13 仮定法過去ウサギ(ロングバージョン)

文字数 3,438文字

「いや、どこで、と言われましても…」
 依頼人が済まなそうに笑った。依頼人といっても、依頼を受けるかどうかはまだ決めていない。私はわざと黙ったまま客を見た。彼は曖昧な笑みを浮かべ、触覚の先についた赤い球をいじっている。頭の中で警報が鳴っていた。探偵稼業を長くやっているとわかる。ふんぞり返って話を持ちかけてくるような妖精の方が、むしろ安心なのだ。自分が客なのに卑屈な態度を取る相手の方が要注意。後々話がこじれるのは、大抵このタイプだ。しかも依頼の内容がペットの捜索ときている。骨折り損になる可能性は大だった。「逃した場所がわからないとなれば、何とも動きようがありませんなあ」あえて気のない返事をして、窓に目をやる。すぐ外を、野良ドラゴンが一匹、鯉のぼりみたいに体を揺らしながら飛びすぎてゆく。ここは雑居ビルの四階なので、龍たちの通い道とちょうど同じ高さなのだ。と、銀色の鱗だらけの体がくねっと丸まり、綺麗な輪っかを作った。かと思うと、尻尾がビュンとしなって、3D映画みたいに迫ってきた。棘だらけの先っぽがはめ殺しの窓にぶつかり、横一文字に走る。薄桃色の液体がジャーと吹き出して、窓の外の世界をファンシーな色に変えた。ショッキング・ピンクの空の下、トイレを済ませたドラゴンが悠々と去ってゆく。家賃が格安なのはこのせいだ。私はため息をついて視線を室内に戻した。幸い客は自分の心配事で頭が一杯で、窓の外のスペクタクルには気がついていない。私は自分の触覚の先にぶら下がっている青い球をピンと指で弾いた。額から伸びている二本の触覚は、特に超常的な感覚をもたらすわけではない。先端で揺れているゴムボールみたいな球もそう。長い進化の過程で役割を失い、今や視界の上の隅でゆらゆら揺れているだけの代物だ。だが会話のアクセントにはなる。私は頭を左右に振りながら続けた。「迷い猫の類いならともかく、相手が仮定法過去ウサギではねえ」

 仮定法過去ウサギは、その名の通り、「もしも…だったら」を叶えるウサギだ。世界線をピョンと跳びこえて、もしもの世界に飼い主を連れてゆく。「もしも」の程度に応じて、並行世界に滞在できる時間が変わる。ちょっとしたミスをなかったことにしたいレベルの話なら、あっちの世界に数日ほど入り浸ることができる。一方、自分がテイラー・スイフトだったら、などという大それた望みの場合は、トリップできる時間は10分やそこらだ。無理な世界線の張力に、ウサギの脚力が耐えきれなくなるのだ。すると白ウサギはピョンと跳ねて元の世界に戻ってしまう。飼い主も一緒にだ。とにかく、時間切れは必ずやってくる。こうして不幸な仮定法過去ウサギ中毒者たちは、束の間の理想世界と現実との間を落ち着きなく行き来するようになるのだ。

「そう言わずに、どうか力を貸していただけませんか」依頼人が深々と頭を下げた。丸まった背中越しに半透明の羽根が見える。寝癖で折れ曲がっていた。これまた無用な器官であって、我々妖精は別に空を飛べるわけではない。はるかな昔に祖先が森を離れて平地に住むようになって以来、体がどんどん大きく重くなって、ペナペナの羽根はまるで用をなさなくなった。子供のうちなら可愛いアクセサリーだが、自分や目の前の男みたいな大の大人となると、よほどの洒落者でなければ単に邪魔なだけだ。にしても、身だしなみがなっていない。この手の男は金にもだらしがないものと相場が決まっている。私は依頼を断ろうと立ち上がった。「えーっと、申し訳ないですが…」すると、客の足元で、何やら白い物がもぞもぞ動いているのが見えた。ウサギではないか。「あ!」私が指差すと、依頼人の形相が変わった。「こいつ!」ソファからカエルのように飛びあがって、床にガバッと四つん這いになったかと思うと、小さなウサギはもう、彼の手の中にあった。私が料金を請求したものかどうか迷っていると、依頼人が立ち上がって私を見た。「こいつのおかげで、私は地獄を見ているんです」人の迷惑をかえりみず、勝手に自分語りを始めるタイプだ。私が一番嫌いな類いの妖精だった。でも私は、立ち尽くしたままの彼に、手振りで座るように促した。「お話を聞きましょう」決めた。相談料こみで料金はきっちり頂く。正式な依頼人に昇格した男は、深々とソファに身を沈めると、胸元のウサギに目をやった。小動物は盛んに鼻をヒクヒクさせながら、あたりを見回している。何の変哲もないウサギのようだが、こうして次元の裂け目を常に探しまわっているのだ。「たった一言だったのです」男が語り始めた。この時点でもうお腹いっぱいだ。思わせぶりで、芝居がかっていて、自分に酔っている。おお嫌だ。でもここは商売商売。コミコミで2万妖精円は頂く。「たった一言、耳の渦巻きが右と左でズレていると言っただけで、彼女は出ていってしまった…。」依頼人はがっくりと頭を落とした。(そりゃそうなるわな)と私は思った。耳の渦巻きは妖精の命だ。お前が悪い。そんな気持ちはおくびにも出さず、私は「それはお気の毒でしたな」と言った。男はウサギを抱きしめながら続ける。「それからというもの、私は、その一言がなかった世界に入り浸るようになりました。彼女と幸せに過ごしている世界です」客がさめざめと泣き出す。「かれこれ三年も、こんな生活を続けているのです。向こうの世界で二日を過ごし、時間切れでこっちの世界に戻ってくる。すると寒々とした現実が私を打ちのめします。こいつに次元跳躍力がチャージされるのを待っている一週間が地獄なのです。あの子がいない世界なんて!」「うーん」と私。「こっちの世界で、その方とよりを戻す努力をされた方が前向きなのでは?」「しましたとも!」客は涙目でキッと私を睨みつけた。「毎日ごめんなさいの手紙を添えて、百本のマンドラゴラの花を彼女のアパートに送りましたとも。その挙げ句にストーカー扱いをされて、彼女は別の相手と結婚してしまいました」そう言って、男はぐしゃぐしゃと頭を掻きむしった。「何という理不尽だ!」そろそろ潮時だと思って私は言った。「いずれにせよ、ウサギが見つかってよかったですね」「よくはない!」やにわに男が叫んだ。「これでは地獄から別の地獄に逆戻りだ!」私はうんざりした。結局この男は、自分自身が何を望んでいるかということすらわかっていないのだ。典型的な負け犬だった。「ま、そこら辺は私には関わりのないことですな」私は立ち上がり、デスクに向かいかけた。さっさと請求書を書かないと。すると客が言った。「いいえ、私は今を限りに、こんな人生とおさらばするのです」振り向くと、狂おしい目と正面衝突した。「探偵さん、あなたにぜひ見届けていただきたい!」やばい。自殺の巻き添えなんてごめんだ。「ちょっとお客さん」私が慌ててなだめにかかろうとすると、男がガバッと立ち上がった。「そう、今しかない!」彼は血走った目で胸に抱えた小動物を睨みつけた。事務所に裏返った叫び声が響く。「もしも! お前が! いなかったら!」一言一言に恨みがこもっていた。すると二つの長い耳がぴょこんと立った。ウサギは男の手からもぞもぞと這い出してきて、腕をよじ登り、肩の上に乗った。男がぎゅっと目をつぶって言った。「さあ行け!」するとウサギが私に向かってピョンと跳んできて

「えーっと」と私。「申し訳ないですが、うちはそういうことやっていないんですよ」客がガックリと肩を落とす。「別れた彼女の置き土産なのです。あれがいなかったら、私はもう生きてはいけない」人の迷惑をかえりみず、勝手に自分語りを始めるタイプだ。私が一番嫌いな類いの客だった。寝癖のついた頭の上で、右手がひらひらと踊っている。何かのまじないだろうか。もう片方の手にはB5の紙の束がある。迷い猫の写真と連絡先がプリントされたものだ。私は早めに引き取ってもらおうと思って言った。「それは一枚頂いておきますよ。どこかに貼っておきましょう」客はトボトボと帰っていった。私はもらった紙を丸めて屑籠に捨てた。ため息が出る。今日の客もスカだ。いくら格安の事故物件でも、そろそろ家賃の払いが厳しくなっていた。「あれ?」と私。気がつくと、右手が額の前に伸びて、何かを探していた。自分でも意味不明な動作だ。疲れているのかな。それよりも明日の飯のタネだ。窓の外に目をやる。曇り空の下、ツバメが一羽、斜めに横切って飛びすぎた。
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