第六話 中学校

文字数 2,585文字

「ちょっと!」

 台所から姉の怒鳴り声が聞こえる。

「ここに入れておいた私の『プリン』と、それから『中学校』知らない!?」
「知らないわぁ。宏美ぃ、貴女食べたぁ?」

 今度はリビングから、母の間延びした声。私は慌てて首を振り、知らんぷりを決め込んだ。

「知らな〜い」
「じゃあ、パパ!? 全く……私、楽しみにしてたのよ!?」

 姉は大声を響かせながら、しばらく冷蔵庫を物色していた。扉の向こうに、怒り狂う姉の背中が見える。私はそっと扉を閉じ、そのまま飛び込むようにベッドに潜り込んだ。カーテンを閉じた部屋の中は真っ暗だった。枕の下に隠しておいた『中学校』を確認して、私はホッと安堵の息を漏らした。充電バッチリの『中学校』は冷たかった。表面を撫でると、手のひらから冷気が伝わって来て、私の背中をゾクゾクと震わせた。

 プリンは知らない。
 きっと父が、間違えて食べてしまったのだろう。

 だけど、姉の『中学校』を拝借したのは、私だった。

□□□

 いつからだろう。伏し目がちになり、前を見るのが怖くなったのは。
 いつからだろう。自分に自信がなくなり、あの頃に戻りたいと願い出したのは。

 中学校までは、自慢じゃないが割と順風満帆な人生を歩んでいたと思う。家族や友達とも仲が良かったし、勉強もまだ、英語以外はついて行けた。あの頃が一番楽しかった。

 高校に入ってから、だ。人生の歯車が狂い始めたのは。
 無理して都会の進学校に入学して、半月も経たないうちに授業にはついて行けなくなった。周りはみんな頭が良いのが当然(デフォ)で、あからさまないじめなどは無かったが、それでも私はいつも劣等感や疎外感を感じてしまっていた。それで結局、自分から溝を作ってしまった。

 私も必死で勉強したけれど、内容はどんどん難しくなっていくばかりだった。どうやら私の脳みそは中学校までで進歩を止めたらしかった。みんなができて当たり前のことが、自分だけできない悲しさ。相談する相手もいなかった。友達と同じように地元の公立校に進学していればと、その時は激しく後悔した。もし私に未来が視えたら、こんな間違いは犯さなかったのに。自然と視線は下を向き、心から笑うことも少なくなっていった。そしてとうとう、私は一年と半年で休学届を提出した。

 今では実家に戻り、『自習』という名の怠惰な引きこもり生活を続けている。

 戻って進学するか、就職するか。それとも転校か。
 前向きなことは、まだ何も考えられなかった。休学して気がついたのは、私がいなくても、世間は万事滞りなく回っているという事実だ。教室から私の席がなくなっても、元クラスメイト達は、相変わらずくっだらないことで笑い合っているだろう。その輪の中に自分がいないことに、チクチクと胸が痛んだ。
 
「あ〜あ、一度でいいから中学校時代に戻りたいなあ」
「何言ってんのよ、貴女。その歳で」

 ある時、リビングでポツリと呟いた言葉を姉に拾われ、思いっきり笑われた。だけど私は本気だった。

「ほら。あったじゃない、『VR中学校』だっけ?」
「あぁ……仮想現実の世界で自分の行きたい世界に潜れる、って機械(やつ)ね」
「お姉ちゃん、一個持ってたでしょう。貸してよ」
「やだ」
「なんで? ちょっとくらい良いじゃん」
「あれは私用なの。社会人が過酷な仕事の疲れを癒すのに、現実を忘れて『VR』の世界に飛び込むのよ。貴女はまだ忘れたいほど、現実をちゃんと生きてないでしょ」
「忘れたいよ! 私だって色々あるんだってば」
「宏美にはまだ早いって。お酒みたいなものなんだから、アレは。それより前を向きなさい、前を」
「…………」

 結局その時は、姉は『VR中学校』を貸してくれなかった。私はむくれた。自分だってついこの間まで学生だったくせに、姉はその時の辛さをもう忘れているのである。非情な女だ。あんな女、父にお気に入りのプリンを食べられてしまえば良いと思う。

「あ〜あ……」

 一人リビングに取り残され、私は机に突っ伏した。最近、ため息が増えたような気がする。このままのペースでため息が増え続ければ、私は還暦を迎える頃には、きっと二秒ごとにため息をついていることだろう。今から将来のことを考えるのが心底嫌になった。

 もう一度、一度でいいから、中学時代に戻ってみたい。
 だけど、市販の『VR中学校』は高い。
 いくら技術的に可能とはいえ、一般人が気軽に手を出せるような代物ではなかった。一ヶ月分だけでも、目玉が飛び出そうな値段がする。姉のように、社会人じゃない私には、『中学校』はまだ手が出なかった。その姉だって、購入(セル)ではなく貸付(レンタル)である。

 姉は毎晩のように、仕事が終わると『中学校』に入り浸っていた。
 十歳も歳の離れた姉は、いっつも「まだ早い」と笑って、私には中々『中学校』を貸してくれなかった。だけど『前を向く』ためには、どちらが後ろかを時々確認しないといけない。思い出とはきっとそのためにあるのだ。

 そしてとうとう、私は我慢できず、姉の『VR中学校』を一晩内緒で拝借することにした。

□□□

 もう一度扉の向こうの様子を窺った。
 姉はまだ気がついていない様子である。どうやら上手く行ったようだ。暗がりの部屋の中で、私は深呼吸して、冷えた『中学校』の屋上を

にあてがった。
 『VR中学校』は小さく振動音を上げ、私の記憶を吸い取っていく。それから程なくして、私はゆっくりと深い眠りへと落ちて行った。両腕でしっかりと金属製の『中学校』を抱きしめて。


 ……そして気がつくと私は、懐かしき中学校の校庭で目を覚ました。


 熱い熱気が肌に張り付いて、私は思わず目を細めた。口の中で、ちょっぴり砂の味がした。
 見上げた空は青々と輝いていて、白い入道雲がこれでもかと大きく胸を張っている。夏だった。『VR』で再現された中学校は、炎天下の真っ只中だった。陽炎の向こうに目を凝らすと、数名の男子生徒達が、サッカーボールを追いかけてはしゃぎ回っているのが見えた。職員室の近くで、体育の先生が花壇に水を撒いているのが見える。私は息を飲んだ。

 懐かしい情景。
 帰って来たのだ。
 私の思い出の中の、中学校時代に。

 自然と笑みが溢れるのを抑えきれなかった。さっきまでの憂鬱も、あっという間にどこかに吹っ飛んで行った。『VR中学校』のおかげで、私はとうとう自分の居場所を見つけたような気がした。
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