第9話 思ひ出

文字数 1,347文字

翌日仕事を終えた朝美は、佳枝のお見舞いに行こうかな、と考えた。利用者との私的な付き合いは原則禁止されているが、昨日のような場面に立ち会い、また例の時計の一件のこともあって、放っておけない気がしていた。
病院の玄関で、日登美にあった。彼女も同じ思いらしく、小さなケーキの箱を持っていた。
「朝美ちゃんも来たの?」
「ええ、最近いろいろ縁があるから」
「そうねえ、私もそう思って」
二人で病室に入ろうとすると、中に佳枝以外の人がいる気配がした。ノックをしてドアを少し開けてみると、ベッドの横に黒田が腰掛けていた。
「さて、私はそろそろ…」
黒田は、立ち上がり佳枝に向かって軽くうなずくと、朝美と日登美に目であいさつをして出て行った。
「藤本さん田中さん、来てくれたの?」
「おかげんはどうですか?」
「もう大丈夫よ、ありがとう」
「黒田さんいらしてたんですね」
「そう、今朝連絡したの」
「仲よろしいんですね」
「ええ、ちょっとお話ししてもよろしいかしら」
そう言って佳枝はしばらく目を閉じ、話を始めた。朝美と日登美は目を合わせ、ベッドの脇に腰掛けた。

「黒田さんと私は小学校からの同級生でね、彼が転校してきたのは何年生の時だったか。中学校・高校といっしょで、あの方は演劇部のスターで私憧れてましたの」
そう言うと佳枝は、何かを思い出そうとする表情で天井を見上げた。その憧れていた黒田から、佳枝は告白をされたそうだ。そしてお付き合いを始めた。と言っても昔の田舎のことで、公園をぶらついたり、映画を見るくらいのつつましいお付き合いだった。二人は十分幸せだった。そして、高校を卒業する時に、転機が訪れた。
「私は、父の病院で役に立つようにと、大阪の大学の薬学部に進学しましたの。でも、あの方は役者を目指すと言って、東京に出て行ったわ。それから何年かは手紙のやり取りをしていましたけど、やがてそれも無くなったの」
それから卒業した佳枝は故郷に戻り、父の病院で薬剤師として働いた。そして結婚もすることなく、やがて父が亡くなった。少なくない遺産を引き継いだ彼女は、働くこともやめ、悠々自適の生活に入った。そしてじっと齢を取っていった。
「そしたら去年のことかしら、宇和島駅であの方と偶然再会したの。私にはすぐわかったわ」
松山まで買い物に出かけた佳枝は、グリーン車から降りてゆっくりと改札に向かった。その時、後ろから歩いてきた黒田のカバンが彼女の背中にあたった。
「失礼、と言ったあの方の声は、何十年たっても私の記憶の中の声と変わらなかった。そしてじっと見つめる私の顔を見て、あの方は驚いていたわ」
声にならない声をのどから出した黒田の手を、佳枝はそっと握った。黒田は、その手を額に当て、祈るようなしぐさをした。
「そうして、私たちはお付き合いを再開しましたの。時々お食事をしたりするだけだけれど、あのころのように情熱的ではないけれど、今はとっても幸せなの。今さら、指輪やネックレスなんてどうでもいいの」
佳枝は窓の外に目をやった。そして、小さな声でこう言った。
「ただね、あの方が若くて人気があった時、贈ってくださった時計とネックレスだけは、返していただきたいわ」
朝美と日登美は顔を見合わせ、つられたように佳枝と同じ方を見つめた。夕焼けが空を覆い始めていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み