第13話
文字数 1,086文字
割り勘にしようと申し出る渋谷をきっぱりと断り、大倉はクレジットカードを提示して領収書をもらう。
店から出た二人はタクシー乗り場へと向かったが、そこで彼女は今夜だけと言って飲みに誘ってきた。渋谷としては、これ以上付き合いたくはないのだったが、すがるような瞳を無視する事は出来ないでいた。
結局近くにあった小さなバーへと入っていく。そこはインストゥルメンタルのジャズが流れ、ワイシャツに蝶ネクタイのマスターが一人。他の客は誰もいなかった。
カウンター席しかないので、取りあえず一番奥の席を選び並んで座る。渋谷がアルコールを苦手な事は大倉も知っている筈であるが、彼女は断りを入れず、勝手にビールを二杯頼んだ。
それから形ばかりの乾杯をすると、彼女はグイっと一気に飲み干し、頬がほんのりと赤くなる。渋谷はビールを一口だけ舐(な)めるように口をつけ、あんまり飲み過ぎるなよと喚起(かんき)したが、お構いなしといった感じで、今度はテキーラ・サンライズを頼んだ。
「私、男運悪いんです、いつも騙(だま)されてばかりで。渋谷さんのような人が彼氏だったらどんなに素敵なことでしょうね」
大倉は本気とも冗談とも取れる言葉を投げかけ、渋谷の男心を揺さぶってきた。何も答えずにいると渋谷の手に指を絡(から)ませ、頭を肩にもたれかけてくる。柑橘(かんきつ)系(けい)の香水が鼻と胸を揺さぶるが、酒の勢いでふざけているんだろうと考えて、しばらくそのままにしておいた。
「今夜は帰りたくないの」大倉はつぶやくように声を出した。
「飲み過ぎだよ。君も知っているように俺にはれっきとした恋人がいる。彼女を裏切るわけにはいかない」
しかし彼女の顔は真剣そのものであった。瞳を潤ませながら恍惚(こうこつ)とした表情を浮かべ、今にも泣きだしそうな程に口を歪めている。
それでも振り切るように彼女を置いてバーを出ると、店から出た途端に後ろから抱き着いてきた。胸の鼓動(こどう)が伝わってくる。
「お願い! 今夜だけでいいから私のわがままを聞いて。でないとこのまま線路に飛び込むわ」
「自棄(やけ)になってはいけない。もっと自分を大切にしろ。もし俺が君を抱いたところでそれは本当の愛情ではない」
「それでも構わない。構わないから……」
やがてすすり泣く声が聞こえてきた。渋谷は振り返ると彼女の唇を塞(ふさ)ぐ。それから二人はホテル街へと消えていった……。
その日以来、渋谷は二度と大倉とは交(まじ)わらなかった。会社で会っても普段通りの会話を交(か)わすだけで、あの夜のことは封印したかのごとく、一切触れることは無かった……。