見て見ぬふり。

文字数 2,445文字

「ちょっと!やめてください!」
満員電車で突然会社員風の女性が声を上げた。

金属で出来たハコに人間がギュウギュウに詰まっているのに、車両の軋む音しか聞こえてこない通勤電車というものは、何度乗ってもとても不思議な空間だと思う。全員が一心に心を無にして乗っているからなのか、非常事態のような瞬間においても、なかなかスイッチが入らないようだ。
声の聞こえ方からすると、すぐそこでのことらしい。
ちらりと目を向けると、二、三人挟んで向こう側にいる女性が、彼女の後ろに立っていたと思しき男性を睨んでいる様子が人混みの隙間から垣間見えた。

男性は、スマフォを横にして両手に持っており、女性の方を呆然と見ている。メガネをかけて痩せ気味の、三十代前半のサラリーマン、といったところか。
近くにいた、いかにも大学では体育会にいましたと言いそうな短髪で首が太めのサラリーマンが、キリリとした顔で痴漢とされた男性の肩を掴んでいた。

その男性は文字通りその場に固まっていた。抵抗するでもなく、反論するでもなく、諦めるでもなく、ただ固まっている。
次の駅まであと3分ほどある。車内にはなんともいえはない落ち着かない空気が漂っていた。正義感、好奇心、無関心、軽蔑、怒り、様々な視線が現場の空間あたりに注がれている。

落ち着かない車内の膠着状態がしばらく続き、電車が駅のホームに滑り込んだ。誰かが駅員を呼び込んでいる。駅員が車内に入ってきた瞬間、男性は腰が砕けたようにその場に無言でしゃがみこんだ。体育会系男と駅員が彼を両側から立たせようとするが、大の男が全力で座ろうとするのをコントロールするのは容易ではない。

ぼくは、会社に遅れちゃうなと思ってそれを眺めていたが、その場にいる周りの人のうち何人かに妙な雰囲気を感じた。なにかを言おうとして、躊躇っているように見える。でも、ぼくはその現場を全く見ていないから、なにも言えない。

声に出しては何も言えない、が。

「冤罪の可能性は?」
複数精神感応(マルチチャンネル・テレパシー)

周囲の何人かが、あれ?という顔をしたあと、意を決したように、あの…と声を上げ始めた。
ぼくも、両手が塞がっていた状態で呆然としていた彼が本当に痴漢なのか?と、違和感を感じていたのだ。より近くにいた人たちからすれば尚更だろう。お互いの行動に無関心だったとしても、最低限の状況は自然に目に入っているはずだ。

皆、もちろん遅れられない仕事がある。見知らぬ男のために進んで面倒事に巻き込まれに行く理由はなかなか見つからない。そうなってみればおかしいと思っていても、果たして自分の目を100%信じられるのか?とだんだん怪しいような気持ちになってくる。見て見ぬふりにほんの少しの罪悪感を感じつつも、頬っ被りしてしまう人の方がむしろ普通だろうと、ぼくも思う。

でも、少しだけ背中を押してもらえば違うときもある。

その後、被害者の女性、痴漢嫌疑の男性、状況の説明を試みる中年の女性を電車の外に吐き出して、満員電車は4分の遅れで出発した。しばらく車内は落ち着かない雰囲気だったが、次の駅に着くころにはみんなメッセージアプリでの知り合いへの報告もすっかり終わり、何事もなかったかのような空気になっている。電車の中身は、駅に着くたびに何割かが入れ替わり、そのうちすっかり事件そのものがその場から消えてしまうのだろう。
ぼくも、事件が起きた駅の二駅先で降車した。

超能力が使えるようになって半年ほどになるが、少しずつ使える能力や応用の方法がわかってきた。
なにしろ超能力の取扱説明書などというものはない。師匠に付いてつらい修行の末に身に着けた能力というわけでもないから、やってみて試してみるしかないのだ。言うなれば、あらかじめ必殺技の表が用意されていない格闘ゲームのようなもので、こういうコントローラー操作(念じ方)をするとこういう技(超能力)が出るぞというパターンを見つけてはメモ帳に残しているような状態である。
精神感応(テレパシー)は、個別の人に向けて使うことが基本だが、不特定多数の人間達に向けて出すこともできる。ただ、いずれにしても伝わるかどうかは、出し手の出力と受け手の準備のかみ合わせ次第のようだ。つまり、ぼくの出力は一日一善に足る非常に弱いレベルなので、受け手に聞く気がないとこちらの意図通りには伝わり難い、ということになる。更に相手が不特定多数となれば、受け手側に強くぼくの思念の波を拾うメリットがないとかなり厳しい。端的に言うと、受け手が聞きたいことが流れてきたときにだけ聞こえる程度、ということになる。届く範囲はいいところ、同じ車両のドア付近といったところか。
今回は、声を上げるきっかけを探していた人がその場に何人かいたのだろう。伝わってよかった。

22時。まったく善行への焦りは高まってきていない。今日はその後能力を使う機会もなかったので、きっと朝のアレがカウントされたのだろう。周囲を見回すと、部内にもパラパラとしか人間は残っていなかった。PCを閉じて、職員通用口から夜の丸の内に出ていく。不夜城のように煌々と光を放つオフィスビルと、一杯やっていい気分になっているサラリーマンたちが交錯する時間だ。
ぼくはこのくらいの時間に会社を出るのが最も精神衛生にいいと思っている。社会に必要とされている感じがする。

コンビニで夕飯を買って自分のアパートの部屋に帰る。ビールをあけて、弁当をつつきながら、テーブルの上のノートを開いた。
小学生が鉛筆で書いたような文字で、「ためらう目撃者が声を上げる背中を押した」→「色々あったが、結局あの男が痴漢だった」と記されていた。右上には、1.8%と記されている。

うん。そんなこともある。
ぼくはあの男のことを何も知らないから、信じる理由もなければ失望する理由もないのだ。
そんなことよりも、これまで1回の善行で0.01%以上の徳が貯まったことがない。どうすれば1回分の効率がよくなるのか。これがぼくの目下の悩みである。

さあ、明日ももれなく満員電車で出勤だ。
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