12 初恋アゲハ

文字数 1,932文字

 初恋というものは、甘酸っぱいイメージとはうらはらに、殺伐とした結末を迎えることが大半ではなかろうか。一方的に思いを募らせた末にふられるか、つき合ったはいいけれど、お互いの未熟さや勘違いでなし崩しに空中分解してしまうか、どのみちハッピーエンドに至る門は狭い。だが、これらの失敗談にはまだ救いがある。今後の人生の糧になり、やがて笑い話のネタにもなろうから。初恋というものの本質的な残酷さは別にある。むしろ、恋に行動が伴わなかった場合、恋が胸に秘められたまま、自然に萎れて消えていった場合に姿を現すものだ。こうした幼い情熱の残骸は、独特の香りを発する。ロッカーの隅で忘れられたままの上履きや、水槽に放置されたザリガニの匂いだ。初恋アゲハはこれに惹きつけられてやって来る。
 筆者が中学二年の時だった。服を買いに街に出たとき、青紫色のアゲハ蝶が一匹、車の行き交う道路を横切って飛ぶのが見えた。ひらひらと舞っている蝶を、何となく目で追っていると、反対側の歩道で、五人の女の子たちが大声で喋っているのに気がついた。二人の顔には見覚えがあった。小学生時代の同級生で、今は隣の中学校に通っている子たちだ。大きな蝶は、私に背を向け、ガードレールの上に腰掛けている少女の頭にとまった。白のブラウスで、小さなポシェットを肩にかけ、髪を肩まで垂らしている。と、その子が振り向いた。私は驚いた。なんと初恋の相手ではないか。私には気づいていない。頭のてっぺんに蝶がとまっているのにも気がついていなかった。彼女はすぐに向き直って仲間たちとの会話を続けた。気まぐれに振り向いただけのようだ。だがその一瞬で、私の心に三年分の幻滅が蘇ってきた。
 私は自問した。(なんであんな子を好きになったのだろう)恋に落ちたのは小学三年生の時だ。彼女はクラスの人気者で、大きな黒目をくりくりと動かし、いつもそこらを駆け回っているような女の子だった。一方、自分といえば、何もかもが冴えないもやしっ子だった。私はビーズ玉が弾けるような彼女の笑い声を、教室の隅で人知れず愛でることだけで満足していた。だが子供の勢力地図は目まぐるしく変わるものだ。学年が変わると、別のセンスを持った面白い奴が台頭してきた。そう、子供の世界では、面白いかどうかが、人気の死命を決するのだ。私の意中の子の人気は次第に落ちてゆき、しまいには、その他大勢の中にすっかり埋ずもれてしまった。それと一緒に、私を虜にしていた魔法も薄れていった。子供が抱く好意というものは、ずいぶんいい加減なものだ。お互いの心と体が日に日に変わってゆくせいもあるだろう。六年生にあがる頃、彼女のふっくらとした頬に角張った輪郭が生まれ始め、瞳に暗い影がきざし始めた。言葉が投げやりになった。最後に恋を終わらせる決定的な一撃があった。私は遠足のバスで、酔って吐いてしまうという失態を演じた。すると彼女は私に「ゲロ」というあだ名をつけ、私を見るにつけ「ゲロ、エンガチョ!」と叫んで逃げたのだ。おかげで中学に上がるまで、ずっと私の名前はゲロだった。
 そこまで思い出して、私はうんざりした気分でその場を通り過ぎようとした。すると、道路の反対側で声があがった。「あ、ゲロだ!」叫んだのは顔は覚えているけど名前が思い出せない子だった。するとかつての心の恋人が振り向いた。「あー、ゲロじゃん! くっせえ!」素っ頓狂な叫びが通りに響いた。この年頃の女の子は(男の子もだが)、三人寄れば無敵の野蛮人になる。運悪く、その時たまたま車の流れが途切れていた。五人の少女たちはキャハハハと馬鹿笑いをしながら風のように道路を横切ってやって来ると、たちまち私を取り囲んだ。紺ジャージのショートカットが腕組みして言った。「ゲロ元気ィ?」前から嫌な奴だと思ってた子だ。後ろで知らない顔の女の子二人が「ナニナニこいつー?」などと言いながら顔を突き出し、動物園の猿でも見るような遠慮会釈のない目で私を見た。今になって思えばそれなりに楽しい状況のはずなのだが、いかんせんその時の私は思春期真っ盛りのいじけ虫だった。私は耳が真っ赤に火照るのを感じながら、頭を垂れて「知らないよ」と答えた。すると肩がドンと突かれた。顔をあげると初恋の子が目の前にいた。「相変わらずダッせえなあ、さすがゲロを名乗る男だけのことはあるぜ」後ろの女どもがどっと笑う。しばらく会わないうちに、柄の悪さがパワーアップしていた。彼女の黒い瞳が純度百パーセントの悪意でキラキラ輝き、私を射すくめた。ピンで分けた頭の上には、まだ大きなアゲハがとまっていた。すると彼女がせせら笑った。「おめえ、なに頭の上に蝶なんてのっけてるんだよ。バッカじゃねえの」
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