第1話 後宮の月

文字数 686文字

 長安(ちょうあん)の夜は静かに星が流れている。
 李延年(り えんねん)(かん)の中心たる武帝(ぶてい)がおわす壮麗な未央宮(びおうきゅう)の最も華美たる一室の欄干に立ち、思いを馳せていた。

 高祖劉邦(りゅうほう)匈奴(きょうど)冒頓単于(ぼくとつ ぜんう)に敗れて以来の地固めの期間を終え、武帝は堂々と匈奴を打ち破った。そして延年の弟の李広利(り こうり)大宛(だいえん:中央アジア)を漢の版図に収め、南越(南越:ベトナム)を滅ぼし、また東においては衛氏朝鮮(えいしちょうせん)を下し、海まで至った。

 漢の天下はあの満月のように今や最盛期を迎えようとしている。
 延年の眼下を揺蕩う渭水(いすい)が滑らかに月の光を打ち返す。国号の(かん)は天の川のことだ。だから長安の南は南斗六星、北は北斗七星の形を模して町並みが広がっている。この宙をそのまま写したかのように。全天を手中に収めたがごとく。

 李家も今、栄華を極めている。かつての草原での暮らしを遥か遠くに追いやって。
 延年は眼下の街並みを超えてさらにその先の山の向こうにある北東に思いを馳せていた。延年の一族が貧しく暮らしていた北国、中山国(ちゅうざんこく)のあった方向。
 かつて唾棄していた懐かしい川や草原の風を思い、翻って自らが身にまとう綺羅びやかな衣とかつてより丸みを帯びた体を見下ろす。
 俺は俺の願いを叶えるために、この二度と外に出ることの叶わぬ後宮に自らの身を置いた。妹は帝の夫人となり子をなした。弟は将軍となった。手の内には金銀の財宝が手に溢れている。どこで湧いたかわからぬ縁戚が延年との面談を求めて訪れるようにもなった。

 けれどもかつて草原で見たこの満月と今見上げる満月は同じもののようだ。いろいろなものを犠牲にして、俺は呪いを打ち破り、異なる世界に来れたのだろうか。ふと、そう思って守らねばならぬものを手指に数えた。
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