第2話

文字数 2,358文字

 馬淵(まぶち)が、誘拐犯として田宮邸を訪れる二時間ほど前。
 公園のベンチに深く腰を下ろし、馬淵は長い溜息を何度も何度も繰り返していた。
 ギャンブル好きが高じて作った借金は、どうあがいても返せないほどの金額に膨れ上がっていた。これまでどうにか逃げおおせてきたが、それも、もう限界だった。明日までに利息分だけでも用意しなければ、どういう目にあわされるか分からない。マグロ漁船に乗せられるか、それとも臓器を抜き取られるのか――。どこか遠くの地へ逃亡することも考えたが、あいつらはどこまでも追ってくる。どこへ逃げたところで、とても逃げ切れるとは思えなかった。
 無限に圧される虚無感の中、馬淵は死への欲望さえ、抑えきれずにいた。
 頭を抱え、何十回目かの空息(からいき)をこぼしたころ、不意に子どもの声が鼓膜を揺する。
「……おじさん。どうしたの、元気ないね」
 誰もいないと思っていただけに、心臓が飛び跳ねるほどの衝撃を受けた。
「誰だ!」振り向いたと同時に声を上げた。目の前にはまだ小学生くらいの男の子が、如何にも興味津々といった具合に幼気な瞳を輝かせている。
 露骨に目を細め、あっちいけと言わんばかりに睨みを利かせた。少年はまったく動じる様子もなく、屈託のない表情をさらにくしゃくしゃにした。
「なにか嫌なことあったの? 今にも死にそうな顔して」
「うっせー! さっさと失せろ! さもないとぶっ殺すぞ!!」
 本当は胸ぐらを掴んで、眼(がん)の一つも飛ばしたかったのだが、もはやそんな気力さえ消え去っていた。そんな馬淵をあざ笑うかのように、少年は鼻をヒクつかせながら口をとがらせる。
「どうせ殺す気なんてないくせに」
「なんだと! ガキのくせにきいたふうな口きくんじゃねえ。ガキはガキらしく、家に帰って宿題でもしてろ!」頭に血が上り、反射的にこぶしを振り上げた。「お前、マジで殺されたくなかったら……」
「おじさん、お金、欲しくない? 大金が手に入る方法があるんだけど」
 えっ……?
 手が止まった。こんな幼気な子どもがそんな――。だが、すぐにハッタリだと思い直す。冗談に決まっているじゃないか。いい大人が、たかが子供のたわごとに怯むなど、羞恥の極み。たとえそれが一瞬であったとしてもだ。
「ああ、そうかい、そりゃすげえな。分かったからとっとと帰んな」
 こんなガキを相手にしている場合ではない。今はどうやって金を工面するか、それしか頭になかった。こうなったらコンビニでも襲うか。それとも空き巣にでも入って……。
「嘘じゃないよ。本当に大金が手に入るんだよ。しかも簡単に」
 うるさいガキだ。こうなったら、話だけでも聞いてやるかと思ったのは、ただ単に現実逃避したかっただけだったし、万が一、この子の言うことが本当だったら……という淡い期待がないわけでもなかった。
「で、どうやって金を儲けるんだい?」馬淵はからかい気味に言った。
「僕を誘拐して」
 えっ……!? 本日二度目の絶句である。あまりの突拍子のない話に、二の句どころか、三の句、四の句も告げないでいた。
「簡単でしょ。誘拐される僕自身が協力するんだから」
 つまりは狂言誘拐であると、ようやく納得した。何を言い出すかと思えば――。一瞬でも期待した自分が情けない。所詮はガキの虚言(たわごと)。そんな子供じみた遊戯に付き合っている場合ではなかった。
「お前と遊んでいる暇はない。誘拐ごっこなら友達とやれ」
 口を思い切り一文字に結びながら仁王立ちをし、少年はまっすぐな瞳を馬淵のそれにぶつけている。彼の真意はともかく、少なくとも冗談を言っているのではないと理解した。
「実は今朝、両親と喧嘩したんだ。今日だけでない。お父さんとお母さんはいつも僕をないがしろにして……。だから懲らしめてやりたいんだよ」子供とは思えない威風堂々とした姿に、つい、たじろいてしまいそうになった。
 なんでも、普段から父親の家庭内暴力がひどいらしく、母親といえば、父親の顔色ばかりを窺っていて、我が子である彼にはほとんど関心がないようだった。
「だが、本当にそう上手くいくもんかな? 実際の誘拐事件ではほとんど成功した事例がないっていうじゃないか」
 眉をひそめながらそう言うと、少年はえへんと胸を張った。
「それは警察が介入するからだよ。あっ、介入というのは間に入るという意味で……」
「それくらいは分かっている。お前、小学生のくせに、そんな難しい言葉を知っているんだな」
「逆を言えば、向こうに通報される時間を与えないようにすれば、必ず成功するってわけ。ちなみに迅速というのは……」
 最近の小学生は、皆、こうなのか。それともこの子が特別なのか。しかし、彼の考察はもっとだ。ドラマなどでの知識しかないが、誘拐における最大の関門は警察であり、相手が素人だけであれば、これほど容易な犯罪はないだろう。
 とはいえだ。
 いくら少年のためとはいえ、いち面識のない善良な一般市民から大金をせしめるのは気が引ける。別に正義感がどうこういうつもりはないが、自分が悪の道へと進むのに抵抗がないわけではない。そもそも、本当に大金なんて、そうすぐに用意できるものだろうか。馬淵のようなその日暮らしはともかく、現金は銀行に預けると考えるのが道理である。
 その旨を伝えると、少年は「大丈夫。心配しないで」と返事をした。
 彼の父親は大手リゾート会社の重役で、しかも親の資産を相当受け継いでいるらしく、かなりの株やお金を貯め込んでいるらしい。なので、多少、減ったところで全く問題ないとのことだった。それに常日頃から自宅の金庫に大金をしまっているから、わざわざ銀行から引き出す必要もない。これには馬淵も安心するとともに、やはり、あるところにはあるのだなと、ため息をついた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み