第7話

文字数 2,589文字

 雅はカーキのストレートパンツにベージュのシャツを合わせていた。少し着崩した様な、フォーマルな服をカジュアルに着こなした様な、その形が雅っぽかった。
髪がだいぶ伸びて毛先にパーマをかけているようだった。風が吹くたびに雅のカールが柔らかく動いていた。

「元気してた?」
なんの躊躇いもなく軽やかに雪菜に話しかける雅。
雪菜は小さく
「うん。」とだけ答えた。

雪菜はこの男を"みや"と呼ぶべきか、坂口くんと呼ぶべきか迷っていた。

「昔よく二人で行った角屋覚えてる?ほら、次の通り右に曲がったところの。あそこのモツ煮美味しかったろ?だから本当はそこ行こうと思ってたんだけどさ、閉店しちゃったんだよね。雪ちゃんあそこのゆず蜜サワーいつも飲んでたよなあ。でも今日予約したお店も中々良いからね!」
雪菜の少し前を歩きながら、雪菜の悩みを吹き飛ばすように軽快に雅は話しかける。
あの口下手な雅がかつての雪菜の愛称を流れる様に口にした。

「雪ちゃんあそこのハムカツ好きだったっけ?平日ドリンク299円は安かったよなあ。俺はあの店好きだったけど、残念だね。ここも飲み屋の激戦区だしな!仕方ないか。」

普通に雪ちゃん呼びなんだ。
じゃあ私もみやでいいか。というか、こんなにコミュ力が高かったっけ?

緊張の素振りは一切見せず、爽やかに雪菜を会話の中に引き込もうとする雅は別人の様に見えた。

雅の後を歩いて、5分ほどで
肴と日本酒 芳乃 と書かれた木の看板が見えた。
どうやらここらしい。中に入ると暖色の少し薄暗い照明、檜のテーブルに檜の椅子。雪菜たちはカウンターに通された。

雅はこの店を予約したと言っていた。
つまりわざわざ距離が近くなるカウンター席を選んだのだろうか。そもそも大衆居酒屋を好む雅がこんな店を予約するとは。

「雪ちゃん何飲む?食べたいものはある?」
「私、レモンサワー。料理はみやに任せるよ。」
「了解!」

雅は得意げに答えるとメニューに目をやり、吟味を始めた。

ああ、そういえばこの男は料理には変なこだわりがあって、オムライスに豚肉入れたら合わないって散々文句言われたっけ。
それで喧嘩したなあ。あれ?でも確か美味しいって認めてたんだっけ。

皮肉なことに時間が経つと忌々しい喧嘩の思い出すら、セピア色に移ろいどこか美しく思えてしまう。

雅は店員に料理を数品と飲み物をオーダーした。
すぐに雅のビールと雪菜のレモンサワーが来た。

「相変わらずみやはビールなんだね。」
「そう!しかもここはアサヒなの!俺、生はアサヒ一択だからさ!」

乾杯をした後、雪菜は少しだけレモンサワーに口をつけ、すぐに考え事をした。

まず、雅が随分と話し上手になったこと。
こんな日本料理屋を予約したこと。
そして席がカウンターであること。
そして今日の会場が雅の自宅からほど近い中目黒であるということ。

今はこの四点が議題に上がっている。
ところが、最近の仕事と趣味の釣りの話をやたら楽しそうに話す雅を見ていると雪菜は自分の考え事があまりにもバカらしく感じた。
一刻も早くこの緊張感から解放されたかった。
雪菜の心臓はいまだに暴走を続け、口から飛び出そうだったので、雪菜はレモンサワーを一気に流し込んだ。

「へえ?雪ちゃん、いつのまにかのんべえに?」
愉し気に笑う雅に、雪菜はぎこちない笑みを浮かべながら「まさか!今でも私は弱いまんま。」と申し訳なさそうに答えた。

その後も雪菜は緊張のせいか、いつもよりもかなりハイペースで飲み進めた。
雅は料理が来るたびにその紹介をしてきたが、正直、どうでもよかった。酔っ払えば楽になると雪菜は自分に言い聞かせた。

馬刺しを摘みながら、雅が不意に眉を顰めた。
「今日の馬刺し、なんかイマイチ。ねえ?思わない?雪ちゃん無理して食べなくていいよ。」

その声は思いの外大きく、おそらく従業員にも聞こえていた。
雪菜は咄嗟に「そんなことないよ。」と声を上げた。実際にそんなことはなかった。
というよりむしろ雪菜には馬刺しの良い味と悪い味はなどあまり分からなかった。

あれ。こんなにハッキリ物を言うタイプだっけ?なんか強気だなあ。昔ならそんなこと言わないのに。

それからは雪菜もかなり酔いが回ったためか、大学時代の共通の友人の話やお笑い芸人の話で盛り上がり、気がつけば時刻は8時を回っていた。
雅もだいぶ酔っているようで、暗い照明の下でも目の下が熱っているのがなんとなく見え隠れした。

「そろそろ出る?」
「そうだね。」
「お会計お願いします。私トイレ行ってくるね。」

雪菜はバックを掴むとトイレに向かった。
鏡の中の自分はかなり酔っ払っているように見えたが、酔っ払い以前に雪菜は女である。
スックのリップを塗り直し、顔の皮脂をパウダーで軽く抑えた。
そこで、お会計のタイミングでトイレに立つのは勝算がある女と思われたのでは?と不安に駆られた。
普段なら考えないことも考えてしまう。
雪菜は急いで席に戻ると、丁度伝票が来たところだった。

バックから財布を取り出すと雅がいいよと言う。
ここまではお決まりだ。
しかし、雪菜は払いたかった。
雅に全額出させるのは、嫌だった。
雪菜は奢られることが多いが、奢られることをあまり好まない。
というのも、何かを与えられると言うのは自分が何も持ち合わせていない証明のように思えるし、奢られればその分自分の立場が弱くなるような気がするからだ。

こんなことを思うのは可愛くないけど、思ってしまうものは仕方ないじゃない。
払われるのはなんか嫌。その分、私が下みたいになるのは気に食わないし。


「出させてよ!」と強気な雪菜に雅は呆れたように笑い、「分かった。じゃあ後でちゃんと計算するからその時ちょうだい?」
「うん。」

店を出ると春の生暖かい風が足元からふわりと湧き上がり、雪菜と雅の間を吹き抜けた。
昼間の桜は可愛らしいが、夜桜はどこか不気味に見えなくもないと雪菜はふと感じた。

「なんかさ、風もあったかくて、もう春だなあって感じしない?俺はする。」
「何それ。そりゃもう春だよ。」
「そうだよね。」
「そうだよ。」

二人はどこに行くでもなく、なんとなく駅の方に向かい歩き始めていた。
雅の歩くペースは早くもなく、遅くもない。
かつては早歩きで散々雪菜を困らせたこの男の速度が低下したのはアルコールのせいだけだろうか?

街頭に照らされたピンクの頬をこちらに向けた雅は雪菜の顔を覗き込む。

「この後どうする?」






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