第3話

文字数 1,480文字

 思えば男は、それ以外のことをしていなかった。
 毎晩、わたしを愛で、果ててずぶずぶと毒のある眠りに沈むこむ以外、彼はなにもしていなかった。

 そして、その時はきた。

 ある真昼、男の電話が鳴った。
 通知を見て男の表情が変わり、電話に出るなり涙目になった。
 だだをこねるような調子で何か言い続けるのだが電話の主には通用しなかったようで、ついに男は電話を切り、その場でひざをつくと号泣を始めるのだった。

 どれほどその号泣が続いたか。日はかげり、やがて夜が近づいた。
 窓の外の風景は色とりどりの明かりを持ち始め、学生街は再びかきいれどきを迎えようとしていた。
 男はすすり泣きながらゴミの山からスポーツバッグを引っ張り出し、そこにくちゃくちゃになった服を何枚か入れ、一番最後にわたしの髪の毛を掴みあげて、バッグの中に突っ込んだのである。

 洗濯した形跡のない衣類にもまれ、わたしはカバンのファスナーが閉まるのを見た。
 ファスナーに髪がからみ、激しい痛みが走る。

 痛い、痛い痛い。叫ぶが男は構わずにバッグをかつぎあげ、荒い動きでアパートを出た。
 大きくバッグは揺れ、わたしはごろごろと狭い空間を転がった。

 ずいぶん長い間、不愉快な時間が続き――やがてどさりとバッグは固い場所に置かれた。
 ジイとファスナーが開かれ、太い指が差し込まれたかと思うと、わたしは男に抱き上げられていたのである。

 「……君を置いては行けない」
 鼻をすすりあげ、充血した目で男はわたしを見つめた。

 そこは駅の待合室であり、この時間は誰もいないらしい。陰気な照明に虫がたかり、バチバチと音が立っていた。
 汚れた壁には、蛾の影がいびつに大きく写り込んでいる――。

**

 講義に出ないまま大学に在籍していた男は、ついに田舎の両親から呼び出しがかかったのだ。

 このままでは大学を中退させられてしまう。
 どうしよう――というのが、今の彼を絶望に落とし込んだ原因であるらしい。

 もう一つ彼を苦しめているのは、わたしの扱いだった。
 両親の住む家に、わたしを連れてゆくことはむつかしい。じゅうじゅう理解しているくせに、男はどうしてもわたしを置いてゆくことができないでいるのだった。

 「どうして君はからだがないんだ。せめてからだがあれば……」

 恨めしそうに男は呟き続け、わたしを眺めては涙を流すのだった。やがて改札が開くと、啜り上げながらも男はわたしをカバンに突っ込み、また大股で歩き出した。

 パアン、と汽車の音が聴こえ、男は汽車に乗り込んだらしい。
 しばらくどの座席にするか迷う様子がうかがわれたが、やがてどこかに落ち着いて、わたしはまた取り出されたのだった。

 男は鼻をすすりあげ、目を血のように赤くさせ、今にも狂うのではないかと思うほどの形相でわたしを眺めていた。
 車両内に人はいないらしい。

 どうやら――終電か。

 「……僕は君を愛している。許せないほど、愛しているんだよ」

 わたしは無言で男を見上げた。その眼が冷酷だと言って男は泣き、そしてぶるぶると拳を震わせた。
 もしわたしにからだがあったのなら、今ここで男は暴力を振るったはずである。
 全ては君が悪い、君が僕をこんなふうにした――。

 長い間、揺られた。
 幾つめかの駅で男は立ち上がり、わたしから目を背けるようにしてカバンを担ぎ上げ、魔物に追われているかと思うほどの勢いで汽車を駆け下りて行った。

 わたしは――無人の車両に置き去りにされたのである。
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