第6話 女の確執

文字数 1,697文字

 左手を中空にかざし、右手は丸く円を描き美鶴を迎え入れるポーズをとる慎二の顔は、もうにやけてはいなかった。慎二の前にいるその女は決して(あなど)れないダンサーである。
 慎二の目は珍しく真剣であり、多少緊張しているのを人知れずカップルを組んでいる友梨には分かった。いつもは長髪の彼だが、ダンスの時だけはキリリと髪をまとめている。精悍(せいかん)で甘いマスクは、それだけで絵になる。

(お願い、慎二さん、無様なダンスをしないでね、カッコいい踊りをみせて、私の為にも)

 友梨は慎二に近づく美鶴をじっと見つめながら、自分が踊る時よりも緊張していた。友梨と美鶴は、この教室では古い。どちらかと言うと友梨の方が美鶴よりも半年ほど早かった。
 二人の性格はそれぞれが違うので、何でも親しく話し合える仲ではないが、しかしそれぞれの実力は認め合っていた。二人とも、あまり話をしないので、お互いのダンスの実力以外にはプライベートなことは知らない。それでも以前にはこんな会話をしたことがある。

「友梨さん、いつも頑張っているわね」
 珍しくその日は、美鶴が、友梨に声をかけてきた。

「あ、はい、美鶴さんもね、もうあのステップをマスターしちゃったのね」

「うん、でも難しかったわ、あのタイミングを捉えるのに苦労したけれど、でも一度マスターしてしまえば、意外と簡単に踊れるわよ」

「そうかしら、私は覚えが悪いから、なかなかうまくいかなくて……」
「そんなことないわ、友梨さんだって、難しいステップを一杯知っているじゃない」
「そうかなぁ」

 二人は前にこんな話をしたことがある。今、この教室の中では、どちらかというと温和な友梨の方が人気がある。ここでは様々な人間が出入りする中で、何人かの人たちが辞めていった。ある程度までダンスをマスターしたら、それで満足してそれ以上のスタディを怠ったり、それぞれの事情で辞めていくからだ。

 そのような中で、今は友梨と美鶴以外にはその当時の人は少ない。更なる上を目指して別のダンス教室やダンス・スタジオ等に行ったり、掛け持ちをしたりしている人もいて、様々である。友梨と慎二の二人はこのケースだった。

 美鶴は昼間は会社の秘書をしながら、退社後の週の半分以上はこの教室に通っている。
 彼女は仕事の関係や、資金の関係でダンスはこの教室のみである。ゆえに、レッスンはいつも真剣だった。

 友梨もそんな一途な美鶴の真剣さに、影響されている事は否めない。どちらかと言うと、おっとりとした友梨に比べて美鶴はその反対だった。美鶴は物事をはっきり言うし、それが時々態度に出ることがある。あることにこだわると、それを徹底的に追求しないと気が済まない性格であり、そんな美鶴にはカップルを組む男は中々現れない。

 この教室の専属コーチや、古い気心が知れた男と踊る以外には、オーナーからは新人の指導を時々任されている。それは友梨も同じだった。
 慎二としては、自分から美鶴にチャレンジした以上、無様なダンスを皆の前で晒す訳にはいかない。つい、美鶴が新人の竜也と踊っているのを見て、彼等が躍り終わった後に口が滑ってしまったのだ。しかし、今はそんなことを言っていられない。

 最高のステージが始まったのだ。それは自分で播いた種だったのだが……。
 フロァに流れたタンゴの曲は、有名なタンゴ曲の「ラ・クンパルシータ」だった。

「えっ?この曲で?」
 そう思ったのは、慎二も美鶴も同じだった。この曲は鑑賞するのには良いが、躍りとしては少し難しい。アルゼンチン・タンゴを代表する曲であり、この教室ではめったに掛からない曲だった。しかし、この名曲で踊ってこそ、価値がある曲である。
 二人が、思わずステージ脇の音響セットが置いてある場所をみると、いつのまにかこの教室のオーナーが座っていた。オーナーは女性である。

 彼女は元一流のダンサーであり、ダンスを愛してやまないダンスの愛好者でもある。いずれ、彼女にも触れなければいけない。そして、二人にウインクすると親指を立て、ダンスを催促した。
「頑張って~、慎二君、美鶴ちゃん!」
 それに合わせて皆の拍手が響く。



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