第2話   レッスン

文字数 2,281文字

 ダンスが初心者の彩香にとって、洗練されている慎二は、彼女にとっては遠い存在だった。いつも初心者用のステップを他の熟練者から習いながら、チラリと垣間見る慎二はいつも輝いていた。スタンダードのワルツやタンゴでは、パートナーをしっかりと支えながら鷹揚に構え、優雅なステップでフロアを滑るように踊ったかと思えば、ラテンのルンバやチャチャチャでは、人が変わったようにオーバー・アクションでフロアを縦横無尽に駆けるように踊る。

 素人目にも少し、気障な気がするが当の慎二は意に介さない。それは彼の自信の裏付けだろうか。だが、その彼を快く思っていないダンサーも居ないわけではない……。
 彩香は、まだその教室に通って浅かったので、そんなことまで気が回る余裕というものがない。ただひたすらに、難しいけれど憶えたてのダンスの喜びに浸っていた。そんな雲の上の存在だと思っていた慎二がどういう訳か、彩香に教えてくれるという。

 それは慎二の気まぐれであり、今までにもそういうことは度々あった。慎二としては、余りに稚拙なダンスの彩香が気になり、手を差し伸べたと言うべきか。細めで少しクールな面影を持つ慎二は、とかく女性達の注目の的だった。

 しかし、大会などのラテンの種目で、胸の前が大きく開いた薄い衣装を身につけたとき、引き締まった肉体に驚かされる人も少なくない。いわゆる、アスリートの体型をしていて無駄な筋肉がない。入会した頃の彩香に、親しく声を掛けてくれる者は少なかった。皆それぞれに、自分のレベルを上げる為に戦々恐々としているからである。レッスン料が安くはないそのダンス教室に通う人々には、教師は例外として、新人に優しく手を差し伸べてくれる仲間は余りいない。

 彩香は、慎二がレッスンをしてくれることが嬉しかった。まるで、冴えないシンデレラが王子様の舞踏会に招待され、始めて踊ったときのように。

 慎二と彩香の二人が踊り終わった頃には、夜のダンス教室には人が集まり始めていた。
 女達はロッカー室で普段着から、ダンス用のコスチュームに着替え、靴を脱いでダンスシューズに履き替えていた。ヒールの高いシューズのフィット感と足の状態を確認すると、 そのシューズの中に足を滑らせ、黒い紐をキュっと結ぶ。これで「踊りと美の戦い」の戦闘準備が完了する。

 すっと立ち上がったその瞬間から、普通の平凡な女達は、その穏やかな顔が引き締まり、それぞれの凛々しい踊り姫の顔になる。誰もが踊りたい意欲に駆られその表情は美しい。人というものは、自分のやりたいというその目的に近づくと、自分でも気が付かないオーラを発し、光り輝くようだ。

 すでに着替えた人は、柔軟体操等で身体をほぐす。一通り終わると、いつも決まって鏡の前でポーズを造る。じっと鏡を見る眼は生き生きとしていた。その姿は入浴を終えた後に、裸で鏡の前で自分の裸身を見て微笑み、そのスタイルに満足するナルシストの姿だった。しかし、そのポーズをするのは誰でもするわけではない。
 ダンスが上手いと自負し、己の容貌に自信がある女に限られる……とは言うものの、女とは誰でもそういう意識をもっているが、どちらかというと、その手の女達は、得てして自分が思うほど美しくない。賢い女は、その謙譲の美徳による内面の美こそ、内から湧き出でる美しさということを知っている。

 そして、鏡の前で立ち並ぶ2,3人の女達はお互いに愛想を振りまきながらも、内心では自分が一番決まっていて、最高だと思っているのだ。そういう女に限って、自分より容貌やレベルが劣る女を見つけると安心し、その人を卑下した眼で見るのである。
 それは、己の中に潜む女の性がそうさしていることに気が付く女は少ない。

「こんばんは、元気?」
「うん、なんとかね、貴女もね」
「うん、そうね、元気よ、あは……これしかあたし取り柄ないし」
「まぁ、でも最近良い人を見つけたって言う噂入ってるわよ」

「ええっ?……もうそんな噂が? いやだぁ」
「いいなあ、あたしもここで頑張って彼氏見つけなきゃ」
「うふん、頑張ってね」

 そんな下世話な話が飛び交いながらこの空間は華やいでいた。ここにいる女達は、グループ・レッスンを受けている女達である。

「ねえねえ、それはそうとさっき慎二さんと、最近入会した新人さん、ほら……名前なんて言ったかしら」

「ああ、さっき踊っていた人ね、たしか 彩香さん……とかいったわね、それが?」
 言われた女は、ブラジャーのあたりを調整しながら、彼女が何を言おうとしているのか、興味をそそられていた。女達は、自分以外の女の噂が好きである。

「最近、一番早く来て熱心よね……あの子、慎二さんに気が合うんじゃないの?」
「そうね、さっきからワルツで二人でくっついて、 いちゃいちゃしちゃってね」

 少し太り気味の女が、上目遣いにひと踊りして休んでいる彩香を一瞥しながら言った。

「そうそう、恋人みたい、慎二さん、あたしなんかとはあんなに踊ってくれないしね」
「若けりゃ良いってもんじゃないわよ、たいして上手くないくせに」
「そうそう、でも慎二さんは若い子が好きだから」
「そうねぇ」

 そこへグループレッスンの教師の美しい友梨が近づく。

「こんばんは、また人の噂でもしているんでしょ、そのお話は、昼間どこかでお茶でも飲みながら……ね、ここでは真面目に……さあ、ストレッチから始めましょ」

「はあい……」

 教師の中でも一番と言って良いほどスタイルが良く、際だった美しさを誇る友梨に、全ての男達の目線が注がれていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み