霧立人(一/三)
文字数 3,423文字
石段は下生えに隠れて見えなかった。
それでも茂みに分け入って、その長いきざはしを上ると、行く手には見覚えのある鳥居が現れる。そうして辿りついたのは荒れ果てた神社だ。
とはいえ、もはや見る影もないかと思われたその場所は、そう考えていたよりかは遠い記憶の面影を残している。とても足を踏み入れることはできない――というほどではない。
草木に埋もれた石灯籠を、苔むした狛犬を、朽ちた社殿を横目に進んで行くと、その先にあったのは――
大きな銀杏 の大木が、かつてと変わらぬ姿でそこに佇んでいた。根元まで歩み寄り、その威容を仰ぎ見る。
――古い木ってのはなあ。化けるんだ。
よく知らない老人の言葉。しかし、なぜか驚くほどはっきりと耳に残っている。
――そういう木は人の心をよく映す。
そんな言葉とともに、そのときふと、ある物語を思い出した。この木にまつわる、不可思議ないわれを。
昔々、ある村人がこの木を切ろうと考えた。するとその夜、木は夢に現れて、どうか切らないでくれと涙を流したそうだ。切らないでくれるなら、この姿ある限り村のことを守り続けよう――そう約束したらしい。その木が切られることはなく、今も御神木としてそこにある――という話だ。
これに似た話は、どうも各地にあるらしい。その事実を知ったのは後のことだが、それでもこの話が特別だと思ったのは、関連してもうひとつ、別の話が伝えられていたからだ。
あるとき、村の子どもが行方知れずとなった。村人たちは必死に探したが見つからない。かと思えば、次の日には自力で家に帰って来た。いなくなった間は、神社で見知らぬ人に遊んでもらっていたのだと言う。御神木が子どもを守ってくれたのだろうと、村人たちは感謝した。
これはどこそこの家の話で――と続く程度には、そう昔のことでもないらしい。少なくとも、これを話してくれた人はそう言っていた。
つまり、この話は事実として語られていたわけだが――そうはいっても、まさか本当に木が子どもを助けてくれた、と考えたわけではないだろう。山中にでも迷い込んで、御神木のいわれを元に夢でも見ていた――と、落とし所としてはそんなところか。
だとすれば、この木が不可思議なことを起こしたという、はっきりとした話はどこにもない。とはいえ――
そのときふいに、子どもの笑い声が聞こえた――気がした。しかし、こんなところに子どもが来るはずもない。
それでも十年ほど前、この神社は村の子どもたちにとっての遊び場だった――
僕が生まれ育ったのは小さな村で、周りには山以外に何もないところだった。細い川に沿って一本の道が通っていて、それに寄り添うようにぽつぽつと家が建っている――それがこの村のすべてだ。
村人たちが拠り所にしているわりには、その道はどこにも続いてはいない。別に意味もなく通したわけではないだろうが、かつては何かの産業の地であったのが廃れ、その結果、この村が終点になってしまっただけのことだ。
先細ることは、すでに目に見えていたからだろう。その年の春、村で唯一だった学校の廃止が決まっていた。
やむを得ずこの地に残る者たちを除いて、これを機にと移住を考えた者は多かったようだ。中学生になる僕も、春からは平地の町に引っ越すことになっていた。一家でこの村を出て行けば、もう戻って来ることもない。
故郷を去る日はだんだんと近づいている。それでも、そのときの僕はそんな実感を抱くわけもなく、春休みの毎日をただ遊んで過ごしていた。
ある日のこと。いつものように、たまり場の神社で友人たちと遊んでいると、五歳年下の弟がふいに御神木の方を指差した。
「銀杏のところに誰かいるよ」
そう言って、弟は僕のうしろに隠れてしまう。
引っ込み思案だった弟は、その頃ずっと、僕の後をついて回っていた。本当にどこへ行くにも一緒だったので、こんなことで転校した先の学校でひとり、やっていけるのだろうか――と密かに心配していたほどだ。
ともかく――
神社への入り口はひとつしかない。そこに誰かいるのだとして、その人物はいつの間に現れたのか。
気になったので、僕はそのことを友人たちに伝えた。行ってみよう、ということになり、僕たちはそろって銀杏の木へと向かう。
御神木の下にいたのは、見知らぬ老人だった。老人のわりにはがっしりした体格で、どこを歩いていたのか服や持ち物は土で汚れている。
村の外から知らない人が来ることは珍しいので、僕たちは少しだけ怖気づいた――が、老人の方は思いがけず気さくに応じてくれる。
「おう。村の子か?」
その気安さから、誰かが老人に問いかけた。
「何をしてるんですか?」
「木の具合を見てるんだよ。古い木ってのはなあ、化けるんだ。そういう木は人の心をよく映す。ここの木は少し泣き虫でな」
僕たちは顔を見合わせた。冗談のような内容だが――どうも、本気で言っているように聞こえたからだ。
きょとんとしている僕たちに、老人は笑いながらこう言った。
「近頃の子は、村の御神木のいわれも知らんのか」
その言葉は責めるというよりは、どこかおもしろがっているかのようだった。
そう感じたのは、気のせいではなかったのだろう。なぜなら、老人は嬉々として語り出したからだ。村の御神木にまつわる物語を――
老人の話はとてもおもしろく、御神木のこと以外にも、世話をしている木についていろいろと教えてくれた。しかし、楽しい時間はあっさりと終わりを告げる。
「もう、こんな時間か。近々、嵐がやって来る。老いた木を守ってやらんとな。俺はそろそろ失礼するよ」
老人はふいにそう呟くと、近所の家にでも帰るかのように、山中に入ろうとした。しかし、その先は深い森しかなく、神社から出るには石段を下るよりほかない。
「そんなところからじゃ、どこにも行けないよ?」
誰かがそう言うと、老人は軽く笑い飛ばした。
「そんなことはないさ。山にも向こうがある。しかし、どうもよくないな。森がさわいどる。昔のようにはいかんからなあ。どうなるか、わしにも読めん……」
奇妙な言葉を残して、老人はどこかへ去って行った。
神社から家へ帰るとき、僕はいつものように近道をした。山の斜面にある道とも言えないようなところだが、村の子どもたちはよく通る場所だ。
途中、見晴らしのいいところがあって、崖下にある家がよく見えた。そこは何かと噂がささやかれている家で――しばらくは年寄りのひとり暮らしだったのだが、少し前に娘と孫が出戻って来たらしい。何でも、暴力を振るう相手から逃げて来たのだとか、あるいは捨てられたのだとか――
いずれにせよ、およそ子どもに聞かせるような内容ではない。おそらく表立って話していたわけではないだろうが、子どもというものは案外耳敏いものだ。僕もいろいろと口さがない噂を耳にしていた。
そんなわけで、その家の近くを通るとき、僕の視線が思わずそちらに向いてしまったことも仕方がないことだろう。
そのとき、僕が目にしたものは――
高校生くらいの少女が、縁側で仰向けに倒れていた。見えるのは肩の辺りから上だけ。ただ、学校の制服を着ているらしいことはわかった。
少女は虚ろな目をして、ただ呆然としている。
家の奥からは、何かをわめくような大声が聞こえていた。ここからでは姿は見えないが、近くに誰かいるのだろうか。
どこか異様な光景に、僕はぎょっとして立ち止まる。きょとんとしている弟をとっさに背後へ隠して、思わず息を潜めていた。
少女の肌は驚くほど白く、生気がない。投げ出された腕はだらりとしていて、よく見ると痣のようなものがあった。そのことに気づいて、視線が泳いだその先で――
ふいに目が合ったかと思うと、少女はその顔に力なく笑みを浮かべた。
見てはいけないものを見た気がして、僕は慌てて目を逸らす。そして、弟の手を引きながら、すぐにその場を後にした。
その日の夜、村に嵐がやって来た。吹きすさぶ風と激しい雨音。雷鳴は止まず、まばゆい閃光が時折、暗い室内を照らし出す。木々は騒ぎ、外からはたまに何かが飛ばされるような音が聞こえていた。そして、どこからか響いてくる、轟々とした唸りと振動――
僕は布団にもぐり込みながら、そんな嵐の音にしばらく耳を傾けていた。とても眠れる気がしない。それでも、昼間に遊んだことで疲れていたのか、やがては夢の中へと落ちていった。
それでも茂みに分け入って、その長いきざはしを上ると、行く手には見覚えのある鳥居が現れる。そうして辿りついたのは荒れ果てた神社だ。
とはいえ、もはや見る影もないかと思われたその場所は、そう考えていたよりかは遠い記憶の面影を残している。とても足を踏み入れることはできない――というほどではない。
草木に埋もれた石灯籠を、苔むした狛犬を、朽ちた社殿を横目に進んで行くと、その先にあったのは――
大きな
――古い木ってのはなあ。化けるんだ。
よく知らない老人の言葉。しかし、なぜか驚くほどはっきりと耳に残っている。
――そういう木は人の心をよく映す。
そんな言葉とともに、そのときふと、ある物語を思い出した。この木にまつわる、不可思議ないわれを。
昔々、ある村人がこの木を切ろうと考えた。するとその夜、木は夢に現れて、どうか切らないでくれと涙を流したそうだ。切らないでくれるなら、この姿ある限り村のことを守り続けよう――そう約束したらしい。その木が切られることはなく、今も御神木としてそこにある――という話だ。
これに似た話は、どうも各地にあるらしい。その事実を知ったのは後のことだが、それでもこの話が特別だと思ったのは、関連してもうひとつ、別の話が伝えられていたからだ。
あるとき、村の子どもが行方知れずとなった。村人たちは必死に探したが見つからない。かと思えば、次の日には自力で家に帰って来た。いなくなった間は、神社で見知らぬ人に遊んでもらっていたのだと言う。御神木が子どもを守ってくれたのだろうと、村人たちは感謝した。
これはどこそこの家の話で――と続く程度には、そう昔のことでもないらしい。少なくとも、これを話してくれた人はそう言っていた。
つまり、この話は事実として語られていたわけだが――そうはいっても、まさか本当に木が子どもを助けてくれた、と考えたわけではないだろう。山中にでも迷い込んで、御神木のいわれを元に夢でも見ていた――と、落とし所としてはそんなところか。
だとすれば、この木が不可思議なことを起こしたという、はっきりとした話はどこにもない。とはいえ――
そのときふいに、子どもの笑い声が聞こえた――気がした。しかし、こんなところに子どもが来るはずもない。
それでも十年ほど前、この神社は村の子どもたちにとっての遊び場だった――
僕が生まれ育ったのは小さな村で、周りには山以外に何もないところだった。細い川に沿って一本の道が通っていて、それに寄り添うようにぽつぽつと家が建っている――それがこの村のすべてだ。
村人たちが拠り所にしているわりには、その道はどこにも続いてはいない。別に意味もなく通したわけではないだろうが、かつては何かの産業の地であったのが廃れ、その結果、この村が終点になってしまっただけのことだ。
先細ることは、すでに目に見えていたからだろう。その年の春、村で唯一だった学校の廃止が決まっていた。
やむを得ずこの地に残る者たちを除いて、これを機にと移住を考えた者は多かったようだ。中学生になる僕も、春からは平地の町に引っ越すことになっていた。一家でこの村を出て行けば、もう戻って来ることもない。
故郷を去る日はだんだんと近づいている。それでも、そのときの僕はそんな実感を抱くわけもなく、春休みの毎日をただ遊んで過ごしていた。
ある日のこと。いつものように、たまり場の神社で友人たちと遊んでいると、五歳年下の弟がふいに御神木の方を指差した。
「銀杏のところに誰かいるよ」
そう言って、弟は僕のうしろに隠れてしまう。
引っ込み思案だった弟は、その頃ずっと、僕の後をついて回っていた。本当にどこへ行くにも一緒だったので、こんなことで転校した先の学校でひとり、やっていけるのだろうか――と密かに心配していたほどだ。
ともかく――
神社への入り口はひとつしかない。そこに誰かいるのだとして、その人物はいつの間に現れたのか。
気になったので、僕はそのことを友人たちに伝えた。行ってみよう、ということになり、僕たちはそろって銀杏の木へと向かう。
御神木の下にいたのは、見知らぬ老人だった。老人のわりにはがっしりした体格で、どこを歩いていたのか服や持ち物は土で汚れている。
村の外から知らない人が来ることは珍しいので、僕たちは少しだけ怖気づいた――が、老人の方は思いがけず気さくに応じてくれる。
「おう。村の子か?」
その気安さから、誰かが老人に問いかけた。
「何をしてるんですか?」
「木の具合を見てるんだよ。古い木ってのはなあ、化けるんだ。そういう木は人の心をよく映す。ここの木は少し泣き虫でな」
僕たちは顔を見合わせた。冗談のような内容だが――どうも、本気で言っているように聞こえたからだ。
きょとんとしている僕たちに、老人は笑いながらこう言った。
「近頃の子は、村の御神木のいわれも知らんのか」
その言葉は責めるというよりは、どこかおもしろがっているかのようだった。
そう感じたのは、気のせいではなかったのだろう。なぜなら、老人は嬉々として語り出したからだ。村の御神木にまつわる物語を――
老人の話はとてもおもしろく、御神木のこと以外にも、世話をしている木についていろいろと教えてくれた。しかし、楽しい時間はあっさりと終わりを告げる。
「もう、こんな時間か。近々、嵐がやって来る。老いた木を守ってやらんとな。俺はそろそろ失礼するよ」
老人はふいにそう呟くと、近所の家にでも帰るかのように、山中に入ろうとした。しかし、その先は深い森しかなく、神社から出るには石段を下るよりほかない。
「そんなところからじゃ、どこにも行けないよ?」
誰かがそう言うと、老人は軽く笑い飛ばした。
「そんなことはないさ。山にも向こうがある。しかし、どうもよくないな。森がさわいどる。昔のようにはいかんからなあ。どうなるか、わしにも読めん……」
奇妙な言葉を残して、老人はどこかへ去って行った。
神社から家へ帰るとき、僕はいつものように近道をした。山の斜面にある道とも言えないようなところだが、村の子どもたちはよく通る場所だ。
途中、見晴らしのいいところがあって、崖下にある家がよく見えた。そこは何かと噂がささやかれている家で――しばらくは年寄りのひとり暮らしだったのだが、少し前に娘と孫が出戻って来たらしい。何でも、暴力を振るう相手から逃げて来たのだとか、あるいは捨てられたのだとか――
いずれにせよ、およそ子どもに聞かせるような内容ではない。おそらく表立って話していたわけではないだろうが、子どもというものは案外耳敏いものだ。僕もいろいろと口さがない噂を耳にしていた。
そんなわけで、その家の近くを通るとき、僕の視線が思わずそちらに向いてしまったことも仕方がないことだろう。
そのとき、僕が目にしたものは――
高校生くらいの少女が、縁側で仰向けに倒れていた。見えるのは肩の辺りから上だけ。ただ、学校の制服を着ているらしいことはわかった。
少女は虚ろな目をして、ただ呆然としている。
家の奥からは、何かをわめくような大声が聞こえていた。ここからでは姿は見えないが、近くに誰かいるのだろうか。
どこか異様な光景に、僕はぎょっとして立ち止まる。きょとんとしている弟をとっさに背後へ隠して、思わず息を潜めていた。
少女の肌は驚くほど白く、生気がない。投げ出された腕はだらりとしていて、よく見ると痣のようなものがあった。そのことに気づいて、視線が泳いだその先で――
ふいに目が合ったかと思うと、少女はその顔に力なく笑みを浮かべた。
見てはいけないものを見た気がして、僕は慌てて目を逸らす。そして、弟の手を引きながら、すぐにその場を後にした。
その日の夜、村に嵐がやって来た。吹きすさぶ風と激しい雨音。雷鳴は止まず、まばゆい閃光が時折、暗い室内を照らし出す。木々は騒ぎ、外からはたまに何かが飛ばされるような音が聞こえていた。そして、どこからか響いてくる、轟々とした唸りと振動――
僕は布団にもぐり込みながら、そんな嵐の音にしばらく耳を傾けていた。とても眠れる気がしない。それでも、昼間に遊んだことで疲れていたのか、やがては夢の中へと落ちていった。