【拾玖】星に願いを
文字数 2,297文字
夕陽が空をあかね色に染め上げていた。
五村市郊外にある寂れたアパート――外壁は土埃で汚れ、二階へ続く一三階段は、表面の塗装が剥がれ錆びついていた。階段を上がったすぐ目の前にある二〇一号室に瑠奈と浅見は暮らしている。もう数分もすれば、瑠奈は仕事のために家を出るはずだ。
近隣の監視カメラは、詩織が近隣の浮遊霊に頼んで霊障を発生させたため、不能になっている。五村市内の霊で、詩織に協力的でない霊など数えるほどしかいない。浮遊霊も所詮は人の成れの果て、自分に優しくしてくれる人間にはこころを開くことは多い。
黒づくめの詩織の手を握る翔太が、詩織のことを不安そうに見上げている。詩織はそんな翔太に、大丈夫だよと微笑みかけた。
本当なら翔太をつれてきたくはなかった。物心ついたばかりの少年の目の前で母親を殺す――そんな非道な行為、普通の神経の持ち主ならまずできないだろう。
翔太を同行させるよういったのは、祐太朗だった。理由を問うと、祐太朗は、
――殺す前に一度くらい会わせてやったらどうだ? いくら相手がクズでも、翔太にとっては無二の母親なんだから。
詩織はその提案に賛同しなかった。先日の調査でわかったこと――瑠奈は浅見と一緒に暮らせればそれでよく、その為には翔太は邪魔な存在でしかなかったということだ。そんな自己中心的な理由で幼い命を平気で弄べる女と、翔太を会わせたくなどない。
それに今では、自分のほうが母親にふさわしいはず。そう祐太朗に訴え掛けるも、
――なら、お前はうちのジジイとババアじゃなくて、他の誰かを親だと思うことはできるか? おれには無理だ。いくら憎んでいようと所詮、親は親だ。おれだって、所詮はあのクズふたりの影を追って生きているに過ぎない。残念だが、それが現実だ。ガキは親を選べない。一緒に過ごした時間の問題でもない。生まれたら最後、ガキは自分を生んだ親の尻尾を追い続ける宿命にあるんだよ。例えその親が人殺しやアウトローであっても。
詩織は納得できなかった。いつもはあんなに両親のことを罵倒するクセに、そういう時だけ親呼ばわりするのはやめて欲しいと祐太朗を詰り、詩織は翔太をつれて部屋を出た。
翔太の腕を引っ張るようにして歩く詩織に、翔太も生きていた時の痛覚を思い出したかのように、痛い!と叫ぶ。翔太の悲鳴を耳にして、詩織は立ち止まり翔太に詫びた。
あたしがショウちゃんを守ってあげるからね――
そして今、詩織は翔太の産みの親を殺そうとしている。
詩織は大きく息を吐いた。自分に縋りつく翔太の頭を撫でてやると、翔太は嬉しそうに顔をクシャクシャにした。一週間程度とはいえ、よく詩織に懐いたもので、傍から見れば、それこそ親子のようだ。が、その関係も永遠ではない。
詩織は寂しげに翔太に微笑みかけた。
不意にアパートのほうを見ると、二〇一号室のドアが開いた。瑠奈は真っ暗な夜闇ですら明るく照らしてしまいそうなほど華美で煌びやかな服装をしていた。下町のホステスとはいえ、稼ぎはそれなりにあるのだろう。が、恐喝と強奪以外に収入の口がない無職のバンドマンを食わせていくためには、自分の仕事用の衣装を買い揃える以外、余計な出費はできないに違いない。現に、その煌びやかさの中には、どこか安っぽさも介在していた。
詩織は翔太の手を引いて物陰に隠れた。
可能な限り呼吸を落ち着けようとする詩織――全身が震えている。
詩織にとって人殺しなど朝飯前だ。まして、これまでに何人ものアウトローを死という闇の中に葬ってきたのだ。人を殺すのに私情を挟むべきでないのはわかっていた。
確かに、大原美沙殺害の黒幕を殺した時も私怨がなかったかといわれると、それはウソになるが、あの時は憎悪が先行しすぎていたためか、躊躇することはなかった。
が、今回は違う。自分が溺愛している少年――まるで自分の子供のような少年の実の母親が相手。となると、頭の中で翔太の笑顔がチラつき、途端に手が止まってしまう。
瑠奈が一三階段を降りてくる。詩織にはそれがスローに見え、瑠奈の履く真っ赤なパンプスが錆びた鉄の階段を叩く音が、エコーが掛かったように詩織の内耳に響く。
呼吸が荒くなる。
真冬なのに身体は妙に火照って、背中は汗で濡れていた。
吐き気が止まらない。
初めての経験。
階段を降りた瑠奈が、アパートの敷地内から出た。
心臓の鼓動が早くなる。
真っ白な吐息を噛み殺す。
身体の震えが止まらない。
歯をグッと噛み締めた。
瑠奈の姿が大きくなっていく。
恐怖、緊張。が、ここで断念するわけにはいかない。
詩織は腰元に挿した得物に手を掛けた――
――ママッ!
その声が緊迫した空気を引き裂いた。
詩織は翔太のほうに振り返った。
いない――辺りを見回す。
翔太が瑠奈のほうへと走っていく。
ショウちゃん!
翔太に呼び掛ける詩織――しかし翔太は振り返らない。
瑠奈も詩織には気づかない。
翔太は瑠奈のもとに辿り着くと、瑠奈の手を握り、去っていった。
詩織は何度も翔太に呼び掛けようとした。
が、無理だった。
翔太の幸せそうな横顔。
唇を噛み締め、その場に佇む詩織。
気づけば陽は落ち、世界は闇に包まれていた。
ふた筋の流れ星が、天と地の両方で流れ落ちた。
五村市郊外にある寂れたアパート――外壁は土埃で汚れ、二階へ続く一三階段は、表面の塗装が剥がれ錆びついていた。階段を上がったすぐ目の前にある二〇一号室に瑠奈と浅見は暮らしている。もう数分もすれば、瑠奈は仕事のために家を出るはずだ。
近隣の監視カメラは、詩織が近隣の浮遊霊に頼んで霊障を発生させたため、不能になっている。五村市内の霊で、詩織に協力的でない霊など数えるほどしかいない。浮遊霊も所詮は人の成れの果て、自分に優しくしてくれる人間にはこころを開くことは多い。
黒づくめの詩織の手を握る翔太が、詩織のことを不安そうに見上げている。詩織はそんな翔太に、大丈夫だよと微笑みかけた。
本当なら翔太をつれてきたくはなかった。物心ついたばかりの少年の目の前で母親を殺す――そんな非道な行為、普通の神経の持ち主ならまずできないだろう。
翔太を同行させるよういったのは、祐太朗だった。理由を問うと、祐太朗は、
――殺す前に一度くらい会わせてやったらどうだ? いくら相手がクズでも、翔太にとっては無二の母親なんだから。
詩織はその提案に賛同しなかった。先日の調査でわかったこと――瑠奈は浅見と一緒に暮らせればそれでよく、その為には翔太は邪魔な存在でしかなかったということだ。そんな自己中心的な理由で幼い命を平気で弄べる女と、翔太を会わせたくなどない。
それに今では、自分のほうが母親にふさわしいはず。そう祐太朗に訴え掛けるも、
――なら、お前はうちのジジイとババアじゃなくて、他の誰かを親だと思うことはできるか? おれには無理だ。いくら憎んでいようと所詮、親は親だ。おれだって、所詮はあのクズふたりの影を追って生きているに過ぎない。残念だが、それが現実だ。ガキは親を選べない。一緒に過ごした時間の問題でもない。生まれたら最後、ガキは自分を生んだ親の尻尾を追い続ける宿命にあるんだよ。例えその親が人殺しやアウトローであっても。
詩織は納得できなかった。いつもはあんなに両親のことを罵倒するクセに、そういう時だけ親呼ばわりするのはやめて欲しいと祐太朗を詰り、詩織は翔太をつれて部屋を出た。
翔太の腕を引っ張るようにして歩く詩織に、翔太も生きていた時の痛覚を思い出したかのように、痛い!と叫ぶ。翔太の悲鳴を耳にして、詩織は立ち止まり翔太に詫びた。
あたしがショウちゃんを守ってあげるからね――
そして今、詩織は翔太の産みの親を殺そうとしている。
詩織は大きく息を吐いた。自分に縋りつく翔太の頭を撫でてやると、翔太は嬉しそうに顔をクシャクシャにした。一週間程度とはいえ、よく詩織に懐いたもので、傍から見れば、それこそ親子のようだ。が、その関係も永遠ではない。
詩織は寂しげに翔太に微笑みかけた。
不意にアパートのほうを見ると、二〇一号室のドアが開いた。瑠奈は真っ暗な夜闇ですら明るく照らしてしまいそうなほど華美で煌びやかな服装をしていた。下町のホステスとはいえ、稼ぎはそれなりにあるのだろう。が、恐喝と強奪以外に収入の口がない無職のバンドマンを食わせていくためには、自分の仕事用の衣装を買い揃える以外、余計な出費はできないに違いない。現に、その煌びやかさの中には、どこか安っぽさも介在していた。
詩織は翔太の手を引いて物陰に隠れた。
可能な限り呼吸を落ち着けようとする詩織――全身が震えている。
詩織にとって人殺しなど朝飯前だ。まして、これまでに何人ものアウトローを死という闇の中に葬ってきたのだ。人を殺すのに私情を挟むべきでないのはわかっていた。
確かに、大原美沙殺害の黒幕を殺した時も私怨がなかったかといわれると、それはウソになるが、あの時は憎悪が先行しすぎていたためか、躊躇することはなかった。
が、今回は違う。自分が溺愛している少年――まるで自分の子供のような少年の実の母親が相手。となると、頭の中で翔太の笑顔がチラつき、途端に手が止まってしまう。
瑠奈が一三階段を降りてくる。詩織にはそれがスローに見え、瑠奈の履く真っ赤なパンプスが錆びた鉄の階段を叩く音が、エコーが掛かったように詩織の内耳に響く。
呼吸が荒くなる。
真冬なのに身体は妙に火照って、背中は汗で濡れていた。
吐き気が止まらない。
初めての経験。
階段を降りた瑠奈が、アパートの敷地内から出た。
心臓の鼓動が早くなる。
真っ白な吐息を噛み殺す。
身体の震えが止まらない。
歯をグッと噛み締めた。
瑠奈の姿が大きくなっていく。
恐怖、緊張。が、ここで断念するわけにはいかない。
詩織は腰元に挿した得物に手を掛けた――
――ママッ!
その声が緊迫した空気を引き裂いた。
詩織は翔太のほうに振り返った。
いない――辺りを見回す。
翔太が瑠奈のほうへと走っていく。
ショウちゃん!
翔太に呼び掛ける詩織――しかし翔太は振り返らない。
瑠奈も詩織には気づかない。
翔太は瑠奈のもとに辿り着くと、瑠奈の手を握り、去っていった。
詩織は何度も翔太に呼び掛けようとした。
が、無理だった。
翔太の幸せそうな横顔。
唇を噛み締め、その場に佇む詩織。
気づけば陽は落ち、世界は闇に包まれていた。
ふた筋の流れ星が、天と地の両方で流れ落ちた。