第10話

文字数 1,561文字

 夕食は四階にある展望レストランだった。
 エレベーターに乗り、大広間に入ると、中央の奥寄りのテーブルに渋谷の名前があった。期待していた窓際の席では無かったが、それでもカラス張りの壁には露天風呂からの景色とはまた違った、息を呑むような雄大(ゆうだい)なパノラマに心を奪われる。
 テーブルの上には既に料理が並べられていた。説明に来た仲居に渋谷は瓶ビールを注文する。
 互いのコップに注ぎ合い、旅行の記念にと乾杯をしながら一口だけ飲むとアルコールが体の芯まで染み渡る。先ずは箸を持ち上げ刺身をつまむ。どうして山の中なのに刺身なのだろうと素朴(そぼく)な疑問をぶつけると、それが常識なのよと納得のいかない回答が返って来た。それは日本中どこだって同じこと。刺身を喜ばない客はいないと力説するミーナは、突然目頭を押さえた。きっとわさびが効き過ぎたのだろう。案の定ビールを流し込むと、まだ半分も減っていない渋谷を尻目に二杯目を自分で手酌(てじゃく)していた。昔から辛い物好きを豪語するミーナであるがトウガラシやタバスコなどと違い、どうやらワサビは泣き所であるようだった。どちらも同じようなものだと思われるが、彼女にしてみれば全く違うらしい。
 山菜のおひたしや冷奴を味わうと、メインは地元名産のイノシシの鉄板焼きであった。小さなコンロにセルフで焼くスタイルになっており、程なくして香ばしい匂いが立ち込めてきた。猪肉は初めてであったが、明らかに豚とは違う風味に舌鼓(したつづみ)を打つと、彼女も破顔(はがん)しながら絶賛(ぜっさん)の声を挙げた。
 二瓶空けたビールのほとんどはミーナの胃袋に収まり、顔を赤らめた彼女は何だか別人に思えた。普段の彼女はこれほどまでに飲まない。「今日は特別よ」と彼女は言うが、普段は恐らく渋谷に合わせているのだろうと思われた。

 部屋に戻ると、布団が敷(し)いてあった。
 二つ並んだそれは如何にも新婚夫婦みたいで少し気恥ずかしい。
 窓際に置かれたソファーに座るニーナは、ほのぼのとした目で夜空を眺めていた。
「見て、とてもきれいよ」
 窓の先を指さして弾んだ声を掛けてきた。
「本当だ。きっと空気が澄(す)んでいるからだね」
 満天の星空に浮かぶ黄色い月は、中秋の名月とまではいかないが、それでもほぼ完全な円形をしており、時折現れる流れ星に渋谷は願いをかけた。
 結果的にその思いは叶わなかったのだが、今の渋谷には知る由もない。

 枕を共にした二人は将来について語った。
 これまで顔を突き合わせて真面目な話をしてこなかったが、山の空気に呑まれたのか、自然と仕事の悩みとなり、やがて結婚の話となった。渋谷としてはもう少しキャリアを積んで、映像クリエーターとしての確固(かっこ)たる地位や、収入を上げてからと思っていたのだが、彼女はそうではないらしい。時折届く友人の結婚招待状を開いては、ため息を吐いていたのだとさり気なく語っていた。
 この時渋谷は迷っていた。どのタイミングでプロポーズをするのかを。
 仕事はまだ順調とは言えない。キャリアの少ない渋谷にとって、結婚はまだ早すぎると思えたが、かといってあまり彼女を待たせてはいけない。
 春先には新しい人事が決まる。それまで様子を見る事にしようとした決断が、後になって彼を追い詰めることになるのだが……。

 翌朝、ミーナに叩き起こされた渋谷は、窓の外に目が釘付けとなった。
 そこには見事な雲海が広がっていたのである。それまで写真でしか見たことのない見事な絶景に心を奪われ、しばし呆然とする。
「素敵ね。やっぱりここに来て良かった……」
 渋谷も同じ思いだった。窓と雲海の狭間(はざま)には朝日に反射した薄い虹が鮮やかに掛かり、その光景を脳裏に焼き付けようと目を凝らさずにはいられなかった……。
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