第4話 ウェルカム・トゥ・ベネズエラ

文字数 4,302文字

 ベネズエラ。南米の北部にある国だが経済の低迷によって非常に治安が悪化している事でも有名な国であった。殺人の発生率は増加の一途を辿っており、現在ではホンジュラスに次いで世界第二位の殺人発生率と言われている程だ。

 また殺人だけでなく営利誘拐の増加も社会問題となっている。本来犯罪を抑止するべき警察官や国家警備隊員が腐敗しきっており、頼れる者がいない事が治安の悪化に拍車を掛けている。犯罪を見て見ぬ振りをするだけでも問題だが、最悪なのは彼等警察官自身が率先して犯罪を犯すケースがあるという事だ。

 更に現在のベネズエラは現職大統領と暫定大統領の二つの派閥が対立している極めて政情不安の強い状況で、密林地帯には反政府ゲリラが多数潜んでいるとも言われ、完全な無法地帯と言っても過言ではない。


 ティナは現在、そんな退廃の国であるベネズエラの首都カラカスの地を踏んでいた。

「……ふぅ。ようやく着いたわね。全く……首都というか一番大きな都市に空港がないなんて先進国じゃ考えられないわね」

 路線バスから降り立ったティナは、南米の熱い日差しに目を細めながらボヤいた。シモン・ボリバル国際空港で降り立った後は、路線バスで延々数時間揺られながらようやくカラカスにたどり着いたのだ。

「まあ国や地域ごとに条件は異なっているんですから仕方ありませんよ」

 ティナに続いてバスから降りたライアンが宥めるように声を掛けてくる。勿論ティナもそれは分かっている。分かった上で愚痴を言っているだけだ。

 カラカスの玄関口とも言えるロス・フローレス地区のバスターミナル。街は一見普通の大都市に見える。日中という事もありターミナルにも大勢の人が並び、他のバスに乗ったりタクシーを利用したりしている。当たり前だが日中、表の部分は平和だ。だが一度陽の光が届かない裏路地などに入ればどうなるか分かったものではない。

「とにかくこの国は治安が悪い事で有名ですからね。絶対お一人であちこちフラフラと歩いていったりしないで下さいよ?」

「解ってるわよ。何よ、子供扱いして」

 これではどちらが年長者か解らない。ティナが上目遣いに睨むとライアンは肩を竦める。

「学者なんていうのは上に行けば行くほど、逆に世間には疎くなるものでしょう。いいから僕から離れないようにお願いします。さあ、早くここから出ましょう」

「あ、ちょっと!?」

 ティナの腕を掴んで強引に歩き出したライアンは、そのまま人混みを突っ切って隣接している大きな公園に出る。ターミナルに比べたら大分スッキリしている。休憩できるようなベンチもいくつか空いていた。ライアンがその内の一つを指差す。

「とりあえずあそこで一旦休憩してから予定を立てましょうか」

 ずっと移動のしっぱなしで疲れていたティナは、特に反対する理由もないので彼の勧めに従ってベンチに座る。すると隣に座ったライアンがすぐに、ザックからボトル入りのジュースを差し出してくれる。

「どうぞ。余り冷えてはいませんが」

「あ、ありがとう。こんな物いつの間に買ってたの?」

「空港で予め買っておいたんですよ。軽くつまめる物もありますから小腹が空いたら言って下さいね」

 随分旅慣れている。そう言えば趣味はパック旅行だと言っていたような。



「それで……カラカスまで来ましたけど、これからどうするんですか?」

「ええと、そうね……。とりあえず父の手紙にあったこのイサークって人を探しましょうか」

 ライアンに問われてティナは肌身離さず持っていた父からの手紙を広げる。


 ――カラカスでイサーク・デュランという男を探せ。普段は『酔いどれのアナコンダ』という店にいるはずだ。お前の力になってくれる。


 手紙にはこう書かれていた。ライアンは肩をすくめる。

「そうですね。他に宛があるわけでもありませんしね。じゃあまずはその『酔いどれのアナコンダ』でしたっけ? その酒場を探すとしましょうか」

 少し休憩してからベンチを立ち上がった二人は、とりあえず捜索の基本である聞き込みから始めた。公園にいる人や表通りを行き交う人々に『酔いどれのアナコンダ』の場所を知っているか尋ねていく。しかし大半の人は場所どころかその酒場の存在さえ知らなかった。

「駄目ね……。そんなに小さい酒場なのかしら?」

「まあ一口にカラカスといっても広いですからね。こことは離れた地区にあるのかも知れませんね」

 どこか場末の酒場という事になるのか。それだと探すのが一気に困難になる。そもそも自分達の移動手段を考えると……

「……あ!」

「どうしたんですか、先生?」

 急に声を上げたティナを訝しむライアン。ティナは彼の顔を見た。

「そう、移動手段だわ! タクシーの運転手なら仕事柄知ってるかも! タクシーを拾って、知っていればそのままそこまで行ってもらうのが一番早いし確実よ!」

「え!?」

 名案を思いついたとばかりに立ち上がって、ターミナルに併設されているタクシー乗り場まで走り出すティナを、ライアンが慌てて追いかける。


*****


『酔いどれのアナコンダだって? ああ……知ってるよ。知ってるけど、あんな所に何の用だい? あんた達みたいな外国人の観光客が好んで行くような場所じゃないよ、あそこは』

 ティナの質問にスペイン語で返す運転手。運良く一台目のタクシーで当たりを引いた。この口ぶりからして知っているというのは嘘ではなさそうだ。

『私達は観光客じゃないわ。別に何の用だっていいでしょ? 知ってるならそこまで運んで頂戴』

 ティナもスペイン語で返しつつそのまま後部座席に乗り込んだ。この国は現在物価が極めて安いので、どこであろうと市内であれば交通費は問題ないはずだ。ライアンがすぐには乗り込まずに身を屈める。

「先生、事を急ぎすぎです。今日はどこか表通りで泊まれる所を探して、もう少しじっくりと探したほうが安全ですよ」

「こうしている間にも父が苦しんでいるかも知れないのよ!? 悠長に泊まってる暇なんてないわ! 私は一人でも行くわ!」

「先生……」
 嘆息するライアン。彼は当事者ではないので悠長にしていられるのだ。運転手が振り向いた。

『トラブルかい? 行くのか? 行かないのかい?』
『行くわ』

 ティナが即答すると、ライアンはかぶりを振ってからティナの隣に乗り込んできた。

「全く……一度言い出したら絶対引きやしない。勿論僕も行きますよ。先生を一人で行かせたら危なっかしくて仕方ないじゃないですか」

「ライアン……ありがとう」

 ティナが済まなさからお礼を言うとライアンは肩をすくめて笑った。

『……彼氏も一緒かい? ま、いいがね。それじゃ出発するよ』

 ライアンが乗り込んできた時、運転手が一瞬目を細めたがティナはそれに気付く事はなかった。ライアンが後部座席のドアを閉めるとタクシーはゆるゆると動き出した。


*****


 二十分程もタクシーに揺られていると、やがて車はビルやハイウェイが立ち並ぶ明るい表通りから、舗装状態が悪く道幅の狭い、暗い裏通りへと入り込んでいく。

 本当にこの道で合ってるのか不安になったティナだが、土地勘は全く無い上に、最初の運転手の口ぶりからかなり場末の酒場である可能性が高いので、何も言わずに大人しく車に揺られていた。何も言わないのはライアンも同様だが、車が徐々に人気のない裏路地へ進んでいくに連れて彼の顔は険しくなっていく。

 そしてタクシーは完全に表通りから離れた、粗末な民家が密集している区域にある寂れた公園のような場所に停まった。どう見ても周囲にバーのような建物はない。


『ちょっと、ここは何なの? 酒場はどこ?』

 ティナがスペイン語で問いかけると、運転手はゆっくり振り向いた。その顔は下卑た悪意に歪んでいた。

『へへへ……アメリカ人の若い白人女、しかもこれだけ上玉なら高く売れそうだな。男は邪魔だが、まあ使い道はあるだろ』

「……っ!?」
 ティナは目を見開いた。ライアンが大きく舌打ちする。

『お前……最初からそれが目的か!』

「ラ、ライアン、大変! すぐに逃げないと……!」

 パニックに陥ったティナは慌ててライアンの腕を取って車のドアを開けようとする。しかしその時周りの民家の陰に隠れていたらしい何人もの男達がゾロゾロと公園に入ってきて、タクシーを取り囲むように包囲を狭めはじめた。 

 風体や人相からしても善人には見えない。ナイフをちらつかせている者もいた。この運転手の仲間だ。ティナはそれを確信した。彼女の顔が一気に青ざめる。

 ベネズエラは営利目的の誘拐が世界一多い国だ。頭ではそれを解っていながら実感が足りていなかった。まさか自分が当事者になるとは思ってもみなかったのだ。

 運転手や外の男達は随分手慣れている様子だ。恐らく今までにも同様の手口で誘拐を行ってきたのだろう。このタクシーの運転手は最初から外国人の誘拐目的でターミナルに待ち構えていたのだ。そしてティナは自分からみすみす罠に飛び込んでしまった。


(う、嘘でしょ……! いきなり、こんな……!)
「ラ、ライアン、どうしよう!? どうしたらいいの!?」

 父を探す為の旅がいきなりこんな所で頓挫してしまうのか。ティナは自分の身に降り掛かっている事態を信じたくなくて、思わず教え子であるライアンに縋っていた。

「先生、落ち着いて! 僕に任せて下さい」
「ライアン……?」

 ティナはそこでライアンが妙に落ち着いている事に気づいた。いや、厳しい顔はしているのだが、ティナのようにパニックで取り乱したりはしていない。ティナがそれを訝しむ間もあればこそ……

 ――パァンッ!!

「な…………」

 唐突に響き渡った……銃声にティナは身を竦ませながらも、信じられないような目でライアンを見上げた。彼の手には、懐から取り出したらしいピストルが握られていた。今の銃声と車の屋根に穿たれた銃痕からして、間違いなく本物の銃だ。

『……っ!?』
 今度は運転手が驚愕する番だった。いや、彼だけではない。車を包囲していた連中も、突然車内から響いた銃声に身構えたり距離を取ったりしていた。

『お、お前……』
『車を出せ! 今すぐだ! 本当に撃つぞ!』

 運転手に銃口を向けてライアンが怒鳴った。運転席から降りて逃げる機会を逸した運転手が慌てる。

『ま、待て、落ち着け。解った、出す。出すからそれを下ろせ!』

『車を出すのが先だ! さっさとしろっ!』

 強い姿勢で命令するライアンの姿に、刺激しない方が得策だと悟った運転手が急いで車を発進させる。外の男達が怒号を上げながら追い縋ってくるのを振り切って、タクシーは再び表通りへと抜け出していった。
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