第4話

文字数 1,169文字

 その日は、いつもより一本早いバスに乗ったので、大森駅前に着いたのは午後四時半にもならない頃だった。わたしは、駅ビルRaRaの三階にある本屋さんへ向かう。
 子ども向けの本が並んでいるところを眺めたあと、店を横切って、雑誌売り場にいく。こないだはじまったばかりのつくば万博が取り上げられている雑誌を立ち読みしていると、変な絵が目についた。
 それはカニの絵だった。赤いカニたちが三列に並んでいる。左の列と右の列のカニたちは下を向き、まんなかの列のカニたちは上を向いている。カニって前にも歩けるんだっけ? と思いながら見ているうちに、赤いカニたちの背景のようにみえるのが、実は青いカニたちであることに気づく。青いカニたちも、互い違いに上へ下へと移動中らしい。
 その絵の隣のページには、楽譜がのっていた。変な楽譜だ。左側に書かれているのは普通のト音記号とフラットだけれど、右側にもト音記号とフラットが書かれ、しかもそれらが鏡にうつったみたいにひっくり返っている。
 レジの後ろの柱に取り付けられている時計が午後五時をさしそうになっていることに気がついて、あわててピアノ教室へと駆け込んだ。
「こんにちは、りきくん。ちゃんと練習してきた?」
 塾のプリントで忙しくて、ほとんど練習なんかできてない。わたしはあいまいに頷いて、つっかえつっかえの演奏を高橋先生の前でする。
 気まずい静けさが、狭い練習室を支配する。先生は、わたしがろくに練習してないことなんかお見通しなんだろう。わたしは、ごまかすように、
「先生、『蟹のカノン』って知ってる?」
ときいてみる。
 俯いていた高橋先生は、
「えっ?」
と顔をあげて、わたしの顔をまじまじとみる。唐突すぎたな、とわたしは思い、教室に来る前に本屋さんに寄ったこと、つくば万博のことが書かれている雑誌を立ち読みしていたら、関係ないカニたちの絵と、その横の変な楽譜が目についたことを話した。
「ふーん。りきくん、科学に関心があるのね。でもよかった。小学生のりきくんに先をこされちゃったか、と思っちゃった」
と言ったあと、先生は、うふふ、とわらった。
 科学になんか、まったく関心はない。なに言ってるのかな先生。とまどっているわたしに、最近発売されて、新聞などでとても評判になっている本のなかにも、カニたちの絵と、『蟹のカノン』の楽譜がのっているのだ、と先生は教えてくれた。その本は『ゲーデル, エッシャー, バッハ』という題名の本で、
「とにかく分厚くて、重いの。そして難しいの。でもパズルみたいで面白いのよ」
 先生の通っている音大の同級生たちも、こぞって買って、挑戦中なのだという。
「難しいところは、読んでて寝ちゃうんだけどね」
と、ぺろっと舌を出してみせたあと、
「興味があるなら、こんど譜面を持ってきてあげるわ」
と先生は言ってくれた。
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