霧立人(三/三)

文字数 3,960文字

 満月の夜。僕は眠ることなく、窓から外をながめていた。目の前を少女が通りはしないかと見張っていたからだ。しかして――
 夜も深まった頃、少女はふいに現れた。今度は誰も連れずに、たったひとりで。
 僕は両親に見つからないように家を出ると、少女の後を追って行った。そうして息を詰めていたときに、ふいに服の裾を引かれて、僕は飛び上がるほどにどきりとする。
 振り向いた先で、弟と目が合った。どうやら僕が家を出たことに気づいて、ついて来てしまったらしい。
「ダメだよ。家に帰るんだ」
 僕はそうたしなめたが、弟は一緒にいることを約束したと言い張って、戻ろうとはしない。
 仕方なく、僕は弟を連れて行くことにした。ぐずぐずしていては少女の方を見失ってしまう。
 弟には僕の言うことを必ず聞くように言い含めた。弟は神妙にうなずくと、いつものように僕のうしろにつき従う。
 そうして、先行く少女に気づかれないように、僕たちは夜道を歩いて行った。彼女が向かっているのは、どうやら村外れの神社のようだ。
 少女を追って長い石段を上っていくと、行く手には見覚えのある鳥居が現れる。そうして石灯籠を、狛犬を、社殿を横目に進んで行くと、その先にあったのは――
「何か用?」
 御神木の下で、少女が僕たちを待ちかまえていた。
 彼女の背後では銀杏の木が季節外れの黄色い葉を生い茂らせて、その枝を夜空へと広げている。月明かりが、その姿をぼんやりと照らしていた。
 ついこの間まで、この木は葉を落とした姿だったはず。奇妙な光景に、僕の不安はさらに大きくなっていた。
 その中で、少女だけが平然とした顔をしている。
「みんなをどこへやったんだ」
 震える弟をうしろに庇いながら、僕は少女に向かってそう問いかけた。少女はしばし無言で僕のことを見つめていたが、ふいに笑みを浮かべたかと思うと、右手を差し伸べながらこう告げる。
「いいよ。連れて行ってあげる。みんなのいるところに」
 差し出された手を取ることには、さすがにためらいがあった。それでも、ここまで来たからには――と、僕はその手を取らずに、少女に向かってただうなずく。
 少女はうなずき返すと、僕たちに背を向けて歩き出した。ついて来い、ということだろう。
 そうして少女が足を踏み入れたのは、御神木の向こうにある森だった。僕は弟の手を取ると、少女の後を追って木々の間にある道なき道を進み始める。
 山の中は深い霧に沈んでいた。姿を見失うことを恐れて、僕は仕方なく――弟とつないだ手とは違うもう一方で、先行く少女の手を取ることにする。少女は振り返って、ただ笑みを浮かべるだけ。
 途中、悲鳴のような音を立てながら風が吹き抜けていった。驚いた僕が思わず強く手を握ると、どこか悲しげな声で少女が呟く。
「ここの神様は泣き虫だね」
 そのとき、ふいに手を引かれて、僕は立ち止まった。僕を引き止めたのは、少女とつないだ方とは別の手――
 白い霧の向こうから、弟の怯えた声がする。
「兄ちゃん。僕、そっちには行けないよ」
 そう言ったきり、弟は一歩も動こうとはしない。怖いのだろうか。しかし、それも当然だろう。僕だって怖くないわけではない。やはり弟は連れてくるべきではなかった――
 僕は弟の元へ引き返そうとする。しかし。
「ダメよ。あなたはこっち。でも、その子は……ダメ」
 少女は驚くほどの力で、僕の手を引いた。弟とつないだ方の手がそれに抵抗したが、その力は弱々しい。ついには、弟は声を上げて泣き始めた。
 僕は思わず弟の元へかけ寄ろうとする。しかし、少女は僕のことを引き寄せると、弟とつないだ手を強引に振りほどいてしまう。
 弟の悲痛な声が辺りに響いた。
「何をするんだ!」
 僕は激昂した。しかし、それ以上に強い口調で少女は叫ぶ。
「この子はダメ! でも、あなたはまだ間に合う。行って!」
 少女の手を引く力は、もはや普通のものではなかった。僕は半ば引きずられるようにして歩いて行く。弟をひとり残して――
 兄ちゃん、と呼ぶ声が、遠く後方から聞こえてくる。
 弟を哀れむ思いと少女に対する恐れと、そして行き先への不安から、僕は必死に抵抗した。しかし、どうしてもその手を振り払うことができない。
 ただの少女に、これほどの力があるものだろうか。僕はいったい、何に導かれているのだろう。
 深い霧の中を進んで行くと、やがて視界が白一色になる。足元の地面はおろか、自分の手や足すら見えなくなった頃――
 ふいに、霧の奥から声がした。
「よく思い出して。嵐の夜に何があったか。私は自分がどうなったか覚えていたから気づけた。あなたは私とは違う。だから――」
 やさしい少女の声。気づけば、手を引く感覚はもうない。代わりに、そっと僕の背を押すものがあった。
「あなたはここにはいられない」
 目の前の霧は、月の光に照らされてぼうっと白く輝いている。その中へ足を踏み入れた途端、僕は落ちていった。下へ下へ。そして――
 そして、僕は夢から覚めた。



 気がつくと、僕は寝台の上にいた。
 弟の姿も、僕の手を引いていた少女の姿も、そこにはない。夢でも見たのだろうか、とも思ったが、どうやらここは家ですらないようで――運び込まれた病院の一室で、僕はやがて、自分の家が土砂に流されてなくなっていたことを知った。
 あの嵐の夜。大規模な土砂崩れによって、村のほとんどが壊滅したらしい。多くの村人が未だに行方不明の中、僕は奇跡的に救い出された者のひとりだった。
 夢の中でいなくなったと思っていた人たちは、むしろ無事に目覚めることができた人たちだったようだ。話ができた何人かは、土砂に埋もれている間、いつもどおりの日常を夢見ていたことを話してくれた。
 彼らが僕と同じ夢を共有していたかどうかは、わからない。
 その後、僕が両親と弟の生きた姿を目にすることはなかった。すべてを失った僕は、それからしばらく茫然自失の毎日を送ることになる。
 だから、これは後から聞いた話で――何でも、行方不明者の捜索中に明らかな他殺体が見つかったそうだ。それは、制服を着た十六歳の少女だったと言う。


 それから十年の月日が流れた。


 あの災害からこちら、村には住む者もいなくなり、僕の故郷は失われていた。こうして御神木の元を訪れたのも、久々のことだ。
 銀杏の木の下に立ち、しばらくその姿を見上げていると、山の方から、ふいに見知らぬ人が姿を現した。
 男だ。老人ではない。三十代くらいだろうか。がっしりした体格で、どこを歩いていたのか服や持ち物は土で汚れている。
 男の方も僕の存在には驚いたようで、あからさまにけげんな顔をしていた。そんな彼に向かって、僕は自分がかつてこの村に住んでいた者であることを告げる。
 男は納得したようにうなずくと、自ら片桐(かたぎり)と名乗った。
「古い木っていうのは化けるんだ。俺たちは、そんな木を世話して回っている奇特な集団だ」
 御神木のいわれを語った老人も、似たようなことを言っていた。だとすれば、あの老人もそのひとりだったのだろう。
「昔、同じようなことを話してくれた人に会いましたよ。この場所で。人の心をよく映す、とか」
 おそらくは仕事仲間だろうから、その意味がわかるかと思ったのだが、男はむしろいぶかしげな表情を浮かべた。
「あ? 誰がそんなこと言ったんだ? 桜庭(さくらば)のじいさんか?」
 残念だが、僕はあの老人の名を知らない。
 そんなことよりも、せっかくだからと、僕はずっと気になっていたことを男にたずねた。
「木が化けるっていうのがよくわからないんですが……もしかして、この銀杏の木が、切らないでくれと夢の中で泣いたり、迷子に夢を見せていたことを言っているんでしょうか」
 男が顔をしかめたので、僕はすべてを打ち明けた。老人から教えてもらった村の伝承も、土砂に埋もれている間に見た夢のことも――
 僕はあらためて、こう問いかける。
「この木には特別な力があるのでしょうか。僕は今このときにも、この木が見る夢の中で、村の皆が生きているような気がしてならないんです」
 男はしばらく無言で考え込んでいたが、僕の顔色をうかがうと、こう答えた。
「どうだか。おまえはそういうことにしておきたいんだろうが……仮に、こいつが夢を見せたんだとして、その伝承からすると、それは死者のためじゃなく――おまえのためだろう」
 僕はその言葉にはっとする。
 あの幻のような日々のことを、僕は死に瀕した者たちが見た夢ではないかと思っていた。僕が救い出された後も、両親や弟は、夢の中でいつもと変わらぬ毎日を送っているのではないか――と。
 その空想は、ひとりきりになった僕にとっては、確かに救いだった。
 しかし、銀杏の木にまつわる物語はいつも、ただ生者に夢を見せていただけだ。村人に己の嘆きを見せたように。迷子に楽しい夢を見せたように――
 僕は知らず涙を流していた。男は目を逸らしてから、こう続ける。
「どう考えるかはおまえ次第だ。だが、その死を受け入れて、弔ってやるのも、ひとつの道だと思うが」
 男はそう言うと、じゃあな、とひとこと告げてから、さっさと山中に消えていった。気をきかせて去ったのか、それとも本当に通りすがっただけなのか。
 ひとり残された僕は、あらためて銀杏の木を仰ぎ見る。
 ふと――ここの神様は泣き虫だね、という少女の言葉を思い出した。すべてが夢だったとすれば、彼女の存在はいったい何だったのだろう。すべては、この木が見せた幻にすぎないのだろうか。
 それでも僕は、あのとき霧の奥から聞こえたやさしい声のことを、決して忘れはしないだろう。
 真実はわからない。しかし、僕は残された御神木にそっと寄り添うと、遠く霧の向こうに隔てられた、ありし日の故郷と今は亡き人々のことを思った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み