第8話 主任

文字数 3,815文字

 高校を卒業し、就職した生命保険会社。
 まだ発売前の財形保険部に配属された新人は、私ともうひとりの大人の雰囲気の大卒女性だけだった。
 発売されるまでの2ヶ月はほとんどコピーと雑用。
 私は倍以上年上の、妻子のあるT課長代理をすぐに好きになってしまった。毎日会えるのが嬉しくて、休みの日はつまらなかったくらい。

 発売が近づくと部は忙しくて殺気立っていった。残業続きで、T課長代理はしょっちゅうシステム部の若い男性と口論をしていた。
「あー、また始まっちゃった」
 怖い。怖い。
 でも、雑談をしている時は面白い。もうひとりの課長代理は子供が生まれたばかりで、名前を「大五郎」にしようとか、Tさんに、かわいそうだとか言われたり、楽しい雰囲気だった。
 Tさんは奥さんのことを「女房」と言っていた。
「女房が……女房が……」
 その言い方が好きだった。愛妻家なのだ。

 2ヶ月すると部はふたつに分かれ、よその部署から大勢異動してきた。大卒女性は隣の課に。
 Oさん(27歳、男性)は地方から異動してきた。
 初めは素敵! だとは思わなかった。背は高かった。顔も良かったのだろうが……野暮ったい……
 高卒のS君、Aさん、短大卒の女性のふたりは、他の部署から異動して来た。皆、同期入社だ。
 
 Oさんは、のんびりした印象だった。昼休みに皆と食堂へ行かず、残っていた。
 拍子抜けするようなペースの男は、初日に財布を忘れてきたのに言えなかったのだ。
 気づいた私はお金を貸した。
 
 T課長代理が、
「女の子に借りるなんて前代未聞だ」
と笑っていた。

 ふたりの課長代理と係長は大卒。Oさんより若い男性は東大卒。Oさんは高卒だった。
 こういうのは耳に入る。

 Oさんは会社の寮に住み、転勤してくるなり、慣れない東京で毎日残業。Oさんは痩せていった。
 昼はうどん1杯しか入らないそうだ。胃腸が弱そう。なのにタバコは吸う。(まだ事務室の机の上に灰皿を置いてた時代)

 元々おしゃれな男ではないのだ。水玉のネクタイ1本しか、締めているのを見たことがない。
 来る日も来る日も同じネクタイ。気になって気になって、私は指摘した。
「Oさん、ネクタイ買えば?」
 10歳年上の男性に、なんだか敬語をあまり使っていなかったような……

 話しやすかった。かっこいいとは思っていなかったから。訛りも少しあったのだろう。
「ネクタイ買ってよ。Yさん」
とOさんは少しイントネーションの違う軽口。
 買いに行く暇がないのだ。

 T課長代理もそうだが、痩せていた人がますます痩せていく。
 寝不足な目。大丈夫だろうか?
 比べて私は往復3時間もかけて通勤しているのに、少しも痩せない。
「羨ましい」
と言うと、
「痩せさせてやるよ」
とOさんが言った。仕事でね。
 痩せはしなかったけど。

 Oさんは残業していると私のそばに来た。
 私ともうひとりの高卒女性(垢抜けたかわいい子)がいつも残っていた。
 あとのふたりは短大卒。ひとりはすぐに姓が変わったから結婚したのだろう。お祝いもなにもなかった。
 最初の頃は残業していた彼女の彼氏だか旦那が、怒って乗り込んできたらしい。それ以来彼女は定時で帰る。
 もうひとりの女性も4時半になるとすぐに帰った。
 もう、呆れるのを通り越した。
 それをわかっていたのだろう。
「向こうのほうが、給料も多いんだから頭にくるよな」
とOさんが宥めた。気を使っていたのだろう。私たちにまで帰られたら困るだろうから。

 なんか私は残業するとプリプリしていた。他の男性にそんな態度は取れない。Oさんは軽く受け止めていた。流していた?
 なぜか、Oさんには文句が言えた。

 その頃、私の顔には遅咲きのニキビだか湿疹が。18歳のS君も花盛りだったけど、私は化粧もできず皮膚科に通っていた。
 話の流れで、
「医者に行くの? どこが悪いの?」
と、聞かれ
「顔」
とつっけんどんに返した。
「顔?」
 Oさんは、いつも復唱した。
「顔? ああ、びっくりした」

 女子事務員に制服が導入されると、Oさんは私のところに来てサイズの事でからかった。
「Lサイズ? LL?」
 セクハラ、パワハラという言葉はなかった。
 私はプリプリしていた。
「Mです」
 きついけど。

 仕事が軌道に乗るとOさんはテニスを始めた。テニスコートは会社の施設。Oさんは私のところに来て、
「Yさん、テニスしようよ」
と誘った。本気なのか、社交辞令かはわからない。
 私は太っていたから(少しね)そのうちね、とはぐらかした。痩せてスタイルが良くなったらやりたい……
 
 やがてOさんは、どんどん垢抜けていき、ネクタイの数も増えた。
 歩いているだけでかっこいい。
 そして会社のパンフレットの表紙に……

 契約課の友人のきみどりさんは、話したこともないOさんを素敵だと言うようになった。
「ああ、Oさん、Oさん」
「Tさん、Tさん」
と、私は返した。

 きみどりさんはユニークな人だ。
 彼女はその頃サッカーのマリオ・ケンペス(誰、それ?)に夢中で、よく本屋で雑誌を立ち読みしていた。
 クラシックにも詳しく、私が聴くようになったのは彼女の影響だ。

 クラシックのレコード全集が本社ビルの購買部で発売していた。あの頃で10万円くらい。
 私はローンを組んで買った。ステレオも買った。
 バーンスタインのポスターを事務室で広げて見ていると、Oさんが、カラヤン? と聞いてきた。
「バーンスタイン」
 よく知りもせず、私は答えた。
「クラシックからジャズが好きになるよ」
 と言われた。そう言ったOさんは大人の男に見えた。

 Oさんは、忘年会で故郷の民謡を歌った。上手だった。
 2次会でダンスをした。係長に初めてブルースを教わった。リズム感がいいと褒められ本気にした。

 Oさんも踊れた。踊れるんだ……Oさんにはジルバを教わったが、全然わからなかった。私の好きなTさんは先に帰っていた。

 私は本社に3年いた。Oさんは主任になったが、彼女ができた気配はなかった。
 バイトに来た女子大生も、翌年入ってきた後輩もOさんを好きになった。

 私は同じ歳のS君と親しかった。S君は当時流行したアイビールックの好青年。明るく仕事は真面目だった。
 バレー部で、先輩の彼女がスケート部だったので、私をスケートの合宿に誘った。1泊のバス旅行。
 札幌出身のS君はスケートが上手だった。
 S君に好意を持たれていたのはわかっていた。最初はもうひとりのかわいい子に目を輝かせていたくせに。
 S君は10歳年上のOさんとも親しく、飲みに行っていた。

 あの頃は毎年社員旅行があった。
 熱海のホテルニューアカオや軽井沢の社の宿泊施設。
 前途になんの不安もない時代。給料は毎年上がる。楽しいことがたくさん、欲しいものもたくさん……
 
 ディスコにも行った。赤坂のムゲン。夢中にはならなかったけど。
 帰りはS君が送ってくれるようになっていた。私を送れば、寮まで帰るのに更に、1時間半かかるのに。
 断ってもS君は送ってくれた。進展はなかったが。Oさんには、付き合っていると思われていただろう。
 

 勤めて3年が経つ頃、母が亡くなった。
 状況は変わった。
 姉は嫁いでいたから、私は父とふたり暮らし。家事をやらなければならない。
 通勤に往復3時間もかけられなくなり、支社への異動を願い出た。

 昼休みに料理の本を見ていると、Oさんはそばに来た。結構得意らしい。

 仕事の引き継ぎで連日忙しかった。やがて人事異動が発表された。男性は全国どこへでも転勤が当たり前の会社。

 送別会。少し酒を飲み、口が軽くなった私は聞いた。
「Oさん、結婚しないんですか? 契約課のきみどりさん、ずうっと、Oさんのこと好きですよ」
 間。
「隣の課のあの人も……」
 しばしの間。
「君は、おとうさん置いて来れないだろ?」

 なに? 頓珍漢な会話……
 酔っているのか?

 酔っていたのだ。それとも聞き違い? 
 続きはなかった。


 私は異動した。
 
 離れて恋しくなった。
 声が聞きたい。でも、電話をかけられない。
 1度営業所に電話がきた。
 待っていた。
 やっときた!
 やったあ!
 期待した!
 しかし、仕事のことだった。引き継いだ仕事のこと……

 久しぶりにきみどりさんと約束した。
 目的は本社に行き、課に顔を出すこと。
 Oさんはいた。いたけど、なんか他人行儀な態度。
 他人行儀?
 
 一緒に働いていた時は?
 かなり親密だった?
 長い時間、共にいた。よく話した。わがままだった。

 会ったのはそれが最後だ。
 翌々年Oさんは転勤が決まった。隣の課の女性に泣かれたとか。

 Oさんに電話した。声が聞きたかった。
 バカだから、その通りのことを言った。冗談まじりに。


 それきり会うことはなかった。
 偶然でも会いたかった。
 時々夢を見る。
 忘れた頃にOさんの夢をみる。この歳になっても。
 なにかきっかけがあるのだろうか?
 保険とか、新宿、ジャズ、カラヤン…‥などの言葉が夢をみさせるのかも?

 
 後日談がある。
 契約課のきみどりさんに何年かぶりで会った時、
 Oさんは沖縄支社に行ってて、契約のことで照会したきみどりさんと、電話でやりあったらしい。
 Oさんに惚れていたきみどりさんが、
「あの人、嫌い」
と怒っていた。 
 結婚したのかはわからない。

 

 想像してみる。Oさんと結婚していたら、転勤転勤。鬱になる妻もいるという。

 でも、ふたりでジャズを聴いていたかも。
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