月下氷人(一/三)

文字数 3,968文字

 ひそひそと言葉が交わされている。家主が席を外している間に、口さがない客人たちがうわさ話でもしていたのだろう。それを廊下でうっかり耳にしてしまった。
 己のことはどう言われようとかまわない。しかし、彼女のことを悪く言われるのは心が痛んだ。
 わざとらしく咳払いをすると、声は息を飲むようにぴたりと止まる。相手が取り繕う間を与えてから襖を開ければ、澄ました顔の客人に迎えられた。
 ただ、私の中に嫌な感覚だけが残る。
 そのことを悲しくは思うけれども、この心持ちが彼らにわかるはずもない。そう考えた私は何を言うこともなく、ただ表向きだけはにこやかに彼らと対峙した。
 この日の客人が持ち込んできたのもまた、いつもの話――いなくなった彼女のことだ。
 席について早々、客人からはこれからどうするつもりなのかと問い詰められる。しかし、私はどうするつもりもなかった。あるがままを受け入れて、これからの時を心穏やかに過ごすつもりだったからだ。
 しかし、そうした心情は、どうも他人には理解されないものらしい。相手を説き伏せることなど疾うに諦めていたので、このときものらりくらりと話を受け流した。
 いなくなった妻が心配ではないのか、とも責められる。しかし、この客人はつい先ほどまで、私のことを女に逃げられた哀れな男だとひそかに嘲笑っていたではないか。それを知っているからこそ、彼らの諫言も私の耳には虚ろに響いた。
 今さら彼女のことを追うつもりはない。そうでなくとも、私にはわかっていたからだ。彼女がここへ帰ってくることなどない、と。
 こちらが聞く耳を持たないとわかれば、彼らもそのうち飽きてくれることだろう。それまでは、神妙な顔をしながら耳を傾ける素振りをしていた。
 そうした心持ちでいれば、客人の言葉などもはやただの雑音でしかない。
 今はあざやかな新緑の季節。視線は自然と緑豊かな庭へと向かう。そのときは、ふいに薫り始めた五月の爽やかな風が、そこにある藤の花をやさしく揺らしていた。



 そうしたやりとりを何度か経て、ありがたい忠告をしてくれる客人たちも足が遠のいた頃には、ようやく望みどおりの穏やかな日々を過ごせるようになっていた。
 しかし、それも束の間のこと。そろそろ老年期に差しかかろうかという頃、私は突然目を患ってしまった。
 光を失った私は、そこから安寧の場所を闇の中へと移すことなる。
 家の中を歩き回ることすらおぼつかない、言葉どおり手探りの毎日。福祉の手を借りてどうにかひとりで暮らせるようになってはいたが、それはやはり不安で心許ない日々でもあった。
 ある日、茶でも飲もうと台所へ立ったときのこと。
 目が見えていたときには何てことはない動作だったのに、物の置き場所や器具の操作にいちいち戸惑って、ずいぶんともたついてしまった。そのうち茶を飲もうという気もなくして、何もせぬまま茶の間へと戻ってしまう。
 そうしてひそかに気落ちしていると、ふいに――ことりと、座卓に何かを置くような音が響いた。
 奇妙に思って手を伸ばしてみたところ、思いがけず指先にふれたのは、どうやら熱い茶が淹れられた湯のみらしい。そのことに気づくと同時に、すぐ側から誰かのささやく声がした。
「あなたのもとに、帰って参りました」
 その声は確かにそう言った。
 彼女がここへ帰って来るはずはないのに。

     *   *   *

 古い家だ――初めてそこを訪れたとき、真っ先に思ったのがそれだった。
 とはいえ、それはただ単に古いからそう思ったわけではない。古いというだけなら己の実家だってそれなりに古いが、たかだか築五十年の典型的な文化住宅とは古さの質が違う、といったところだろうか。建物のことなどくわしくはないので確かなことはわからないが――言うなれば、それはどことなく歴史の重みを感じさせるような、そうした古さだった。
 郊外にある木造平屋の一戸建て。周囲にぐるりと巡らされた透垣は屋根のついた立派な門で開かれていて、建物自体はいわゆる書院造の――でいいのだろうか――まさしく日本の伝統的な古民家といった風情だ。縁側からは、立派な藤の木がある庭をながめることもできる。
 この家に住んでいるのは、ひとりの老爺。私の仕事は、全盲である彼の生活を手助けすることだった。


 私がその人を担当することになる、少し前の話。
 前任者でもあった上司から、ある日突然こうたずねられた。
「君は、幽霊は平気な方か」
 言葉の意味が理解できず、私は相手のことをまじまじと見つめてしまった。
 そんな状況で、ひとまず口にしたのはこんな答えだ。
「幸か不幸か見たことはありませんが」
 そこまで言ってから、これをたずねてきた相手が冗談を言うような人ではなかったことを思い出す。
「……もしかして、出るんですか」
 担当が変わることについてはあらかじめ連絡があったので、私はすぐにそのことに思い至った。
 相手は何でもないことのようにこう返す。
「おそらくな。私もそういった現象に出くわしたことがある。しかし、姿を見たことはない。どうやら害はないようだから、私としてもどうこうするつもりはないのだが」
 何とも言えない答えだ。
 あるいは、そこに――関われば呪われるだの、不幸が起こるだの、といった話がついて回るというのなら、さすがの私でも、己の行く末を案じていたかもしれない。しかし、害はないと断言するからには、それはおそらく、そういったものではないのだろう。
 そうでなくとも、私はその手の話をあまり信じない方だ。正直に話してくれた上司への信頼もあったので、私はためらいながらもこう答えた。
「まあ、ひとまずやってみます」
 上司はその言葉に、ほっとしたような顔をする。
「ありがたい。こういう話をすると、辞退する者も少なくないものでね」
 それも無理からぬことだろう。たとえ害はなくとも、明らかに奇妙なことが起こるというなら、可能であれば避けたいと考えるのが普通だ。
 それでも、とにかくその現象とやらを見てみないことには平気かどうかの判断はできない。そのときの私はそう思っていた。


 そうして私が訪れることになったのが、その――古い家、だった。
 出る、などという話がまことしやかに語られるからには、そこに住んでいる家主はよほど気難しい人に違いない。と思っていたのだが、予想に反して彼は穏やかな人だった。
 何かしら起こるらしい家の方も、古くはあるがおどろおどろしくはなく、むしろ開放的で明るい方だ。ひとりで暮らすには広すぎるようにも思えるが、家主が几帳面なこともあり――たとえ視力の問題で行き届かないところがあったとしても――およそのところは清潔に保たれていた。
 何度かその家を訪れた限りでは、特に奇妙な現象に出くわすこともない。これは単なる勘違いだったか、あるいは、その現象は既に過去のものとなったのか――そう思って、油断した矢先のできごとだった。
 その日はあらかたの用事を済ませたところで空いた時間ができたこともあり、家主にお茶でも飲みませんか、と声をかけられたのが始まりだ。台所にも早いところ慣れておきたいと思っていたので、私はその準備を引き受けた。
 食器や器具の置き場所を確かめながら、急須にお茶を淹れ、ふたり分の湯のみを用意する。それらを乗せたお盆を持って茶の間に向かったところ、そこにある座卓の上には、すでに湯のみがひとつ置かれていた。
 白い絹のような湯気が、明るい緑の水面より出でて、絡み合いながら舞い上がっていく。明らかに、たった今淹れられたばかりの緑茶。
 狐につままれたような、というのは、まさしくこういう心持ちを言うのだろうか。手ずから淹れたお茶を持て余して、私はその場に立ち尽くしてしまった。
 折しも、家主は掃除の片づけを終えて茶の間に腰を下ろしたところで、彼はそこにあった湯のみに気づくと、どうもありがとう、と言って、それに手を伸ばしている。水を差すのもどうかと思って、私はすごすごと引き下がった。
 ささやかだが、無視することができないほど確かなものとしてそこにある――不可解なできごと。しかも、そうした現象はこれで終わりになるはずもなく、むしろこのできことをきっかけにして、ようやく私の前に姿を現し始めた。
 誰もいないはずの部屋で物音がしたり、足音はしても姿が見えなかったり――なんてことはよくあることで、使い終わった道具がいつの間にか片づけられていたり、家主に探して欲しいと言われたものが目立つ場所に置かれていたり――といったことが何度もくり返されるとなると、さすがに勘違いや気のせいだけでは説明できないだろう。
 しかし、何より奇妙だったのは、そういった現象に出くわしているはずの家主自身が一向にいぶかしむ気配もないことだった。そのせいで、もしやこれは彼のいたずらなのでは、と思ったこともある。それくらい、私は幽霊というものに懐疑的だった。
 しかし、ある日のこと――
 訪問の前日はひどい嵐の夜で、訪れて早々、私は家主から縁側のガラス戸が割れてしまったようだという話を聞いた。見てみれば、確かにガラス戸は割れている。風で飛ばされた何かがぶつかりでもしたのだろう。それ自体は、何らおかしなことではない。
 しかし、割れたガラスの破片の方はというと、辺りに散らばることもなく、隅の方にきれいに積み上げられていた。割れただけで、こうはならない。誰かが意図して破片を集めない限りは。
 それを見たとき、私はあらためて確信した。
 これは家主のいたずらではない。ガラスの破片で怪我を負う危険を押してまで彼が私を驚かせる理由などないし、家主の指には傷ひとつないことも確認している。だとすれば、これはやはり――
 この家には、家主以外の何かがいる。
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