第9話 「私」は「神崎さん」の子供

文字数 2,648文字

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飛ぶ感覚はきっと楽しいものだ。
しかし、投げ飛ばされたのなら、話は別だ。

軌道は全てあなたのもの。
そして、その後の命や着陸地点についてまで。

そう神崎さんのもの。

神崎さんはしきりに、楓の腹を撫で続けた。
飛び方がわからなかったのもあるが、丁寧に抽出した「飛ぶ要素」そのものが、楓の腹から飛び出す恐れがあった。

円を描くように、上から下へ撫でおろすように、下腹部に半円を描くように、神崎さんは撫で続けていた。

肩にかかる神崎さんの体重は常に変化していた。
遠心力やら、重力やらの話ではないことは感覚でわかった。

神崎さんは体重ですら安定しなくなっている。

「ねえ!ねえ!?」

着地はどうするのかと、そう聞きたかった。
しかし、神崎さんには届かない。
膝と肩に手をまわして、赤ん坊を抱えるようにして、上下左右に曲がりながら滅茶苦茶に飛んでいるからだ。
なんとか神崎さんの肩をつかんで、口を近づける。

神崎さんはほおずりをしてきて、そのあと目をつぶった。
急速に降下したにも関わらずだ。

楓は声を出すのをやめた。
確かな衝撃の後、地面の中にもぐりこんだからだ。

首の骨は粉砕されてしまった。
胸も縦に潰れている。
視覚、触覚からくる違和感が、痛みに変わる瞬間。
その瞬間だけは心が無になり、視界が歪むはずだった。

「この衝撃から数秒間は生きているみたいね」
「大丈夫、すぐ直るわ」

首の中で何かがうごめく。
骨が勝手に戻っていく。
胸もゆっくりと広がっていく。

楓は先ほどの走馬灯を忘れてしまったことを、ひどく後悔した。
貴重な「死」を経験する機会だったのに。
一粒の死が、しっかりとそこにあったはずだったのに。


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神崎さんは、胸のポッケから茶色い布のようなものを取り出した。
飛び回ってみたものの、楓と話せないのではつまらない。
そういえば二人きりで話すことはまだ無かった。

茶色い布のようなものの名前は「マロン」。
確か...そうだった。
人懐っこい性格で、千歳によって元の家族と永遠に別れた。

その布は良く見ると蠢いていたし、暖かかった。
しかし、毛むくじゃらで、パカッと穴が開くとそこから舌が出てくるのである。

「うん、骨が直るにはしばらく待って欲しい」

「でもそろそろ食事にしたいから、運ばせてね」

楓の身体は治らない。
ただ元に直るのみである。

神崎さんは開けた大穴を何事も無く登り始める。
壁に手を付けると汚れてしまうので、足だけを使った。

垂直と言うものは良いもので、個人的なお気に入りである。
足の裏に吸い付く感覚は、千歳に出会うまで感じたことが無いものだった。

湯船にビニール袋を浮かべて、足を乗せる。
その感覚が一番近いが、肝心なのはビニール袋が上質な羽毛であることだ。

...夜だ。もう暗くなっている。

今まで気にしていなかったが、夜は下から来るようだ。
日の光は確かに上から来るが、影は大体の場合下にある。
足場を見るだけでも、案外面白いものだ。

まて、上から夜が来たらどうなる?



楓は目を覚ました。
久しぶりに目を閉じた気がする。

食事と神崎さんは言っていた。
少し楽しみだ。
...食べられるかは別として。

周囲を見回すと、足元が輝いていて暖かかった。


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太陽は地面に潜ろうとしている。
訳が分からないが、神崎さんの力だろう。
止めなければ、命が失われる以外の理由で説得しなくては。

「神崎さん!」

「おはよう。もうすぐ空は眠ってしまうけど、私たちは自由よ」
「食事にしましょう?」

「太陽が潜っているよ?止めないの?」

「夜は好きなの。それから夕焼けも」

境界とその前後。すなわちそれその物。

「美しいものほど説明が難しいわ」
「だからこそ、語ることは楽しい」

空の感覚が無い。
宇宙の中にいるようだ。しかし、これが地面だ。土も石も無いが地面なのだ。

自信が無いが、神崎さんは文字通り地面をひっくり返した。
適当な場所でキャンプをするように、私たちは普段地面を気にしない。

しかし、目前の、それも「上に沈む太陽」に違和感を持てない。
それが当たり前のように過ぎていく。

目前の崩壊を前にして、手を付けられない無力感はすぐに退屈さに戻ってしまった。


約束された終焉を前に、人間がどんな感情を持つのか?
楓はせめての気持ちで書き留めようとした。

自身の身体なら代謝が無い。
すぐそばに石灰が落ちていたのが何よりの幸運だった。

その後は溶けたことしかわからない。


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......。
「意思」は人体の中に存在する機能の一つだ。
脳の機能が生み出す生存の手段なのだ。
疲れたとき、病のとき、生存がかかるとき、人は固定的な行動をとる。
意思は死への予防策で、死がそばにいるときは優先順位が落とされる。

あなたは死の危険を予防するために食べものを買い、知識をつけ、表現と伝達の術を磨かないといけないと考えている。
あなたが自殺しようとしたとき身体が止めるのは、あなたが機能の一部であるからだ。
あなたは人間とは不可分の存在だが、人間ではない。
あなたは人間の一部で人間の臓器が生み出す機能の一つに過ぎないのだ。

「ねえ楓ちゃん」

「...なあに?」

「おいしい?」

「うん」

食事は生存の為の物だ。
でもお菓子は娯楽的な側面もあるから食べられる。
あと...食べられない物や、食べてはいけない者も「体内にしまえる」。

きっとこれは食べ物じゃない。

付近の色合いはひどく抽象的で、ぼやけている。
絵師がクレヨンを使ったように感じさせる。
しかし、世界がそうなっている以上「しっかりとした境界を持つ」ことに違和感を覚えてしまう。
ここにいて良いのだろうか?

「ねえ、神崎さん」

千歳だ。溶けている。自然な佇まいだ。

「私は帰るよ。もう諦めるよ」

「どうして?」

千歳は口から血を垂らしている。
演技ではない。
神崎さんが歪ませた世界が、千歳を殺している最中だからだ。

「ホームシックだよ」

「どうして?」

「ふ……ふ、人間らしいでしょ?」

「……」

口角が上がった。
本当に、本当に嬉しそうだ。

「いい嘘ね。質が良い」

千歳の身体が震える。

「規則性を持った動作が、組み合わさってできたランダムさ」

死を前にして、感情が吹き出す。
まだ、わずかだが逃げられる。
その考えが助かる為の、あの高速の思考を発生させる。

「千歳、おめでとう」
「あなたは最後の人間」

「え?私は宇宙人だよ?」

神崎さんは頬を少しつまむ。

「口角の上げ方が違うわよ。いつもより下がってる」

「変えたんだよ?」

「そうね、私が変えたんだから」
「あなたは気づきようが無い」

「……え?」

「言ったでしょ、人間になったのよ」
「おめでとう」

神崎さんの笑顔は「完璧」だった。


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