第5話 歌う月

文字数 1,960文字

 ついに、ついに手に入れた。この地位を。ようやく。思わず拳を震わせる。これで、俺は当面弟妹を飢えさせることのない暮らしを手に入れた。
 俺は心に溜めに溜めた歌を吟じた。漏れる息は色を成し、風のように景色を塗り替えた。
 昼も、そして夜も。俺の歌はその美貌以上に麗しいと評され、武帝の心をますます射止めた。武帝が吟じた儀式用の歌に曲をつけ、それは好評を博した。武帝は丁度天地の神々に奉る詩に音を付す者を求めていたそうだ。俺は武帝の思いを汲んで曲をつけて歌い、その役目を全うした。華やかな宴で武帝が起こした詩に曲をつけ、俺が琴を弾きながら歌う。ときには武帝に乞われて舞いを披露する。琴の音とともに広い堂に響き渡る俺の声にみなが聞き惚れた。

 そして宮廷で楽府(がふ)協律都尉(きょうりつとい)という役職を手に入れた。俺のために創設された役職だ。楽府というのは歌舞を管轄する部署だ。楽府には多くの官吏が働いているが、武帝は官吏の登用を郷挙里選で行うことに決めた。推挙がなければ本来官吏になれない。学のない俺を推挙する者などいない。だから俺用に役職を作って頂いた。

 もともと俺の狙いは武帝だけだった。
 そもそも金子や宝玉は貴妃におもねれば手中に収めることはできただろう。けれども所詮宦官などは使い捨てだ。今は容姿を保てていたとしてもその先は短い。一時的に莫大な金子を得ることができたとしても、それで一時的に弟妹を守ることはできたとしても、その子や孫は再び苦しい生活を送ることに成るだろう。倡、芸人の身分は低い。まともな職にはつけず、放浪し困窮し身をひさぐ未来が見えた。だからこそ俺は貴妃の庇護は求めなかった。

 だから俺は自らの美を隠して働くことを選んだ。周りの宦官は下働きの貧しい暮らしを嘆いていた。けれども俺にとって毎日の食事が供されるということ自体が以前の暮らしと比べても天と地ほども恵まれたものであったから、何ら気にはならなかった。
 だから俺はここに留まり続けることができる役職が欲しかった。もともとどのような立場でも、泥水をすすってでものし上がるつもりではあったが犬舎に配属されたのは行幸だった。思ったより早く、武帝の寵を得る機会を得た。

 だが、武帝の近くに侍るにつれ、帝の気性が見えてきた。
 武帝は勘気が強い。ちょっとしたことですぐに罪に落とされ、放逐される。今は俺がまだ美しいからここにいられる。そして俺の歌舞も気に入られている。だが俺の容色はいずれ衰え、歌舞もいずれ飽きられるだろう。その前に不興を被る可能性もある。俺のためにできた役職なんて俺がいなければ廃止される。元通り何もない。駄目だ、それでは駄目だ。そうなればやはり先は昏い。
 他の官吏は放逐されても帰れる郷里があるのだろうが、俺は根無し草に戻るだけだ。駄目だ、それだけは。家族がまた、不幸に落ちる。だから、俺はこの地位を不動のものとしなければならない。

 さらに一歩を進めよう。密かに気焰を吐く。俺の胸裏に渦巻く激情によって、この泥沼から抜け出すために。深くこの城に食い込むために。ここには武帝以外に俺を庇護する者がいない。それなら足場を固めよう。そのためににこりと優しげに笑みを振りまく。この決意を気づかせてはならない。決して。

 これまでの経験で培った処世術により、腰は低く、敵を作らぬよう立ち回った。やはりこの後宮で最終的に力を握るのは帝と皇后だけだ。権謀術数が渦巻いているようだが構造は至極単純で、帝の子種と褥を争っている。
 そうするとやはり貴妃はだめだ。全て敵だ。武帝の寵を受けている俺は今最も嫌われている。この間も妙な毒を仕込まれた。右耳がよく聞こえなくなった。貴妃は誰も信用ができない。

 結局のところ、ここで恒久的に力を得るには帝の子を産むしか無い。それは俺にはできない。できるのは妹だけだ。妹。もう随分会っていないな。ちゃんと暮らしていけているだろうか。何もなければまた余裕はあるはずだが。
 妹。後宮の貴妃は全て帝の奴隷であるが、今もどうせ同じ様な暮らしだ。帝であれば願うべくもないだろう。どこの馬の骨かわからぬ者に身を売るよりはよほど。俺の手が足りない時に妹が最も高く売れる場所。それはここだ。ここしかない。
 帝に美しい妹を推挙する。どんなに卑賤の身であっても妹が帝の子を産むことができれば李家は帝の外戚となる。(えい)皇后ももとは召使いであったが男子を生んだことで今は皇后となっている。そうなればもう誰にもおもねる必要はない。

 妹を帝に推挙するにはどうすればよいだろうか。貴妃はだめだ。ただでさえ俺を憎く思っているのに寵愛を争う妹を推挙するはずがない。それならばやはり平陽公主(へいようこうしゅ)だ。武帝の寵を争わない武帝の姉。
 妹はきちんと歌舞の訓練は続けているだろうか。それならばあるいは。
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