第4話 怖い話に無暗な技巧を添えて

文字数 1,608文字

 未だに謎でよく分からない話なんだけど、するね。
 薄暗い夜の出来事だった。駅のホームに髪の短い30代くらいの女の人が一人で立っていて、彼女は私の方を見るやいなや笑顔で会釈をしてきた。女の人と目が明らかに合っていたから、私も会釈を返したのだが、全くもって見覚えがなかった。記憶を辿れど辿れど出てくるのは甘酸っぱい思い出ばかりで、その女の人と似た人物ですらヒットしなかった。暗かったから相手も見間違えたのかと考えていると、女の人は私の方に向かって歩いてきた。警報が私の心で鳴った。ここにいたら危ない。さらに警報の音は次第に大きくなって、その大きさに耐えられなくなった私は「うるさい」と叫んでいた。しまった、と思った時にはすでに遅く、女の人はドン引きしていた。
 すかさず私はその場を離れたが、恥ずかしさで穴があったら入りたかったし、お湯があったら浸かりたかった。
 説明が少し足りなかったね。そういうところが私にはある。たった今話した場面であるが、駅のホームに立っていたのは女の人だけで、私はホーム上にはいなかった。近くの道を歩いているタイミングで駅のホームをちらっと見ただけなのだ。つまり、私と女の人の間にはある程度の距離と高さの差があった。手前には、私がいた道路とホームを仕切る柵もあるわけで、向かい側のホームにいた女の人が私に近づくためには線路とその柵を越えなければならない。ということで、先ほどの、「女の人は私の方に向かって歩いてきた」というのはホームから降りて線路に侵入して私の方に向かって来たということである。なんとも立派な犯罪である。逃げて当然、逃げるが勝ちだ。盗人のごとく、全速力で走っていた私だが、すぐにばててしまった。根強い読者は知っていると思うが、私は足がかなり遅い。のんびりと散歩するバイソンに抜かされてしまうほどに遅いのだ。
 走ったおかげで、上がった息を整えるために近くにあった公園に入って、空いているベンチに腰掛けた。必死に走ったので、額からは大量の汗が吹き出していた。吹き出した汗を拭きながら、公園にあった時計を見ると、時刻は23時50分でとっくに家に帰らないといけない時間だった。
「変だよね、いきなり逃げるなんて変だよね」
 本当にあった怖い話が今後できるという嬉しさがなかったと言えばウソになるが、背後から聞こえた声に寒気を感じ、私の汗が全て凍ってしまったのも事実だ。撒いたと思っていたのに、さっきの女の人は私の背後にいつの間にか回っていた。短い髪だけが怪談にするには不釣り合いだったが、切りそろえられた髪は不気味といえば不気味と解釈することもできた。無理に後ろに回ってから声をかけるなんて、怪談話にしてくれと言っているようなものだと思ったが、その時はそこまで冷静にはなれなかった。迷惑極まりないその女の人は、短い髪を振り回し始めてしまった。もう髪が長い人みたいな振る舞いはやめてほしいと思った。やはり自己分析は大事だと改めて感じた。
 ゆっくりと距離を取り、私は「ごめんなさい」となぜか誠意も必要性もない謝罪をして再度逃走を図った。
「よくないな。来世では年上への礼儀をより一層勉強した方がいいよ」
 理性が本能と意見を一致させ、逃げろと命令しているが、逃げる素振りをした瞬間私は人でないものに変えられるとも思い、足は動かなかった。
「ルサンチマンってのはこのことだね、うん、これでいい」
 零時になり、訳の分からないこの女の人が訳の分からないことを言ったタイミングで、足が動くことに気づいた私は、公園にあった公衆トイレに逃げ込み、個室に入った。籠城したのは愚策であるばかりではなく、なぜかその個室は鍵が壊れており、私は最も選んではいけない個室に入ってしまっていた。私がしばらく焦っていると女の人がトイレに入ってきて、個室の扉を一つ一つ開けていったのだが、なぜか私がいる個室の扉だけはあかなかった。
 
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