思い出させるのは福丸兄さんに悪いので、話題には出さないでおいた。
「俺さぁ、高座に上がるの久々なんだよね」
 噂が本当なら、四蔵兄さんが亡くなった事故の第一発見者らしいので、おそらく事情聴取なんかをされていたのだろう。
「兄さん、随分忙しかったんですね」
 俺は当たり障りのない言葉しか発することができなかった。
「そうなんだよ。俺、忙しかったの。だけど落ち着いてきたからまた皆で飲みたいね」
「今日の打ち上げで好きなだけ飲んでけばいいじゃないですか」
「だから今日が楽しみだったわけよ。皆でワイワイ喋って雑談やら芸談やらするのがいいんだよ」
 目を輝かせる兄さんを見て、もう吹っ切れたのだと誰もが思っていたのではないだろうか。心配する必要もないか、と思って俺はこれからの出番に集中した。
 出番を終えて私服に着替えると、福丸兄さんも着物に着替え始めていた。兄さんの出番は俺の二つ後。
「何をやろっかな」
 呑気に呟いている。いつもの福丸兄さんだ。こう見えて芙蓉亭福丸という人は持ちネタが多い。俺が前座だった頃からよく稽古をつけてくれた。「親子酒」「紙屑屋」あたりのネタは福丸兄さんに教わったものだ。しかし不思議なことに兄さん自身が稽古をする姿は見たことがない。物覚えがいいのか、見えないところでやっているのか……。
 福丸兄さんの出囃子が流れ始めた。今出番が終わった先輩が降りてきて、前座が高座返しへ向かう。
「兄さん、ネタはどうしますか?」
「まだ決まってない」
 兄さんは笑いながら言った。明るいオーラを纏った兄さんは、そうして高座へ駆けていった。
 俺は袖で兄さんの喋りを聞いていた。
 演目は「粗忽長屋」。初っ端から野垂れ死んだ男が出てくる噺。騒ぎに気付いた八五郎が遺体を見つけたところから、おかしな展開へ進んでいく……。今日の福丸兄さんはこの噺をどう演出するだろう。
 最初こそ伸びの良い声が聞こえていたものの、そのうち何を喋っているのか分からなくなってきた。客の笑い声も途絶えてしまい、雑談に興じていた師匠方も異変に気付いた様だ。
 若松亭全体が静寂に包まれたようで、福丸兄さんの不明瞭な声だけが客席に響いた。
「これ、やばくないですか」
 楽屋で誰かが呟いた。その途端、高座で何かが落ちたような音がした。
「緞帳下ろせ!」
 ある先輩が叫んだ。前座が「えっ、どうしよう」と慌てふためきながら緞帳を下ろした。
 俺は高座へ走った。頭が真っ白だった。
「兄さん、」
 その場に福丸兄さんが倒れているのを確認した。全身を突っ張らせ、ぶるぶる震えている。恐る恐る顔を覗くと、普段は綺麗な桃色の唇が蒼くなっていて、白目を剥きかけていた。普段の兄さんからは想像もつかない虚ろな目に、俺は恐怖した。
 既に緞帳が下りていた。
 痙攣が弱くなってきたので、兄さんの上半身を起こして背後から手を回した。俺は気合いを発し、腕の中でぐったりしている兄さんをそのままズルズル上手へ運ぶ。楽屋までのたった数メートルの距離が何十メートルにも感じて、半ベソをかいてしまった。福丸兄さんを楽屋の前座に引き渡した時、自分の冷や汗でポロシャツがぐちゃぐちゃ濡れていたことに漸く気づき、気分が悪くなった。福丸兄さんの身体は3枚並べた座布団の上に寝かせられた。
「兄さん、起きてください」「福丸兄さん」
 俺はうわ言のように繰り返す。前座から真打までぞろぞろと集まってきて、兄さんを囲んで口々に声をかけた。
 兄さんの肩を叩くも、反応はない。左手を握ってみると、まるで死人のように冷たかった。
「これ、福丸さんに掛けてやりな」
 さっき緞帳を下げるよう指示していた先輩が、気を遣って羽織を持ってきてくれた。俺は受け取った羽織を広げ、兄さんの身体にそっと覆い被せた。
 心なしか、兄さんの表情が和らいできた気がする。半開きだった瞼は閉じ、少しずつではあるが、唇に血色が戻りつつある。
 やがて、兄さんは目を開けた。時計を見ればたった5分しか経っていないのに、まるで長い冬眠から目覚めた小熊を見ているような気持ちだった。
「兄さん、あたしのことがわかりますか」
兄さんは視線を此方に向けてゆっくりと頷いた。心の底から安堵して、全身の力が抜ける。よかった、本当に心配したんです、と震え声で伝えた。

 その日の番組はなんとかトリまで終えたものの、客の笑いはなかった。打ち上げは中止となり、一番下の前座からトリの真打まで、重い足取りで帰路についた。
 福丸兄さんはその翌日も仕事に出たらしいがやはり高座の途中で具合が悪くなったと聞く。程なくして仕事を全てキャンセルし、表舞台から姿を消してしまった。
 心配で兄さんの自宅まで行き、どういうことかと問い詰めたことがある。
「四蔵のことを思い出しちゃったのかな」
 ヘラヘラ笑っているけれど、四蔵兄さんの話をすると途端に目から光が消えるのだ。
「兄さん、やっぱり四蔵兄さんの事故を」
「うん、見てたよ。車に轢かれたのを見てた。それからどうしたのかさっぱり記憶がないけど、気付いたら病院にいて、四蔵の手術が終わるのを待ってた」
 顔からだんだん感情が抜けているように見えて、戸惑った。何とも反応できず、下を向いた。兄さんの表情を見ていられなかったのだ。
「でも、あいつのためにも落語を続けたいから、すぐ寄席に戻れるように頑張るよ」
 兄さんは微笑した。そんな笑顔は見せないでほしい。四蔵兄さんの死が、福丸兄さんの色を奪ってしまったのだ。俺は腹の底から怒りが込み上げるのを感じた。
「車の運転手のことはどう思ってるんですか」
 思わず声を荒らげた。でも兄さんは淡々と話した。
「かわいそうだと思うよ。あの人は多分、一生そのことを引きずるかも。いい人だったもん」
「じゃあ兄さんの気持ちの行き場はどこなんですか!」
「いい気持ちが周りの人に伝わればいいなァって」
「答えになってないですよ」
「笑ってればなんとかなるよ、そんなメソメソしたところは見せるべきじゃないんだってば」
「あたしは兄さんの本当の笑顔が見たいんです」
 考え事をしている時の作り笑い。この出来事以来、見ると不快になるのだ。
 兄さんは普通にしていれば陽気で明るい人なのだ。
 だからもう俺から四蔵兄さんの話を出すことはない。でも福丸兄さん自身がその話をしようとする。それが兄さんに対して唯一大嫌いな点なのだ。
「もっと自分を労わってください、兄さん」


 ◇


 その当時売れていた今昔亭四蔵の死は、世間に小さくないショックをもたらした。
「かわいそう、まだ若いのに」
「50代、60代の姿を見たかった。いよいよこれからというところでの訃報だった」
 その影で、悲しみの行き場を失くした一人の噺家がいた。あの人は何のために話しているのか。誰のための詞を発しているのか?
 今昔亭四蔵の存在は、芙蓉亭福丸にとってあまりにも大きすぎる――。
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