六.
文字数 6,269文字
何の言葉も残さず、ただ黙って教室を立ち去った藤原。
ついて来いとも、どこへ行くとも、彼の明確な意志を表わす言葉も仕草も、何一つ見せないままに。ただ分かっているのは、藤原は教室を出るという親指の意志と、教室を出ていったという事実だけだ。
しかし華岡も、すっと椅子から立ち上がった。
藤原が何のために、どこへ向かったのか。華岡には、それが自分のことのように分かっていた。その自信に満ちた推論が正しいかどうか、いや、その正しさを自らに誇るべく、華岡も教室を出た。
廊下に溢れるのは、教室から飛び出した生徒たち。
決して長いとは言えない昼休み、弁当だけで終わらせるのは、あんまりにも残念過ぎる。
そんな若々しく快活な想いは、生徒たちの多くに共通している。そして、それは華岡も藤原でも、例外ではないのだ。
華岡は思い思いに行き来する生徒たちの間をすり抜けて、校舎を上へ上へと向かう。
ちらちらと見遣る女子たちの視線が、華岡の体にちくちくとマーカーを刺してくる。だがそんなものは、一切の無視を決め込む華岡。彼が目指すのは、この校舎の屋上だ。
しかし早朝と放課後、それに昼休みの屋上は、決まって誰かの根城になるという。
この四階建ての校舎の屋上は、高い金網のフェンスにぐるりと囲まれている。故意に金網をよじ登らない限り、転落の心配はない。とはいうものの、一方で体面と風評を恐れる学校側は、屋上へのドアを厳重に施錠していて、普通の生徒の侵入を断固として阻んでいる。
だがそこには、二種類の例外があった。
一つは、放課後に堂々と鍵を借りて屋上を占有する、”総合科学部天文課”のメンバーたち。
もう一つは、屋上への秘密の進入路を知っている、一部の生徒たち。つまり屋上をいかがわしい目的の舞台にしようとする、果敢で不埒な男子と女子だ。
さらに華岡は知っていた。
誰も立ち入ることのない極秘のポイントが、屋上の一角にあることを。そしてその存在と侵入経路に気付いているのは、藤原と自分だけだ、ということも。
独り四階に上がった華岡は、一番西の奥へと向かう。
突き当りを占めるのは、”生物室”と”生物準備室”だ。入口の引き戸が閉ざされている今、中の様子は見えない。だが、この高校の生徒なら、誰もが知っている。この生物室と準備室の中には、剥製や骨格標本、それにホルマリン漬けの遺骸がずらりと並び、常に防腐剤や保存料の異様な臭気が立ち込めているのだ。
さらに周囲の薄暗さと静けさ、それに不気味さもあいまって、この界隈に好んで寄り付く生徒は、ごくごく一部を除き、ほぼ絶無に近い。
その例外が、果敢にして不埒な男女、それに藤原と華岡たちだ。
華岡は、化学準備室の手前の壁にある引き戸の前で立ち止った。男子トイレだ。
がらりと戸を開けても、薄暗いトイレには誰もいない。ただ白い便器と無人の個室が並んでいるだけだ。
彼は、その個室の上の天井に目を向けた。
石膏ボードの天井板には、よくよく見れば何気なく四角い枠が付いている。五十センチ四方ばかり、収納式の小さな取っ手が付いた、管理用の落とし戸だ。
その落とし戸こそが、トイレの天井裏から屋上へと通じる管理用通路の出入口であり、この学校の限られた生徒だけが知っている、”自由への抜け穴”に他ならない。
だが華岡は屋上への扉を無視して、奥の開け放たれた窓へと向かう。
全開にされた擦りガラスの窓からは、学校の裏手に広がる住宅地がよく見える。
そんな窓から身を乗り出して、華岡が校舎の外壁へと目を向けた。
と、そこにあるのは、壁面を穿つようにして造りつけられたタラップだ。
屋上の一角へと通じる保全用の設備らしく、存在に気付いている生徒は皆無に等しい。
華岡はためらうことなく窓枠によじ登り、タラップへと手を延ばす。
砂埃に塗れた鉄の棒をしっかりと握り締め、彼は上へ上へと登ってゆく。
そうして垂直の外壁を登攀すること、わずか二十秒ばかり。屋上の縁に肘を掛けた華岡の目の前へ、手が差し伸べられた。
「よお、来たか」
藤原だ。
屋上の縁にぶら下がった恰好の華岡に、彼が右手を差し出している。
左手には先の齧り取られた焼きそばパン、学生服のポケットにはストローが刺さったままのブリックパックが覗く。黒と茶色のパッケージ、あれはコーヒー牛乳だ。いつの間にか購買で買ってきたのだろう。
素直に手を延ばした華岡の掌を、藤原の手が掴む。
体躯の割には、存外に握力のある藤原。華岡も、つい思いっきり彼の手を握る。やはり手に馴染んだ藤原の手が、何となくこそばゆい。
そうして屋上へと這い上がった華岡は、屋上の縁に立つ。
高校の周りを囲む甍の海が、割と遠くまで見渡せる。その遥か彼方に連なる山並みも、今日は背景の青天によく映える。
この校内の秘境にたどり着いたという達成感、それに秘境からの眺望を占有しているというちょっとした優越感が、華岡の口元をわずかに綻ばす。
すらりとした痩身を大きく伸ばす華岡。ほんの少し、無心に佇んでしまった彼の背に、藤原の声が飛ぶ。
「んで、何だったんだ? 華岡」
「何のことだ?」
問いを質問で押し返し、華岡は振り向いた。
口火を切った藤原は、冷蔵庫にも似た大きな機械にもたれ掛かっている。
彼の背丈よりも高い、エアコンの室外機だ。今は稼働していないのか、沈黙を守る幾つもの室外機が、藤原の後ろにずらりと並んでいる
そのさらに後ろに覗くのは、宙に浮いたような巨大なキューブ状の物体。鋼鉄製の四本の脚で支えられた、そのアイヴォリーホワイトの立方体は、太い配管で校舎とつながっている。
そんな幾何学的な白い装置が整然と並ぶさまは、対局寸前のチェスの駒のようだ。
この校舎の空調と水槽を集めた無機的な空間は、さらに灰色の隔壁で周囲から完全に隔絶された、秘された屋上の隠里と称しても過言ではない。
室外機に背中を預けて佇む藤原が、焼きそばパンに喰い付いた。
もさもさとパンを頬張りながら、彼は起伏のない言葉を華岡に向かって投げてくる。
「俺が聞きたいのは、今朝、お前が準備室に来た理由だ。俺たちが組んでるプログラムを見に来たワケじゃないだろ」
藤原の黒いまなこが、離れた華岡を見上げるように凝視する。
「昨日、あれから何かあったな? 言ってみろ。念の為に言っとくけどよ、隠したってムダだぜ。お前の事なら、そのくらいお見通しだ」
無感情に、しかし無遠慮に言い捨てた彼のその視線にも、感情らしい感情は見たらない。だが金属塊から削り出したような粗く容赦のない鋭利さが、華岡の胸を甚く抉り抜く。
長い付き合いだからこそ口に出せる、苦みを帯びた飾らない言葉。だが、その煮詰められた灰汁を求めて、華岡はこの隠里まで藤原を追ってきたのだ。
ほんの刹那、愁眉を寄せた華岡だったが、すぐに表情を元に戻す。藤原からわずかに視線を逸らせ、彼はぽつりと洩らした。
「『メフォストーフィレス』……」
藤原の視線がぴくりと揺れ、顎の動きが止まった。が、すぐに彼の口は動き出す。
ごくり、とパンを呑み下した藤原。じゅるる、とコーヒー牛乳を啜ったストローが、泥の色に一瞬染まる。
ぷふっ、と小さな息を吐き、藤原が華岡を正視した。
困惑したような、それでいて面白そうな、諧謔的な色が藤原の両目に満ちてくる。
「いきなり『メフォストーフィレス』ときたか。”オカルトノンケ”のお前から、そんな言葉が出るとはなー」
「何だその『オカルトノンケ』って。そんな言葉、初めて聞いた」
華岡が憮然とした目付きを装う。
だが彼の形ばかりの文句など、藤原にはそよ風ほどにも響かないようだ。鼻へと抜ける例の笑いを洩らしつつ、藤原が華岡を促す。
「悪魔にでも出喰わしたってか? とにかく順に話してみろよ」
「あ? ああ。昨日……」
藤原がどんな反応を示すのか想像を巡らせながら、華岡は昨日の午後に遭遇した出来事を事細かに語って聞かせる。
いきなりの夕立から逃れた先が、曰くに満ちた骨董屋だったこと。
その骨董屋は、”古道具屋”の女性と知り合いらしいこと。
華岡の望みを聞き、骨董屋が一枚の肖像画を差し出してきたこと。
そして、華岡が望みを叶えたいなら肖像画にサインを記すこと。
さらに、骨董屋の主人は署名を留保した華岡をまだ待っていること……。
数分かけて、噛んで含めるように語った華岡。
ふっ と 小さく息をついた彼は、改めて藤原を見つめる。
「藤原、どう思う……?」
つい声を潜めて最後に問い、華岡は返事を待つ。
この幼馴染の少年が、華岡の異常な話を聞いてどんな反応を示すのか。華岡の腹の底に、妙な期待感がじわりと蟠る。
しかし藤原は、黙々と焼きそばパンを食べ続けるばかりだ。彼の半分閉じたような目は、焦点をどこかに忘れてきたかのように、定まらず頼りない。ただもしゃもしゃという彼の咀嚼音だけが響く、異様な雰囲気の隠里だった。
しばらくの間、口を閉じて待つ華岡だったが、だんだんと気分が焦げ付いてくる。
彼が文句を言おうと息を吸った時、藤原の焼きそばパンは、全て彼の胃の中に収まった。
同時に、藤原が華岡へと向き直る。
「結構な話じゃねえか」
「それだけか?」
あらゆる想像を斜め上まで突き抜けた、藤原の一言。
拍子抜けを通り越し、苛立ちさえ覚える華岡だった。
……ありえない話を聞かせてやったのに、本気で悩んでいるのに。
たったそれだけの不真面目な言葉しか出てこないとは。
さすがに湧き上がる憤りが、華岡の端麗な顔を灼きかけた。
そんな彼の内心の怒りを知ってか知らずか、藤原が皮肉めいた仕草で肩をすくめる。
「何にしたって、普通に考えたら、お前の突拍子もない夢を叶える方法なんざ、ありゃしねえんだからよ。それこそ『ドリアン=グレイ』みてえな怪談話か、血液交換みてえなSF話でしかありえねえ」
藤原の揶揄は、しかし正しい。
胡散臭い骨董屋の怪談話など、真に受ける方がどうかしているのだ。
うなだれかけた華岡の耳に、藤原の軽口が追い打ちを掛ける。
「ああ、もう一つあるか。お前の容姿を今のままに留めとく方法が」
「もう一つ?」
顔を持ち上げた華岡に、藤原がにやりと笑う。
得体の知れない何かを抱え込んだ、どことなく哀愁の漂う昏い笑いだ。強いて言うなら、愁いを強要されたピエロの作り笑いに印象は似ている。
「今すぐ死ねば、この先ずっと飾ってもらえるお前の遺影は、若いままだぜ」
華岡は絶句した。
余りといえばあんまりな藤原の暴言。
だが華岡の不満は、すぐに込み上げる苦笑へと取って代わられる。
そうだ、この藤原の気安い悪辣さこそが、華岡の求めていたものだ。藤原が纏う、この捻くれ者のベールをめくりさえれば、彼が隠す妖しい神髄が、露わになる。
華岡だけが知るだろう、藤原の内面が。
藤原が自嘲的な苦笑を洩らす。
首をすくめ、決まり悪そうにブリックパックのストローを咥えた。じゅるー、こぽこぽとおかしな音が辺りに小さく広がる。
「悪いな」
一言だけ詫びて、藤原が華岡をちらりと一瞥する。
「今のはほんの冗談だ。そんなに怒るなって」
華岡も、浮かんだ疑念を留めたままの視線を藤原に注ぐ。
そして気怠い仕草を装いながら、傍らの室外機にもたれ掛かった。薄く埃を被った象牙色の蓋板に立ったまま軽く頬杖をつき、彼は藤原に挑戦的に問う。
「それならお前の本気の所を聞かせてみなよ」
「いいのか? 不幸になるぞ」
「望むところだ、と言えばいいか?」
華岡の返した言葉を受け止めて、藤原の口の端がわずかに吊り上がる。
だが諦めにも似た苦笑はすぐに消え、藤原は華岡から目を逸らした。飲み干したブリップパックをくしゃりと握り潰し、わずかに細めた斜視で、藤原は虚空を睨む。
「お前が遇った骨董屋、ホンモノしか置かねえ店でよ。あちこちに支店みてえな店が散らばってる。本店は知らねえけどな。でも固定客は多いらしくてよ」
「知り合いか?」
しかし藤原は、首を縦にも横にも振らず、ただ曖昧に笑う。
「いや、取り立てて言うほどの知り合いじゃあねえよ。ウチとは昔っから付き合いがあるらしいけどな」
「あの古道具屋の女の人とは、また違うのか?」
「違うんだ」
短く答え、藤原は肩をすくめた。
「俺とは付き合いが浅くて、よく分からねえけどな。とにかく違うんだってよ。ただ連中から、同じ話を聞いたことがあってな……」
藤原が目を伏せた。
その表情は、何か好くない記憶を手繰るときのように、アンニュイでメランコリックだ。
「アイツらが言うには、人間が一生に持てる物の数は、あらかじめ決まってるんだってよ。始まりの日に創られたモノの数が、初めから決まっていたように」
藤原の言葉の意図は全く理解できないが、華岡の胸をざわざわと隙間風が吹き抜けた。同時に何とも言えない興奮めいた熱気が、その隙間にゆらゆらと這入り込むんでくる。
……そう、このどこから来るのか分からない藤原の深淵の知識が、何とも言えず華岡を魅了する。同級生ばかりか、周囲の誰も持ち合わせない、藤原だけが持つ奇妙で癖になる毒気。
混淆した不安と興奮が、華岡の怪訝な眼差しを生成する。
「どういう意味だ?」
「さあな。ただ”何かを手に入れれば何かを失くす”。そういうものなんだそうだぜ、この世ってヤツは」
無関心風に答えた藤原が、何故か深い吐息をつく。その黒い目は、華岡を見ない。
「あの骨董屋、嘘はつかねえヤツだ。お前がそうしたいってんなら、信用してみろ。ただ一つだけ、忠告はしておいてやるよ」
「忠告?」
一言をなぞった華岡に、藤原が人工的な口調で問い返す。
華岡に戻された彼の目も、感情を抑え込んだ人工的な陰が被さっている。
「あの骨董屋、お前にメフィストみてえに代償を要求しなかったろ。何でか分かるか?」
「何故って、理由があるのか?」
わずかに、しかし藤原は真摯にうなずく。
「その必要がねえからだ。不自然に足された分は、自然と差っ引かれるってよ。勝手にそうなるから、骨董屋が回収する必要はねえ。逆に先に引かれた分は、後で戻ってくるそうだぜ」
藤原が、潰したコーヒー牛乳のパックを学生服のポケットにねじ込んだ。
「繰り返しになるけどよ、あの骨董屋の物は全部ホンモノだから、お前の望みは叶うだろ。何がどう清算されるかは、俺も知らねえけどよ」
藤原が、華岡を正視した。
一瞬、ひどく寂しげな色が彼の目を覆ったように映ったが、それはすぐに消えた。普段どおりの皮肉めいた調子で肩をすくめ、藤原が軽口を叩く。
「ま、ドリアン=グレイみてえな結末にならねえようにな。いくら俺でも、お前の遺影なんざ、まだ見たくねえからよ。まあ親が死んでも、俺は泣かねえ自信があるけどな……」
嘯いた藤原が華岡の肩をポンと叩く。
「そろそろ教室に戻ろうぜ。五限目が始まるからよ」
ついて来いとも、どこへ行くとも、彼の明確な意志を表わす言葉も仕草も、何一つ見せないままに。ただ分かっているのは、藤原は教室を出るという親指の意志と、教室を出ていったという事実だけだ。
しかし華岡も、すっと椅子から立ち上がった。
藤原が何のために、どこへ向かったのか。華岡には、それが自分のことのように分かっていた。その自信に満ちた推論が正しいかどうか、いや、その正しさを自らに誇るべく、華岡も教室を出た。
廊下に溢れるのは、教室から飛び出した生徒たち。
決して長いとは言えない昼休み、弁当だけで終わらせるのは、あんまりにも残念過ぎる。
そんな若々しく快活な想いは、生徒たちの多くに共通している。そして、それは華岡も藤原でも、例外ではないのだ。
華岡は思い思いに行き来する生徒たちの間をすり抜けて、校舎を上へ上へと向かう。
ちらちらと見遣る女子たちの視線が、華岡の体にちくちくとマーカーを刺してくる。だがそんなものは、一切の無視を決め込む華岡。彼が目指すのは、この校舎の屋上だ。
しかし早朝と放課後、それに昼休みの屋上は、決まって誰かの根城になるという。
この四階建ての校舎の屋上は、高い金網のフェンスにぐるりと囲まれている。故意に金網をよじ登らない限り、転落の心配はない。とはいうものの、一方で体面と風評を恐れる学校側は、屋上へのドアを厳重に施錠していて、普通の生徒の侵入を断固として阻んでいる。
だがそこには、二種類の例外があった。
一つは、放課後に堂々と鍵を借りて屋上を占有する、”総合科学部天文課”のメンバーたち。
もう一つは、屋上への秘密の進入路を知っている、一部の生徒たち。つまり屋上をいかがわしい目的の舞台にしようとする、果敢で不埒な男子と女子だ。
さらに華岡は知っていた。
誰も立ち入ることのない極秘のポイントが、屋上の一角にあることを。そしてその存在と侵入経路に気付いているのは、藤原と自分だけだ、ということも。
独り四階に上がった華岡は、一番西の奥へと向かう。
突き当りを占めるのは、”生物室”と”生物準備室”だ。入口の引き戸が閉ざされている今、中の様子は見えない。だが、この高校の生徒なら、誰もが知っている。この生物室と準備室の中には、剥製や骨格標本、それにホルマリン漬けの遺骸がずらりと並び、常に防腐剤や保存料の異様な臭気が立ち込めているのだ。
さらに周囲の薄暗さと静けさ、それに不気味さもあいまって、この界隈に好んで寄り付く生徒は、ごくごく一部を除き、ほぼ絶無に近い。
その例外が、果敢にして不埒な男女、それに藤原と華岡たちだ。
華岡は、化学準備室の手前の壁にある引き戸の前で立ち止った。男子トイレだ。
がらりと戸を開けても、薄暗いトイレには誰もいない。ただ白い便器と無人の個室が並んでいるだけだ。
彼は、その個室の上の天井に目を向けた。
石膏ボードの天井板には、よくよく見れば何気なく四角い枠が付いている。五十センチ四方ばかり、収納式の小さな取っ手が付いた、管理用の落とし戸だ。
その落とし戸こそが、トイレの天井裏から屋上へと通じる管理用通路の出入口であり、この学校の限られた生徒だけが知っている、”自由への抜け穴”に他ならない。
だが華岡は屋上への扉を無視して、奥の開け放たれた窓へと向かう。
全開にされた擦りガラスの窓からは、学校の裏手に広がる住宅地がよく見える。
そんな窓から身を乗り出して、華岡が校舎の外壁へと目を向けた。
と、そこにあるのは、壁面を穿つようにして造りつけられたタラップだ。
屋上の一角へと通じる保全用の設備らしく、存在に気付いている生徒は皆無に等しい。
華岡はためらうことなく窓枠によじ登り、タラップへと手を延ばす。
砂埃に塗れた鉄の棒をしっかりと握り締め、彼は上へ上へと登ってゆく。
そうして垂直の外壁を登攀すること、わずか二十秒ばかり。屋上の縁に肘を掛けた華岡の目の前へ、手が差し伸べられた。
「よお、来たか」
藤原だ。
屋上の縁にぶら下がった恰好の華岡に、彼が右手を差し出している。
左手には先の齧り取られた焼きそばパン、学生服のポケットにはストローが刺さったままのブリックパックが覗く。黒と茶色のパッケージ、あれはコーヒー牛乳だ。いつの間にか購買で買ってきたのだろう。
素直に手を延ばした華岡の掌を、藤原の手が掴む。
体躯の割には、存外に握力のある藤原。華岡も、つい思いっきり彼の手を握る。やはり手に馴染んだ藤原の手が、何となくこそばゆい。
そうして屋上へと這い上がった華岡は、屋上の縁に立つ。
高校の周りを囲む甍の海が、割と遠くまで見渡せる。その遥か彼方に連なる山並みも、今日は背景の青天によく映える。
この校内の秘境にたどり着いたという達成感、それに秘境からの眺望を占有しているというちょっとした優越感が、華岡の口元をわずかに綻ばす。
すらりとした痩身を大きく伸ばす華岡。ほんの少し、無心に佇んでしまった彼の背に、藤原の声が飛ぶ。
「んで、何だったんだ? 華岡」
「何のことだ?」
問いを質問で押し返し、華岡は振り向いた。
口火を切った藤原は、冷蔵庫にも似た大きな機械にもたれ掛かっている。
彼の背丈よりも高い、エアコンの室外機だ。今は稼働していないのか、沈黙を守る幾つもの室外機が、藤原の後ろにずらりと並んでいる
そのさらに後ろに覗くのは、宙に浮いたような巨大なキューブ状の物体。鋼鉄製の四本の脚で支えられた、そのアイヴォリーホワイトの立方体は、太い配管で校舎とつながっている。
そんな幾何学的な白い装置が整然と並ぶさまは、対局寸前のチェスの駒のようだ。
この校舎の空調と水槽を集めた無機的な空間は、さらに灰色の隔壁で周囲から完全に隔絶された、秘された屋上の隠里と称しても過言ではない。
室外機に背中を預けて佇む藤原が、焼きそばパンに喰い付いた。
もさもさとパンを頬張りながら、彼は起伏のない言葉を華岡に向かって投げてくる。
「俺が聞きたいのは、今朝、お前が準備室に来た理由だ。俺たちが組んでるプログラムを見に来たワケじゃないだろ」
藤原の黒いまなこが、離れた華岡を見上げるように凝視する。
「昨日、あれから何かあったな? 言ってみろ。念の為に言っとくけどよ、隠したってムダだぜ。お前の事なら、そのくらいお見通しだ」
無感情に、しかし無遠慮に言い捨てた彼のその視線にも、感情らしい感情は見たらない。だが金属塊から削り出したような粗く容赦のない鋭利さが、華岡の胸を甚く抉り抜く。
長い付き合いだからこそ口に出せる、苦みを帯びた飾らない言葉。だが、その煮詰められた灰汁を求めて、華岡はこの隠里まで藤原を追ってきたのだ。
ほんの刹那、愁眉を寄せた華岡だったが、すぐに表情を元に戻す。藤原からわずかに視線を逸らせ、彼はぽつりと洩らした。
「『メフォストーフィレス』……」
藤原の視線がぴくりと揺れ、顎の動きが止まった。が、すぐに彼の口は動き出す。
ごくり、とパンを呑み下した藤原。じゅるる、とコーヒー牛乳を啜ったストローが、泥の色に一瞬染まる。
ぷふっ、と小さな息を吐き、藤原が華岡を正視した。
困惑したような、それでいて面白そうな、諧謔的な色が藤原の両目に満ちてくる。
「いきなり『メフォストーフィレス』ときたか。”オカルトノンケ”のお前から、そんな言葉が出るとはなー」
「何だその『オカルトノンケ』って。そんな言葉、初めて聞いた」
華岡が憮然とした目付きを装う。
だが彼の形ばかりの文句など、藤原にはそよ風ほどにも響かないようだ。鼻へと抜ける例の笑いを洩らしつつ、藤原が華岡を促す。
「悪魔にでも出喰わしたってか? とにかく順に話してみろよ」
「あ? ああ。昨日……」
藤原がどんな反応を示すのか想像を巡らせながら、華岡は昨日の午後に遭遇した出来事を事細かに語って聞かせる。
いきなりの夕立から逃れた先が、曰くに満ちた骨董屋だったこと。
その骨董屋は、”古道具屋”の女性と知り合いらしいこと。
華岡の望みを聞き、骨董屋が一枚の肖像画を差し出してきたこと。
そして、華岡が望みを叶えたいなら肖像画にサインを記すこと。
さらに、骨董屋の主人は署名を留保した華岡をまだ待っていること……。
数分かけて、噛んで含めるように語った華岡。
ふっ と 小さく息をついた彼は、改めて藤原を見つめる。
「藤原、どう思う……?」
つい声を潜めて最後に問い、華岡は返事を待つ。
この幼馴染の少年が、華岡の異常な話を聞いてどんな反応を示すのか。華岡の腹の底に、妙な期待感がじわりと蟠る。
しかし藤原は、黙々と焼きそばパンを食べ続けるばかりだ。彼の半分閉じたような目は、焦点をどこかに忘れてきたかのように、定まらず頼りない。ただもしゃもしゃという彼の咀嚼音だけが響く、異様な雰囲気の隠里だった。
しばらくの間、口を閉じて待つ華岡だったが、だんだんと気分が焦げ付いてくる。
彼が文句を言おうと息を吸った時、藤原の焼きそばパンは、全て彼の胃の中に収まった。
同時に、藤原が華岡へと向き直る。
「結構な話じゃねえか」
「それだけか?」
あらゆる想像を斜め上まで突き抜けた、藤原の一言。
拍子抜けを通り越し、苛立ちさえ覚える華岡だった。
……ありえない話を聞かせてやったのに、本気で悩んでいるのに。
たったそれだけの不真面目な言葉しか出てこないとは。
さすがに湧き上がる憤りが、華岡の端麗な顔を灼きかけた。
そんな彼の内心の怒りを知ってか知らずか、藤原が皮肉めいた仕草で肩をすくめる。
「何にしたって、普通に考えたら、お前の突拍子もない夢を叶える方法なんざ、ありゃしねえんだからよ。それこそ『ドリアン=グレイ』みてえな怪談話か、血液交換みてえなSF話でしかありえねえ」
藤原の揶揄は、しかし正しい。
胡散臭い骨董屋の怪談話など、真に受ける方がどうかしているのだ。
うなだれかけた華岡の耳に、藤原の軽口が追い打ちを掛ける。
「ああ、もう一つあるか。お前の容姿を今のままに留めとく方法が」
「もう一つ?」
顔を持ち上げた華岡に、藤原がにやりと笑う。
得体の知れない何かを抱え込んだ、どことなく哀愁の漂う昏い笑いだ。強いて言うなら、愁いを強要されたピエロの作り笑いに印象は似ている。
「今すぐ死ねば、この先ずっと飾ってもらえるお前の遺影は、若いままだぜ」
華岡は絶句した。
余りといえばあんまりな藤原の暴言。
だが華岡の不満は、すぐに込み上げる苦笑へと取って代わられる。
そうだ、この藤原の気安い悪辣さこそが、華岡の求めていたものだ。藤原が纏う、この捻くれ者のベールをめくりさえれば、彼が隠す妖しい神髄が、露わになる。
華岡だけが知るだろう、藤原の内面が。
藤原が自嘲的な苦笑を洩らす。
首をすくめ、決まり悪そうにブリックパックのストローを咥えた。じゅるー、こぽこぽとおかしな音が辺りに小さく広がる。
「悪いな」
一言だけ詫びて、藤原が華岡をちらりと一瞥する。
「今のはほんの冗談だ。そんなに怒るなって」
華岡も、浮かんだ疑念を留めたままの視線を藤原に注ぐ。
そして気怠い仕草を装いながら、傍らの室外機にもたれ掛かった。薄く埃を被った象牙色の蓋板に立ったまま軽く頬杖をつき、彼は藤原に挑戦的に問う。
「それならお前の本気の所を聞かせてみなよ」
「いいのか? 不幸になるぞ」
「望むところだ、と言えばいいか?」
華岡の返した言葉を受け止めて、藤原の口の端がわずかに吊り上がる。
だが諦めにも似た苦笑はすぐに消え、藤原は華岡から目を逸らした。飲み干したブリップパックをくしゃりと握り潰し、わずかに細めた斜視で、藤原は虚空を睨む。
「お前が遇った骨董屋、ホンモノしか置かねえ店でよ。あちこちに支店みてえな店が散らばってる。本店は知らねえけどな。でも固定客は多いらしくてよ」
「知り合いか?」
しかし藤原は、首を縦にも横にも振らず、ただ曖昧に笑う。
「いや、取り立てて言うほどの知り合いじゃあねえよ。ウチとは昔っから付き合いがあるらしいけどな」
「あの古道具屋の女の人とは、また違うのか?」
「違うんだ」
短く答え、藤原は肩をすくめた。
「俺とは付き合いが浅くて、よく分からねえけどな。とにかく違うんだってよ。ただ連中から、同じ話を聞いたことがあってな……」
藤原が目を伏せた。
その表情は、何か好くない記憶を手繰るときのように、アンニュイでメランコリックだ。
「アイツらが言うには、人間が一生に持てる物の数は、あらかじめ決まってるんだってよ。始まりの日に創られたモノの数が、初めから決まっていたように」
藤原の言葉の意図は全く理解できないが、華岡の胸をざわざわと隙間風が吹き抜けた。同時に何とも言えない興奮めいた熱気が、その隙間にゆらゆらと這入り込むんでくる。
……そう、このどこから来るのか分からない藤原の深淵の知識が、何とも言えず華岡を魅了する。同級生ばかりか、周囲の誰も持ち合わせない、藤原だけが持つ奇妙で癖になる毒気。
混淆した不安と興奮が、華岡の怪訝な眼差しを生成する。
「どういう意味だ?」
「さあな。ただ”何かを手に入れれば何かを失くす”。そういうものなんだそうだぜ、この世ってヤツは」
無関心風に答えた藤原が、何故か深い吐息をつく。その黒い目は、華岡を見ない。
「あの骨董屋、嘘はつかねえヤツだ。お前がそうしたいってんなら、信用してみろ。ただ一つだけ、忠告はしておいてやるよ」
「忠告?」
一言をなぞった華岡に、藤原が人工的な口調で問い返す。
華岡に戻された彼の目も、感情を抑え込んだ人工的な陰が被さっている。
「あの骨董屋、お前にメフィストみてえに代償を要求しなかったろ。何でか分かるか?」
「何故って、理由があるのか?」
わずかに、しかし藤原は真摯にうなずく。
「その必要がねえからだ。不自然に足された分は、自然と差っ引かれるってよ。勝手にそうなるから、骨董屋が回収する必要はねえ。逆に先に引かれた分は、後で戻ってくるそうだぜ」
藤原が、潰したコーヒー牛乳のパックを学生服のポケットにねじ込んだ。
「繰り返しになるけどよ、あの骨董屋の物は全部ホンモノだから、お前の望みは叶うだろ。何がどう清算されるかは、俺も知らねえけどよ」
藤原が、華岡を正視した。
一瞬、ひどく寂しげな色が彼の目を覆ったように映ったが、それはすぐに消えた。普段どおりの皮肉めいた調子で肩をすくめ、藤原が軽口を叩く。
「ま、ドリアン=グレイみてえな結末にならねえようにな。いくら俺でも、お前の遺影なんざ、まだ見たくねえからよ。まあ親が死んでも、俺は泣かねえ自信があるけどな……」
嘯いた藤原が華岡の肩をポンと叩く。
「そろそろ教室に戻ろうぜ。五限目が始まるからよ」