八.

文字数 3,811文字

 華岡と藤原が屋上の隠里で話してから、数日後の朝。
 
 始業間際ぎりぎりに、藤原がのそりと教室に現われた。
 このクラスで一番最後に登校するのは、決まって藤原だ。クラスメイトの誰もがそう思っているし、藤原自身にとっても、それが当然のことだった。
 しかし、この日は違った。
 藤原が着席しても、席の一つがまだ空いている。

 びん、とばねの音がかすかに響いた。同時に壁の丸時計が定刻を刻み、高らかなチャイムが始業を告げる。
 
 教室の中に、何か不穏な空気が流れ始めた。
 席に着いた生徒たちが不安げに顔を見合わせ、ひそひそと言葉を交わす。彼らの目は、ちらちらと唯一の空席、華岡の席へと向けられる。
 何事にも無関心で、どこか孤高を気取った端麗な華岡。だが素行の面では、所持品検査さえ素通りするほどの、学年でも指折りの優等生だ。四月の新年度が始まってこの方、遅刻はもちろん欠席さえもなく、ホームルームまでには必ず顔を見せるその彼が、まだ来ない。

 教室のムードが、火に掛けられた鉄鍋のミルクのように、濁ったざわめきを帯びた時、教室の前の方の引き戸がガラッと開いた。
 びくんと身を震わせた生徒たちの目が、一斉に戸口に注がれる。
 入ってきたのは、担任の教師だ。
 教師は教壇の向こう側に立つと、日課のあいさつもそこそこに、こう切り出した。

「今日はまず君たちに話しておくことがある……」

 クラスメイトの誰もが、ぎくりと姿勢を正した。
 嫌な空気が漂う中、担任の陰鬱な声が教室の中に浸潤してゆく。

 ――華岡が、亡くなった、らしい。いや、そう考えるしかない――

 真っ白な衝撃が、クラスメイトのひとりひとりを殴打した。
 まさか……、誰もがそんな驚きをも露わに、大きく目を見開き、口を覆う。
 
 だが担任の奇矯な言い回しは、どこか現実味が乏しい。
 確かに、余りに唐突な悲報は、聞く者の耳には届かず、胸を素通りすることは珍しくはないだろう。今のこのクラスには、そんな状態がぴたりと当てはまる。
 しかしそれを措いても、担任の顔には悲しみや辛さよりも、困惑が色濃く見て取れる。担任が途切れ途切れに語る話も、何か要領を得ない。
 恐らくは、説明する担任自身も、華岡の家族から詳しい話を聞かされてはいないのだ。しかもその遺族の話さえも、担任は心からは信じていないことが、その緊迫感の欠けた顔に顕われている。
 だが担任は、華岡の通夜と葬儀を確かな日付で生徒たちに告げた。この日の夕方から、もう始まるらしい。余りに唐突だが、何かの理由で葬礼を急いでいるのだろう。

 校内でも屈指の有名人だった華岡愁二のこと、彼の突然の葬儀は、昼休みが終わる頃には学校中に知れ渡った。
 それでも彼のクラスばかりではなく、校内のあちこちから洩れる嗚咽の声や啜り泣きが、授業と言わず放課と言わず途切れることがない。

 しかし奇妙にも、華岡の身に何が起きたのか、その顛末を知らされた者は教師にも生徒にも、誰ひとりとしていなかった。
 華岡の両親が、詳細を学校に告げていないのだ。その一方で、伏せられた事実を訊く者がいなかったのも、また事実だった。
 
 沈鬱で重苦しく、どこかよそよそしい空気が校舎を押し包む中、やがて正課の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
 同時に、藤原は校内の誰よりも早く席を立ち、足早に学校から立ち去った。

 そして夜更け。
 静まり返った住宅地を呑みこむ夜の吐息が、まるで融けかけた生ぬるいワインゼリーのようだ。
 貼り付くような、粘ついた空気を頬に感じつつ、藤原が街灯の下に独り佇む。その円錐形の白い光を浴びながら、天を仰ぐ藤原の脳裏に、つい先刻までの弔問の様子が生々しく蘇る。

 華岡の家は、ゆったりとした閑静な住宅街の一角にある。
 ほどほどの庭と、ほどほどの母屋。
 小奇麗で、どこかノスタルジックな木造の家屋が、彼の生家であるとともに、彼が最期の時を迎え、また通夜の場ともなる家だ。小学生の頃から、何度も藤原が遊びに通った家でもある。
 その幼馴染の家を、彼の弔問のために訪れることになろうとは……。

 さして多くもない弔問客たちは、大半が華岡の両親の関係者だったようだ。
 落胆し、疲弊しきった様子ながら、気丈に対応する華岡の父親。
 その奥で、固く閉ざされた棺に取りすがる、半狂乱の母親。
 訪れる人々のことさえ目にも入らず、端麗な遺影の前で、ただただ鬼哭するばかりの母親の姿が、余りに痛まし過ぎた。

 結局棺の中の顔も見られないまま、早々に通夜の場を離れた藤原は、人通りのないこの路地裏にまで、引き揚げてきた。
 昔からよく知る母親の消耗し変わり果てた面差しが、藤原の瞼の裏に焼き付いてしまっている。その虚像を振り払うかのように、もう一度天を仰いだ藤原が、街灯の光の暈から夜闇へと三歩踏み出した。
 周囲が無人の境なのを確かめてから、彼が学生服のボタンを全て外し去る。袖の喪章も乱雑にはぎ取って、藤原が学生ズボンのポケットへと手を突っ込んだ。
 彼が再び出したその手には、白い紙巻き煙草と小さな燐寸の箱が握られている。

 煙草を口に咥えた藤原が、手慣れた仕草で燐寸を擦った。
 ほんの一瞬、藤原の顔が不安定な赤燈色に照らされる。だがその火灯りもすぐに消沈し、暗がりの中に煙草を貪る赤い光点だけが、息も絶え絶えの鬼火のように浮かび上がる。

 煙混じりの息を大きく吐きながら、藤原が満天に星の瞬く夜空を見上げた時、藤原の周囲で、わずかに空気が乱れた。
 何かが素早く遠のく気配。
 おもむろに近付いてくる、無視できない大きな存在感。その足音もなく歩み寄る明確な意思が、街灯の灯りの中に佇むのが知れる
 だが藤原は振り返らない。煙草を咥えたまま、彼は冷淡に言葉を投げかける。

「何か言いたそうだな」
 
 それに応えたのは、高く澄んだ女の声だ。

「こんばんは、藤原さん」

 落ち着き払った、穏やかな声。好意さえ滲む、懐の深い口調だ。 だがその響きには、底知れない哀しみと、わずかばかりの失望とが感じ取れる。
 しかし藤原は振り向かない。
 無言のまま背を向け続ける彼に、女性の声が静かに続ける。 

「とても残念な結果でした。お別れはできましたか?」

 何気ない言葉が、百貫の重みをもって藤原に圧し掛かる。
 表情を押し殺した表情を守り、藤原がゆっくりと振り向いた。

 地面にあいた丸い光の穴の中に立っているのは、白い服の女。小脇に丸めたポスターのようなものを抱えている。古道具屋の主人を名乗る、あの年齢不詳の女性だ。
 街灯のスポットライトを浴びて、女性の白い服が月光さえ霞むほどの清廉な光輝を宿している。その淡い朽葉色の瞳に溢れるばかりの悲哀を湛え、女性が静かに吐息をつく。

「あなたなら、華岡さんを止められると思ったのですが……」
「止めてはやったつもりだぜ、俺なりによ」

 諧謔的な苦笑を洩らし、藤原が煙草を唇から離す。
 鼻へ抜けるような失笑を交えて、彼は皮肉めいた仕草で肩をすくめた。

「あいつの人生じゃあ、あいつが主人公だ。俺は結局、タダの脇役ってことだからな。結果はどうあれ、あいつの望んだ道だ。俺はお呼びじゃあねえ。俺も残念だけどな……」
 
 藤原が煙の混じった深いため息を吐いた。
 指の間に挟んだ煙草の先から、火に生気を抜かれた灰が地面に落ちる。それに構うことなく、藤原が女性を正視した。跳ね返った態度と言葉ながら、真摯な熱の籠る声で彼が問う。

「それで、あいつに何が起こった? 大体の予想は付くんだけどよ、誰もが知らねえ顔しててな。一応、教えといてくれねえか? あんたは知ってるんだろ……?」

 藤原を見つめ、女性がうなずく。
 その唇から流れ出たのは、藤原への問いだった。

「お知りになりたいのですか……?」

 達観したかのような曖昧な笑みを浮かべ、女性はほんの少しだけ目を伏せる。

「”心得”のある藤原さんですから、お友達に何が起きたのか、お分かりのはず」
「だから”大体”って言ったろ」

 藤原も言い返した。言葉も表情も無機的に装い、彼が煙草を咥え直す。

「詳しいことは、実際に見なきゃ分からねえ。それに……」

 満天の星々を見上げた藤原が、白煙を孕んだ深い吐息をついた。

「どうせ誰もあいつの最期を見てねえんだろ? 俺くらいは死に様を見届けといてやらねえと、寂し過ぎるだろ。まあ『完結大魔王』には、相応しいかも知れねえがな……」
「分かりました」

 しんみりとした藤原の言葉を受けて、女性がもう一度うなずく。そして小脇に丸めた紙の筒を手に取ると、藤原に向かってするすると広げて見せる。

「よく御覧なさい。華岡さんが呼び寄せた、出来事の一部始終を」
 
 大きな紙のつるりとした表面が、藤原の前に露わになる。
 何も描かれていない、まっさらな紙だ。
 だがすぐにその紙面に、ぽつりぽつりと円い波紋が起き始めた。まるで雨滴が湖面を打つかのような、完全な真円の波が、紙の表を隈なく覆ってゆく。

 程なく、波紋に覆い尽くされた紙が、鏡さえ凌駕する完全な銀色の光輝を放ち始め、同時に藤原の視界も、目映い光に呑みこまれた。
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