遂にメールが来ました

文字数 3,714文字

 翌日。

「お、おはようございます……」

 とりあえずやることはやった。主にメイクだけど。恐らくオバケにはなっていないはず。
 でも、怖くてアイメイクとやらはできなかった。マスカラとアイライナーって目に刺さりそうだ。服装は昨日買った仕事でも着ることができるパンツとカットソー。
 そして、シバシバしながらもコンタクトにしてきた。コンタクトにした利点は、眼鏡よりも視力矯正が良くなったことだろう。見易くなった。ただ、癖で時々眼鏡を上げようとして空振ってしまうけど。
 恐る恐る入った事務所。そこで、大抵の人が私を二度見するという現象が発生した。怖い。怪奇現象だと思われているのかもしれない。

「琴音⁉」

 突然の大きな声に思わず身体が飛び跳ねる。ゆっくり振り向くと、そこには翔太くんが目を大きくして固まっていた。

「翔太くん……」
「……すげぇ変わってて、びっくりした」

 翔太くんは少し離れた所に立っていたけど、そう言いながら私に近づいてくる。その声は心底驚いているというのがよく分かった。

「驚かしてごめんなさい……変、だよね?」

 千絵さんは翔太くんの反応を見てみなさいって言っていたけど、やっぱりダメなんだよ。こんな風に驚かしちゃうなんて。
 もしかして、自分では回避できたと思っていたけど、オバケ……オバケなのっ⁉

「違う。全然変じゃない。いいと思う……けど」
「けどっ⁉」

 けど、オバケ?

「いや、何でもない」
「え……」

 言葉を濁した翔太くんは気まずそうに私から目を逸らす。見るに耐えないということだろうか……。

「こら、翔太。琴音が誤解してショック受けてるよ」

 そこに千絵さんが来て、ポコンと翔太くんの頭を叩いた。

「痛ってぇ」
「千絵さん、いいんです。翔太くんは正直な反応してくれただけです」
「琴音、違う。素直にかわいいと思ってるよ。ちょっと予想以上にかわいくなってて驚いただけ」
「ありがとう、お世辞でも嬉しいです」
「お世辞じゃないって!」

 俯く私に焦って声を掛けてくれる翔太くん。 いいんだ。頑張るとは決めたけど、背伸びし過ぎてもいいことはないだろうし。私は地味が一番似合うから。

「翔太のバカッ。琴音、すっかり自信無くしちゃったじゃない。どうするのよ!」
「千絵さんが余計なことするからじゃないっすか! 琴音のかわいさは俺だけが知っていればライバルもできずに済んだのに……」
「余計なこと……」
「あああ、琴音、違うから!」

 右手で顔を覆って溜息を吐く千絵さんに、慌てふためく翔太くん。

「ううん、いいんです。気にしないで」

 安心させたくて笑って言ってみたけど、翔太くんが顔を顰めたのを見て失敗したんだと分かった。

「ああ、もう!」

 翔太くんはもどかしそうに声を上げたかと思ったら、もう一歩私の方に足を踏み出し、私の頬が翔太くんの両手に覆われて上を向かされる。
 突然目の前にきた翔太くんの顔は、先程までの慌てた表情ではなく、真剣で真っ直ぐな目をしていた。

「しょしょしょ、しょうた、くんっ⁉」
「琴音」
「は、はいっ」

 私の名前を呼ぶ翔太くんの声は、今まで聞いたことないくらい静かで、低くて男らしい。その双眸の奥がゆらりと揺れた気がした。

「すげぇかわいい。今までの琴音も充分かわいかったけど、益々かわいくなったから。よく似合ってるよ。だから、自信持て」
「翔太くん……お世」
「お世辞じゃない」

 まったく目を逸らさず、真剣な表情で言われると、流石にその言葉を嘘だと決めつけるのは悪い気がした。そして、遅れて今の状態に気付く。

 なんだ、この体勢はっ!
 ありえない。ありえないほど、近い!
 そして、私は今、翔太くんに触れられてる。しかも、両手で頬を覆われてる⁉
 キスもできちゃいそうなほど、近い!
 あ。もしかして、これって胸キュンシチュエーションでは?
 いやいや、現実逃避してちゃダメだ。

「ああああ、ちょ、翔太くん! ち、ちかっ、近いっ」
「俺の言うこと、信じる?」
「え?」
「俺がかわいい、似合ってるって言ってること、信じるかって言うの。素直に信じて、自信持ってくれるなら、この手を離してやる」
「えええええっ?」
「ほら、どうする? ずっとこのままでもいいの?」
「だだ、ダメ、だけど……」

 熱い! 心臓、痛い!
 ……限界。

 翔太くんは背が高いから顔同士はある程度離れてるけど、こんなにも男の人との距離が近いのは初めてで、頭の中は沸騰寸前だ。

 信じなかったら、離してもらえないの⁉

「琴音」
「ははははいっ、信じますっ。だから、離して!」
「よし……本当は離したくないけど、仕方ないな」
「え?」

 何か最後に呟かれた気がしたけど、今の私には確認する余裕はなくて。そして、ようやく私の顔は翔太くんの手から解放された。

「ほぼ告ってるのにね」
「ですね……ま、気付かないのが琴音というか。でも、俺も男って少しは分かったんじゃないっすかね」

 ホッと息を吐いた私の隣で、千絵さんがニヤケて翔太くんに声を掛けていたことにも気付かなかった。

 その日の夜。自宅に帰り、コンタクトから掛け慣れた眼鏡に変え、気を張る服装から部屋着に着替えた。

「疲れた……」

 たった一日、仕事に行っただけなのに、このとてつもない疲労感は何だ。
 結局、千絵さんと翔太くんとの会話の後からずっと先輩、後輩、パートやバイトの人、顔馴染みのお客様まで、ありとあらゆる人から声を掛けられまくった。
 初めは何事かと少し様子を見ていて声を掛けられなかったけど、千絵さん達と話している様子を見て、変化に触れていいのだと分かったらしい。皆、一様に『彼氏ができたんでしょう?』と笑顔で言った。
 私と翔太くんの様子を見て、私達が付き合い始めたんだと思った人もいた。それって、翔太くんに失礼だ。こんな私とでは不名誉なことに違いないし、翔太くんに彼女や好きな人がいたら迷惑以外の何物でもない。
 ベッドに勢いよく寝転んで、白い天井を見ながら大きく息を吐いた。
 あ、幸せが豪快に逃げたかも……。いや、そもそも今の幸せって何だろう。
 好きな仕事をさせてもらっていることだろうか。それとも片想いだけど、憧れている人がいるということだろうか。普通なら両想いになって、お付き合いして、結婚して。それで幸せって言うのかな。じゃあ、幸せのゴールって何処なんだろう。
 そんな自問をしていると、滅多に鳴ることのない携帯がメールの受信を知らせた。
 一気に速くなる鼓動。だって、メールをくれるような人なんて私には殆どいない。つまり、このメールの差出人はあの人の可能性が高いということになる。
 一瞬、緊張し過ぎて、携帯を何処かに隠して気付かなかったことにしてしまおうかと思った。

 こら、琴音。それは、人としてダメでしょう?

 部屋の真ん中に置いてあるローテーブルに手を伸ばす。携帯に触れる時になって、自分の手が震えていることに気付いた。それでも、なんとか携帯を持ち、ふうっと息を吐いてからメールを開いた。
 そのメールは予想通り、黒崎さんだった。とても簡潔な文面。冷たく感じてもおかしくないのに、不思議とそうは思えなかったのは、黒崎さんという人を知っているからか、丁寧さも併せて滲み出ているからか。
 その内容は、連絡が遅くなったことに対する謝罪と、黒崎さんが都合のいい日を何日かピックアップしているものだった。

「本当に映画に行ってくれるんだ……」

 夢?

 お決まりのようにそんな疑いを抱き、強めに叩いてみた額がジンジンする。それでようやく現実なんだと、嫌でも実感した。
 夢じゃないとすると、このメールに返事をして、映画を観に行く日を決定しなくてはいけない。
 私は本当に黒崎さんと二人きりに耐えられるのかな。ううん。何のために、千絵さんに手伝ってもらったんだ。千絵さんも翔太くんも自信を持てと言ってくれた。自分のことは信じられないけど、あの二人のことは信じてる。
 もしかしたらお世辞かもしれないという思いは捨てきれないけど、ここで一歩踏み出さなかったら何も変わらない。それに断ったりしたら、こうして約束を守って誘ってくれた黒崎さんにも悪いじゃないか。だから……。
 グッと拳に力を込めて深呼吸をしてから、私はメールの返事を作成した。
 黒崎さんの都合と、私の休みが合ったのはたった一日だけ。それを伝えたら、当然のことのように会うのはその日になった。
 遂に決戦の日は決まった。その日に私は借りたままになっている傘を返すつもりだったのに、黒崎さんはそれを見越していたように『荷物になるから、傘は別の機会でいいよ』と言ってきた。
 少なくとも、約束の日の他にあと一回、会うことが約束されたようだ。それは、私の職場である書店に、黒崎さんがお客さんとして来てくれる時のことかもしれないけど。
 それでも、やっぱり素直に嬉しくて、胸がキュンとする。好きな人とのささやかな約束一つでこんなにも舞い上がれるなんて、恋というものは私の想像以上に厄介で、心をぐるぐるに縛られるものなのかしれないと思わされた。
 この日から、私は当日まで毎日メイクの練習を頑張り、挫けそうになる心を振るい立たせながら過ごした。
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