善行マスト。

文字数 2,090文字

ポーン。次、停まります。

三つ前の席に座る腰の曲がった小さなおばあさんが、降車ボタンに伸ばそうとした手を引っ込めた。
さきほどからチラチラと降車ボタンを見ているので、降りる停留所が近いのだなと気が付いたのだ。ぼくは、身体を伸ばすのも一苦労だろうと思って、先にボタンを押してあげたのだった。

その翌日、ミーティング続きの課長が来客のアポがあるのに、時間に少し遅れて執務室に帰ってきた。部長は先に応接室に入ってしまっていて、完全に出遅れた形だ。ぼくは慌てて上着を羽織って出て行こうとする課長に、「名刺入れ」と囁いた。
課長は、おっと、と言って一度自席に戻り、名刺入れを背広の内ポケットにしまってバタバタと出て行ったのだった。

その二日前、ぼくは休日に祖母のお墓参りに出かけたが、隣のお墓に来ていた家族が線香に火をつけるのにかなり苦労をしていた。風が強い日で、お墓の周りには風防になるものも見当たらない。コンディションが悪いのは誰の目にも明らかで、あんまりにも火が点かないので、お父さんが「お線香は諦めるか…」と残念そうに奥さんと子供達に言っている。ぼくは見るにみかねて、線香に火をつけてあげた。隣の家族は、なんで?とみんな驚いていたけれど、お墓にお線香を上げることができたと喜んでいたようだ。

ぼくの名前は、徳山善一という。
東京で暮らす28歳、独身。仕事はサラリーマン。中堅になりかけの若手銀行員だ。主に法人営業の畑で、今年で入行六年目になった。
地方の中核都市の大規模な支店に2カ店ほど勤めたあと、本店営業部へ異動したばかりだ。そんな経歴から、わかる人はわかるかもしれないが、ぼくは要するに、一流の大学を卒業し、大企業でも評価されるエリートであり、それを自任する鼻持ちならないやつでもある。周りは皆ライバルであり、いつ誰に足を引っ張られるかもわからない生き馬の目を抜く世界で生きている。上から潰されるかもしれないし、下から引きずり降ろされるかもしれないし、後ろから刺されるかもしれない。
大袈裟というなかれ。少し前に、大手都銀を舞台にしたドラマが流行ったが、あれは場合によっては、現実のほうが外連味がない分よほど陰湿で、たちが悪い。
数万人の大人たちが、やれ勝ったの負けたのを繰り返していて、えらくなったとかなんとか、やっている。もちろんぼくもそのゲームに参加している自覚がある。うまくやってく自信だってある。

ところで、ぼくの日課は、一日一善だ。
一日ひとつ、社会や人の役に立つことをする。必ず、一日に一つは善行を行う。それでこそ生きていることができる。善行をせずに一日を終わるわけにはいかないのだから、ぼくは一日中善行をする機会を探し、その機会を発見したらすかさず善い行いをするのだ。実は意外に、人のためになにかするのはそう簡単ではない。最近はだいぶ慣れてきたが、油断していると一日が終わってしまいそうになって、それで焦って、是非なんでもいいから善行をさせて下さいと神様に祈りながら目を血走らせることになる。
一日一善、というのはいいことだ。そしてそれには、やったことが善行かどうかを判定するルールが必要である。はっきり記載されたものではないのだが、主には以下のものだと理解している。そもそも、レギュレーションが整っていないことにぼくは未だに納得がいっていないのだ。
①直接的に自分の利益には関係のない、自分がした行いであること
②第三者が判断したと仮定して善行であると感じられる行いであること(善行者及び被善行者の善悪の主観は問わない)
③善行の結果がどうであろうと、善行そのものの行為が評価されること

なぜ、一日一善なのか。
これは決して親に言われたわけでも、先生から言われたわけでも、ましてや会社の上司から言われたわけでもない。かといって自主的に持ったポリシーでもない。
神様がぼくに”そうしろ”と言ったのだ。

一日一善をしないと、ぼくはたぶん死ぬのである。本当に死ぬかはわからないのだが、善行しなかった日の23時以降は明らかに、死に近づいている感じがする。理屈ではなく、ぼくがそう感じるのだから仕方がないのだ。
いや、そんな胡散臭い人間を見るような目でぼくを見ないでもらいたい。ぼくは極めて合理的なエリート銀行員なのであって、事実を語るのみである。

夢の中で神様はぼくに告げた。
一日一善をしなさい。さもないと死ぬよ。

なぜこんなことになったのかについて、細かい理由は忘れた。神様は親の因果が子に報いのような話をしていたが、なにしろ夢の中の話なので、あまり頭には残っていないのだ。なんでもぼくの遠いご先祖が昔々にだいぶ悪いことをしたらしく、それを償うために子孫であるぼくが一日一善をして徳を積む必要があるのだそうだ。そんな馬鹿な話があるだろうか。
神様は気の毒そうに、自分にもどうにも出来ないのだと言った。本当にどうにもできないかどうかは、わからない。

さすがにいきなり顔も知らぬ先祖の尻拭いを押し付けられて、義務だの死ぬだのと言われて、ぼくは腹を立てた。
そんなポイントカードみたいなシステムで人生を決められてたまるか。

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