08 影ふみトカゲ

文字数 745文字



 影ふみトカゲは体長10センチに満たない小さなトカゲだ。色は真っ黒で、陽の光の下では皮膚を覆う油膜が七色に光って見える。だが、その様子は滅多に見られない。名前の通り、影を好むトカゲだからだ。彼らが好むのは人間の影だ。それも、失意や悲しみに深く打ちひしがれている人間の影を好むのである。
 影ふみトカゲはよく晴れた日の物陰に潜み、うなだれて歩いている人間を見つけるや、足元から伸びる影に素早く走りこむ。悲しみにくれる人間は、悲しみにくれるのに忙しいので、自分の影に小さな影が溶けこんだことには気づかない。影ふみトカゲは巧みにチョロチョロと走り回り、歩みを進める影の外に一歩も出ないまま、宿主となった人間の家までついてゆく。そしてそこに住みついてしまうのだ。
 それからというもの、影ふみトカゲは、宿主が家を出るたびに、こっそり後をついてゆくのだ。踏みつぶされる危険をものともせず、バスや電車にも乗りこんでしまう。失意の人が、雑踏の中をうつむき加減に歩く時は、三歩後ろにぴったり張りついて離れず、公園のベンチで頭を抱えている時は、足元の暗がりにうずくまり、何時間でもじっとしている。そして悲しみにくれる人は、決して小さな伴侶の存在に気づくことがないのだ。時に、影ふみトカゲは、そのまま寿命を迎えることがある。自分のことを知らない主人の悲しみが深く、癒えることがない場合がそれだ。黒いトカゲは、庭の片隅や縁の下で力つき、静かに目を閉じる。
 だが、大抵の悲しみは時が解決してくれるものだ。すると影ふみトカゲは去ってゆく。稀に、悲しみから癒えつつある人が、自分の影から走り去る小さな生き物を目にとめることがある。虹色の光が、地面をサッと駆け抜けるのを見た人間には、その先に幸せが待っていると言われている。
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