2 『風の又三郎』

文字数 5,750文字

第2章 『風の又三郎』
 『風の又三郎』は賢治の死の翌年の1934年に発表された短編作品である。既存の諸作品をコラージュしつつ、ファンタジー『風野又三郎』を1931年から33年にかけて改作したと推定されている。かなり手が加えられており、中でも最大の変更は風の精の又三郎に変えて転校生高田三郎を登場させている点である。地元の子どもたちはこの謎多き少年を風の神の子と噂するが、実際にそうなのかはわからない。それにより、不思議な出来事が起きても、『風野又三郎』と違い、超自然的存在の影響と結論付けることができない。ただの偶然焼のせいかもしれず、謎として残る。登場人物をすべて等身大にすると、そこに精神的深みを与える。作品が終わっても、登場人物はその問いを以後も反芻すると予想される。それは児童のみならず読者にも内省を促し、『風野又三郎』と比べて、精神性の奥行きをもたらす。

 賢治の作品には文献学上の問題がつきもので、『風の又三郎』も同様である。一例を挙げると、この小学校の三年生の児童の数が全集によって異なる。賢治の原稿には冒頭で三年生がいないとの記述があるにもかかわらず、後半では在校している。整合性を取るために、いずれを優先させるかの判断がそれをもたらしている。校訂によって異なる版が複数公表されているので、引用に際しても注意が要る。言わば、この作品は複数のテイクがすり合わせることなく並べられたラッシュの状態である。こういった事情により細部に拘泥するよりも大掴みに作品のエッセンスを考察することが適切である。

 主人公は高田三郎である。彼は小学五年生で、父の仕事の都合により谷川の岸の小さな小学校に二学期の初日に転校する。三郎は「赤毛」で、「ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革の半靴をはいていたのです。それに顔といったらまるで熟したりんごのよう、ことに目はまん丸でまっくろなのでした。子どもたちは言葉が通じないように思えたので、最年長の一郎は「外国人」と思ったほどだ。風の強い日に現われたため、子たちは彼が風の神の子、すなわち「風の又三郎」ではないかと噂する。

 「風の又三郎」は「風の三郎」伝説に由来していると思われる。岩手県や新潟県、長野県などにおいて、風の神を「風の三郎様」と呼んで祭礼を行う風習がある。中でも、長野県上伊那郡中川村の風三郎神社が有名である。粗末に扱うと、この神は風による祟りをもたらすとされる。

 三郎の父はモリブデン鉱床を調査する企業人で、ここに来る前は北海道に住んでいる。転校初日に学校に現れた父は「白いだぶだぶの麻服を着て黒いてかてかしたはんけちをネクタイの代わりに首に巻いて、手には白い扇をもって軽くじぶんの顔を扇ぎながら少し笑ってみんなを見おろしていたのです」。

 岩手県花巻市大迫町外川目がおそらく村のモデルだろう。この地区は早池峰山の南西に位置し、付近にモリブデン鉱山の猫山(根子山)がある。モリブデンは、先生が児童に「鉄とまぜたり、薬をつくったりする」と説明している通り、合金や塗料、潤滑油などの材料として産業の需要度が高い。その頃の日本の軍用ヘルメットは合金のクロムモリブデン鋼製である。ただし、この金属は日本の地殻にはあまりない。外川目は今では花巻市に属しているが、作品当時は稗貫郡外川目村である。この外川目は内川目との組合村を形成している。これは小規模の村々が推理や会陰屋の維持管理を共同で行う制度である。内川目は早池峰山麓の地区で、外川目よりさらに奥地だ。なお、現在、猫山付近は『風の又三郎』の世界を体験する観光スポットになっている。

 主な登場人物は村を流れる谷川の岸に立地する小学校に通っている子どもたちである。この学校は分教場で、「先生」が一人で複式学級を受け持って教えている。児童数は三郎を含め39名である。中でも、六年生の一郎と五年生の嘉助、四年生の佐太郎、学年不詳の耕助らが三郎と作品内で直接関わっている。

 夏休み明けの9月1日から『風の又三郎』の物語は始まる。9月1日は二百十日に当たる。二百十日は立春から数えて210日目のことで、この日は台風が来たり、強風が吹いたりすると言われ、風と関係が深い。1923年9月1日の関東大震災の際も、折からの台風により火災被害が拡大したと考えられている。

 朝から夕方までの一日における三郎をめぐる子どもたちの様子がひとまとまりの話になり、それが連なって物語を形成している。9月1日から12日までの期間で、日付で区切るなら、次のような内容であるが、何日か抜けている。

9月1日(木)
 山あいの分教場の小学校に変わった姿の高田三郎が転校してくる。子どもたちは伝説の風の精、「風の又三郎」ではないかと噂し合う。
9月2日(金)
 三郎は学校で少々奇妙な態度を見せ、子どもたちを困惑させる。休み時間になっても、彼には遊ぶ者がいない。授業中、二年生のかよと四年生の佐太郎が鉛筆をめぐって兄妹喧嘩を始めるが、三郎が自分の鉛筆を差し出して仲裁する。その後、もう持っていないはずなのに、どこからか鉛筆を取り出して書いている三郎の姿に、一郎は謎を感じる。

 三郎の学校での様子が言及されているのはこの二日だけである。以降は校外での活動の描写がほとんどである。

9月4日(日)
 子どもたちみんなで高原へ遊びに行く。一郎の兄が放牧していた馬と子どもたちは競馬ごっこで戯れていたが、そのうちの二頭が逃げ出す。一頭はすぐ捕まえたものの、もう一頭は嘉助が牧場の柵を開けたため、外に出てしまう。嘉助は、それを追いかけるうちに深い霧の中で迷って昏睡する。その時、彼は又三郎がガラスのマントを着て空を飛ぶ姿を見る。目が覚めると、傍に逃げた馬がいることに気がつき、彼を捜していた一郎や三郎たちとも無事再会する。

 『風の又三郎』を理解するには、岩手県の北上山地の地域の産業などに関する基礎的な知識が必要である。外川目を含む北上山地はプラトーが広がり、戦前、国内有数の馬の産地として知られる。ただ、軍馬が中心だったため、戦後は需要が消え、衰退している。また、当時の岩手県でもすでに競馬は開催されているが、それはあくまで都市部でのことであり、早池峰山麓の子どもには馴染みはない。一方、三郎の住んでいた北海道競馬の歴史は古く、お雇外国人が競馬場を建設したり、函館や札幌などで祭典競馬が開催されたりするといった具合で、近代競馬の源流の一つと言われている。競馬ごっこをしようと言い出したのが三郎で、子どもたちがそれをいま一つイメージできなかったのにはこうした理由がある。

9月5日(月)
 放課後、みんなと一緒にヤマブドウ採りに出かけた三郎はタバコ畑の葉をむしってしまう。専売局に叱られると子どもたちが三郎を責める。そこで、三郎と耕助が風無用論について言い争いを始めるが、最後は仲直りをする。

 岩手県は葉たばこ栽培が非常に盛んで、稲作に向かない北上山地など中山間地の農家経営にとって重要な農産品である。また、この地域はブドウの生育に適している。戦後、大迫町は「エーデルワイン」で知られるワインの生産地に発展する。

9月7日(水)
 三郎と子どもたちは川へ泳ぎに行く。そこで発破漁を目撃したり、専売局の人と勘違いして三郎をその男から守ったりする。

 発破漁はダイナマイト漁とも呼ばれる。これは爆薬を水中で爆発させ、その衝撃によって死んだり気絶したりして水面に浮いてくる魚を捕る漁法である。深刻な環境破壊を招き、爆発物による事故の危険性もあるため、戦後禁止されている。漁自体が法的に禁止されていない戦前であっても、爆発物を取り扱うので、所持・使用の許可がない場合、警察の取り締まり対象になる。

9月8日(木)
 放課後、前日に続き、川で遊ぶ。発破漁のおこぼれを手にしたことに気をよくしてか、佐太郎が持参した山椒の粉で毒もみを試みるが失敗する。その後、鬼ごっこをする。遊んでいる最中に天候が急変したので、みんなはネムノキ、三郎は一人サイカチの元に避難する。しかし、不安になった三郎が川を渡ってみんなの方へ向かっていくと、誰かが「雨はざっこざっこ雨三郎、風はどっこどっこ又三郎」と三郎をはやして、みんなもそれに加わる。三郎は血相を変え、誰が始めたか問い詰めるが、みんなとぼけてこたえようとしない。「三郎は気味悪そうに川のほうを見ていましたが、色のあせたくちびるを、いつものようにきっとかんで、『なんだい。』と言いましたが、からだはやはりがくがくふるえていました」。雨の合間を縫って、子どもたちはそれぞれ家に帰っていく。

 毒もみは、海や河川などに毒を撒いて魚を捕る漁法である。日本では昔から山椒が一般的に使われている。山椒を入れた袋を揉んで毒を出して使う漁法から「毒もみ」と呼ばれる。必要以上の殺生を伴うため、仏教規範上望ましくない漁法と前近代から見なされている。著しく生態系を破壊するので、戦後禁止されている。確かに、毒もみは成果の期待できる漁法であるが、前日にダイナマイト漁をした川には、当然、魚などいない。なお、賢治は『毒もみすきな署長さん』でもこの漁法に触れている。

 サイカチは樹齢の長い木として知られ、数百年に及ぶ巨木もあり、岩手県北上市に伝わる民話『じじばば岩』では突然の際の雨宿りに使われる。木材は建築や家具などに用いられ、特に馴染みがあるのは莢である。水に浸して手揉みすると、滑りが出てきて、これが石鹸の代用として利用されている。

 ネムノキという名称は、夜間、小葉が眠るように閉じることに由来する。中国では古来より仲睦まじさを象徴する植物である。また、日本においてはこの枝で頭をなでると早起きになるなど睡眠にまつわる言い伝えがある。さらに、ネムノキは夏の季語で、芭蕉の「象潟や雨に西施が合歓花」や蕪村の「雨の日やまだきにくれてねむの花」など雨に関連する句が知られている。なお、サイカチもネムノキも根粒バクテリアを持つマメ科の植物であるため、痩せた土地でも育つ。

9月12日(月)
 一郎は三郎から聞いた風の歌の夢を見ていつもより早く飛び起きる。

どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう

 台風を思わせる激しい風雨に一郎と嘉助は三郎との別れを予感する。早めに登校したものの、先生から三郎が前日に北海道へ転校したことを知らされる。

「そうだないな。やっぱりあいづは風の又三郎だったな。」嘉助が高く叫びました。
 宿直室のほうで何かごとごと鳴る音がしました。先生は赤いうちわをもって急いでそっちへ行きました。
 二人はしばらくだまったまま、相手がほんとうにどう思っているか探るように顔を見合わせたまま立ちました。
 風はまだやまず、窓ガラスは雨つぶのために曇りながら、またがたがた鳴りました。

 風が変わった日が12日であることには、この地域において特別の意味がある。民話『磐司ときりの花』によると、早池峰山の女神は12人の子を産んだとされる。そこから毎月12日は山の神の日と呼ばれ、猟師も山に入らない。その日に生まれた子どもは「山の神様の子」と地元の人から称えられる。

 転校の理由はモリブデン鉱の採掘を当分見合わせると会社が判断したためである。作品世界の想定時期は不明だが、執筆当時は世界恐慌により国内の製造業が不況に陥っている時代である。読者が目にすると期の時代的気分を考慮する必要があるだろう。しかも、この時期の東北は全国的にも経済状況が厳しい。そうすると、満州事変が1931年9月18日に勃発しているけれども、企業として需要見通しや採算性などから手を引いた方が得策と考えたとしても無理はない。

 『風の又三郎』は以上のような物語である。ファンタジーと言うよりも、謎の転校生をめぐる子どもたちの冒険物語である。超自然的力を前提にする必要はない。この作品の中でも見かけぬ男を専売局の職員と勘違いするように、子どもは、転校性を含めなじみのない人の正体がエイリアンと見なすことも少なくない。それは知識の範囲内で根拠づけられる。「風の又三郎」伝説がある地域なら、その伝承が認知に取り入れられる。転校生高田三郎は、前に住んでいた北海道の知識や習慣によって、村の子と意思疎通がうまくいかないことがある。風の精が北海道のことは知っていても、岩手のことはわからないというのもおかしな話だ。こういった点からも三郎が風の又三郎でなければならない理由はこの物語にはない。

 多くの『風の又三郎』論は高田三郎が風邪の又三郎、もしくはそれと関連する存在として自説を展開している。その際、「魔」を始めとする又三郎が象徴する抽象的概念を提示する。しかし、子どもたちの疑問は転校性が又三郎であるかどうかである。又三郎が何であるかではない。しかも、子どもたち各々がどう思っているかの共通理解も成り立っていない。嘉助は転校生が又三郎だと叫ぶが、一郎もそう思っているかはわからず、自身もその確証が実はない。そこに内省が生じ、精神性が発展する。彼らはその問いを今後も繰り返し思い出す。この村で生まれ育った自分たちと転校生の違いを又三郎とすることで受け入れられると気づく。時には、あの出来事をめぐる喜びや戸惑い、憤り、悔いなどを反芻しつつ、高田三郎は今頃何をしているだろうかと想像することもあるだろう。この作品のポイントはここにある。『風の又三郎』論の多くはこうした精神性に目を向けていない。

 地方を舞台に子どもを主人公にした冒険小説として『スタンド・バイ・ミー』や『グーニーズ』などが思い浮かぶ。『風の又三郎』はこういったジャンルに入れるべきである。『風野又三郎』を改作したのだから、これはファンタジーであり、高田三郎を風の精とするのは短絡的である。転校生が風の神の子であるかどうかではなく、子どもたちがそう考える意義は何かを問う方がよい。

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